本庄日記
帝都大不祥事件
第一 騒亂ノ四日間
第一日 ( 昭和十一年二月二十六日 )
一、
二月二十六日午前五時頃、
猶ホ、睡眠中ナリシ繫ノ許ニ、歩兵第一聯隊ニ週番勤務中ナル、
女婿山口大尉ノ使ナリトテ、伊藤少尉周章シク來訪シ、面會ヲ求メシヨリ、
何事ノ出來セシヤヲ憂ヘツツ會見セシ処、
同少尉ハ、
『 聯隊ノ將兵約五百、制止シ切レズ、愈々直接行動ニ移ル、猶ホ、引續キ増加ノ傾向アリ 』
トノ驚クベキ意味ノ紙片、走リ書キ通知ヲ示ス。
繫ハ驚キ、即座ニ伊藤少尉ニ
萬難ヲ排シテ、此ノ如キ行動ヲ阻止スベク、山口ニ伝ヘヨ
ト指示セシニ、
少尉ハ已ニ出動濟ミナルヲ告グ。
繫ハ更ニ、
兎ニ角、輦轂れんこくノ下ニ許ス可ラザルノ事ナリ、猶ホ、之ガ制止ニ全力ヲ致スベク、
嚴ニ山口ニ傳フベク命ジ、同少尉ヲ還シ、
直チニ岩佐憲兵司令官ニ此事ヲ電話シ、更ニ宿直侍從武官中島少將ニ電話シタル後チ、
急ギ附近ノ自動車ヲ呼ビ、宮中ニ出勤ス。
途中、英國大使館前附近ニテ、約一中隊弱ノ部隊ニ遇ヒシガ、( ・・・安藤部隊 )
近衛ノ部隊ニアラザルヨリ推シテ、或ハ直接行動ニ出デタルモノニアラズヤト想像シタリ。
午前六時頃參内シ得シガ、
湯淺宮相、広幡大夫等 已ニ常侍官室ニ在リ、
齋藤内府、岡田首相、高橋蔵相、渡邊大将殺害サレ、
鈴木侍從長重傷、牧野前内府避難所不明トノ情報ヲ聽キ、
事體ノ愈々重大ナルヲ憂フ。
・
參内早々御政務室ニテ拝謁、
天機ヲ奉伺シ、容易ナラザル事件發生シ恐懼ニ耐ヘザル次第
ヲ 申上ゲシ処、
陛下ニハ非常ニ御深憂ノ御様子ニテ、
「 早ク事件ヲ終熄セシメ、禍ヲ轉ジテ福ト為セ 」
トノ御言葉を賜ハリ、且ツ、
「 武官長ノミハ嘗テ斯様ナコトニ至リハセヌカト申セシ 」
ト 仰セラレタリ。
繫ハ唯ダ恐縮シテ御前ヲ退下ス。
二、
續々武官府ニ蒐あつマレル情報ニ拠レバ、
直接行動ニ出デシ目的ハ、其趣意書ニ於テ、
『 内外重大危急ノ際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等ノ國體破壊ノ元兇ヲ芟除シ、
以テ大義ヲ正シ、國體ヲ擁護開顯セントスルニアル 』
ノ意味ヲ示セリ。
又 最初ニ傳ハレル參加部隊ハ左ノ如シ。
歩兵第一聯隊ノ二中隊約四百名、歩兵第三聯隊ノ五中隊約五百名、
近衛歩兵第三聯隊の中橋中尉以下三〇、野戰重砲兵第七聯隊の約一〇、
首脳者ハ野中大尉及安藤大尉ナリ云々。
右部隊ハ陸軍大臣官邸、陸軍省、參謀本部、警備司令部、警視廳等ヲ占領セル爲メ、
陸軍省、參謀本部ノ首脳部ハ憲兵司令部ニ集合、對策ヲ練ルコトトナレリ。
三、
午前八時前後ヨリ正午ニ亘リ、
伏見宮殿下ヲ始トシ、各軍事參議官、各大臣、各樞密顧問官等逐次參内アリ。
午前九時頃川島陸相參内、
何等意見ヲ加フルコトナク、單ニ情況
( 靑年將校蹶起趣意書ヲ附ケ加ヘ朗讀申上ゲタリ ) ヲ申述ベ、
斯ル事件ヲ出來シ、誠ニ恐懼ニ堪ヘザル旨ヲ奏上ス。
之ニ對シ、
陛下ハ
速ニ事件ヲ鎭定スベク 御沙汰アラセラル。
午後宮中ニ於テ閣議
( 岡田首相其職務ヲ執リ得ザル情況ニ在ルヲ以テ、
後藤内相、總理大臣臨時代理トシテ發令セラル。)
及ビ樞密院會議開催セラル。
陸軍々事參議官ハ宮中ノ一室ニ會合シ、
軍長老トシテ種々對策ニ腐心シ、川島陸相、杉山參謀次長等モ時々參加シ、
大體ニ於テ皇軍相撃ツコトナカラシメンコトニ苦慮シ、
先ヅ行動部隊ノ將校ヲ説得シテ、飜意ほんい歸順セシムルコトニ最大ノ努力ヲ拂ヒ、
説得文ヲ作成セリ、
同文ノ要旨ハ
諸氏ガ蹶起ノ趣旨ハ、天聽ニ達セラレタリ。
諸氏ノ眞意ハ、國體顯現ノ至情ニ出ヅルモノト認ム。
又、
此政改善ノ件ハ當路及軍長老ニ於テ之ガ遂行ニ努ントシツツアリ。
此以上ハ一ニ、大御心ニ拠ル
ト云フニ在リ。
而シテ、
此文書ハ單ニ行動部隊ノ將校ヲ説得スル爲ノモノニシテ、
公表スベキモノニアラザリシニ係ラズ、 警備司令部幕僚傳達ノ齟齬ニ拠リ、
「 諸氏ノ精神或ハ眞意 」 ト云フ意ヲ行動其モノトシ、
且之ヲ一般軍隊ニ下達スルノ失態ヲ演ジタルガ如シ。
而シテ、
各軍事參議官一同及山下軍事調査委員長、小藤大佐 ( 歩兵第一聯隊長 )、鈴木貞一大佐等ハ
此日夕、陸相官邸ニ於テ、右文意ニ拠リ、諄々行動部隊將校一同ヲ説得セシモ
遂ニ其目的ヲ達シ得ザリキ。
午後三時、第一師管戰時警備令下令セラル。
警備目的ハ、兵力ヲ以テ重要物件を警備シ、併テ一般ノ治安ヲ維持スルニ在リ。
東京警備司令部ハ、此戰時警備令ニ於テ、
第一師團長ハ、本朝行動シアル軍隊ヲモ含メ、昭和十年度いく時警備計畫ニ基キ、
所要ノ方面ヲ警備シ、治安ノ維持ニ任ズベシ。
ト 令シ、
叉 警備司令官ハ左ノ如キ告示ヲモ軍隊ニ下セリ。
本朝來出動シアル諸隊ハ、戰時警備部隊ノ一部トシテ、
新ニ出動スル部隊ト共ニ師管内ノ警備ニ任ゼシメルモノニシテ、
軍隊相互間ノ於テ絶對ニ相撃を爲スベカラズ。
尚ホ、宮中ニ於テ大臣等ハ、
現出動部隊ノ考ヘアル如キコトハ大ニ考ヘアリシモ、
今後ハ大ニ力ヲ入レ、之ヲ實行スル如ク會議シ、申合セヲ爲セリ。
如此命令、告示アリシニ拘ラズ、
事件鎭定直後、叛乱行爲ハ營門ヲ出タルトキヨリ始マルモノニシテ、
此種命令ハ一ノ鎭定方便ナリト主張セラレアリ。
然ラザレバ
右説得文ト云ヒ、
此命令告示ト云ヒ、
法律的ニハ皆、無作爲 叛乱幇助罪ヲ構成スト云フ。
四、
此日、海軍第一艦隊 第二艦隊ハ、各東京灣及大阪灣警備ノ爲メ 回航ヲ命ゼラレ、
横須賀警備戰隊ハ、東京警備ヲ命ゼラレ 午後遅ク芝浦ニ到着ス。
五、
此日遅ク、内務大臣ハ帝都及全國各地トモ一般治安ハ維持セラレ、人心動揺ナク平靜ナル旨發表ス。
六、
此日
陛下ニハ、
二、三十分毎ニ御召アリ、
事變ノ成行キヲ御下問アリ、
且ツ、鎭壓方督促アラセラル。
内大臣ハ襲撃ヲ蒙リ避難シ、侍從長ハ重傷ヲ負ヒ、加フルニ事、陸軍々人ノ行爲ニ属セルヨリ、
武官長専ラ御下問ノ衝ニ當リ、責任ノ正ニ重大ナルヲ感ゼリ。
此夜、
陛下ハ 御前二時ニ至リ、猶ホ 御召アラセラレタリ。
自然御格子ハ同時以後ニ渡ラセラレシモノト拝ス。
實ニ恐懼ノ至リナリキ。
広幡皇后宮大夫ハ御下問ニ對シテハ、全ク不案内ノ事柄ニシテ奉答シ得ズト爲シ、
湯淺宮相ニ内大臣ノ氣持ニテ奉仕センコトヲ述ベシモ、
宮相ハ政治ニ干与スベキニアラズト躊躇セリ。
併シ、宮相ハ自室ニ於テハ、
御上ノ御下問ニモ、勢ヒ奉答スルコトトナリ、叉事件發生以來、宮アタリニ起居セル一木前宮相等モ、
裏面的ニ種々奉仕ヲ爲スコトトナレリ。
武官長ハ勿論、右各側近者モ凡テ此日ヨリ新内閣成立ノ日マデ宮中ニ宿泊セリ。
第二日 (二月二十七日)
一、
午前一時過、内閣ハ總辞職スルコトニ決定シ、後藤内相臨時首相代理トシテ各閣僚ノ辭表ヲ取纏メ、
早朝闕下ニ捧呈セシガ
聖旨ニ依リ、後藤内閣成立マデ政務ヲ見ルコトトナレリ。
陛下ニハ、最モ重キ責任者タル、川島陸相ノ辭表文ガ、
他閣僚ト同一文面ナルコトヲ指摘遊バサレ、
彼ノ往年虎ノ門事件ニテ内閣總辞職ヲ爲セル時、
當ノ責任者タル、後藤内相 ( 新平 ) ノ辭表文ハ一般閣僚ノモノト全ク面目ヲ變エ、
實ニ恐懼ニ耐ヘザル心情ヲ吐露シ、一旦脚下セルニ更ニ、熱情ヲ罩こメ、
到底現狀ニ留マリ得ザル旨奏上セルノ事實ニ照シ、
不思議ノ感ナキ能シズトノ意味ヲ漏ラサレタリ。
當時、武官長ハ陸相ノ辭表ハ内閣ニテ豫メ準備セルモノニ署名シ、
同時捧呈セルモノニシテ、何レ改メテ御詫ビ申上グルモノト存ズル旨奉答ス。
二、
午前二時五十分、
戒嚴令公布セラレ、
警備司令官香椎浩平中將戒厳司令官ニ任ゼラル。
此戒嚴令ハ勿論、樞密院ノ諮詢しじゅんヲ經テ、勅令ヲ以テ公布セラレタルモノニシテ、東京市ナル一定ノ區域ニ限ラレタリ。
此日、行動部隊ハ依然參謀本部、陸軍省、首相官邸、山王ホテル等ニ在リ、
御前十時半頃ヨリ、近衛師團ヲ半蔵門、赤坂見附ノ線、
第一師團ヲ赤坂見附、福吉町、虎ノ門、日比谷公園ノ線ニ配置シ、占據部隊ノ行動擴大ヲ防止セシム。
弘前ニ御勤務中ノ秩父宮殿下ニハ、此日御上京アラセルルコトトナリシガ、
高松宮殿下大宮駅マデ御出迎アラセラレ、帝都ノ狀況ヲ御通知アラセラレタル後チ、相伴ハレ先ヅ眞直グニ參内アラセラレタリ。
此ハ宮中側近者等ニ於テ、若シ、殿下ニシテ其御殿ニ入ラセラルルガ如キコトアリシ場合、
他ニ利用セントスルモノノ出ヅルガ如キコトアリテハトノ懸念ニアリシガ如シ。
此日、閣僚全部、尚ホ 依然宮中ニ在リ。
岩佐憲兵司令官病ヲ押シテ參内シ、窃ひそカニ岡田首相ノ健在ナルコトヲ告グ、
其儘傳奏ス。
三、
此日、
戒嚴司令官ハ武装解除、止ム得ザレハ武力ヲ行使スベキ勅命ヲ拝ス。
但シ、其實行時機ハ司令官ニ御委任アラセラル。
戒嚴司令官ハ、斯クシテ武力行使ノ準備を整ヘシモ、尚ホ、成ルベク説得ニヨリ、鎭定ノ目的ヲ遂行スルコトニ努メタリ。
此日拝謁ノ折リ、
彼等行動部隊ノ將校ノ行爲ハ、
陛下ノ軍隊ヲ、勝手ニ動カセシモノニシテ、
統帥權ヲ犯スノ甚ダシキモノニシて、固ヨリ、許スベカラザルモノナルモ、
其精神ニ至リテハ、君國ヲ思フニ出デタルモノニシテ、
必ズシモ咎ムベキニアラズト
申述ブル所アリシニ、
後チ御召アリ、
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ兇暴ノ將校等、其精神ニ於テモ何ノ恕ゆるスベキモノアリヤ
ト仰セラレ、
又或時ハ、
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、
眞綿ニテ、朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行爲ナリ、
ト漏ラサル。
之ニ對シ
老臣殺傷ハ、固ヨリ最惡ノ事ニシテ、
事仮令誤解ノ動機ニ出ヅルトスルモ、
彼等將校トシテハ、
斯クスルコトガ、國家ノ爲メナリトノ考ニ發スル次第ナリ
ト 重ネテ申上ゲシニ、
夫ハ只ダ私利私欲ノ爲ニセントスルモノニアラズト云ヒ得ルノミ
ト 仰セラレタリ。
尚又、此日
陛下ニハ、
陸軍當路ノ行動部隊ニ對スル鎭壓ノ手段實施ノ進捗セザルニ焦慮アラセラレ、
武官長ニ對シ、
朕自ラ近衛師團ヲ率ヒ、此ガ鎭定ニ當ラン
ト仰セラレ、
眞ニ恐懼ニ耐エザルモノアリ。
決シテ左様ノ御軫念ごしんねんニ及バザルモノナルコトヲ、呉々モ申上ゲタリ。
蓋けだシ、
戒嚴司令官等ガ愼重ニ過ギ、殊更ニ躊躇セルモノナルヤ
ノ如クニ、 御考ヘ遊バサレタルモノト拝サレタリ。
此日、杉山參謀次長、香椎戒嚴司令官等ハ、両三度參内拝謁上奏スル所アリシガ、
陛下ニハ、
尚ホ、二十六日ノ如ク、數十分毎ニ武官長ヲ召サレ
行動部隊鎭定ニ附 御督促アラセラル。
常侍官室ニアリシ侍從等ハ、此日武官長ノ御前ヘノ進謁、十三回ノ多キニ及ベリト語レリ。
此日午後遅ク、行動部隊將校ヨリ眞崎大將ニ面會ヲ求メ、
同大將之ニ應ジタル結果、更ニ阿部、西 両大將モ之ニ加ハリ、
種々説得ニ努メタルヨリ、彼等將校等モ大體ニ諒解シ、
明朝ハ皆原隊ニ復帰スベシト答ヘシ由ニテ、
此夜ハ警戒等モ特ニ寛大ナラシメラレタリ。
第三日 ( 二月二十八日)
一、
午前七時、伏見軍令部總長宮殿下參内アリ、
武官長ニ對シ、
二十七日ニ於ケル皇族御會合ノ模様
及 閑院宮殿下ノ御轉地先、小田原ヨリ至急御歸京アラセラルベキ必要を説示アラセラレタリ。
依テ、杉山參謀次長躊躇シアリシ折柄、秩父宮殿下ヨリモ時局重大ノ際ナレバ、
多少ノ無理ヲ押シテモ、御歸京遊バサレル様、直接通知アラセラレシ趣ニテ、閑院宮殿下ニハ、此日遅ク御歸京遊バサレタリ。
二、
午前十時、
梨本宮殿下參内、拝謁ノ上、
眞摯熱誠を籠メ、今事件ニ附 御詫アラセラル。
後チ、
陛下ニハ、
武官長ニ對シ、
自分ハ、梨本宮殿下ノ眞面目ナル御態度ニ全ク感激シタリ。
各將校ガ悉ク、梨本宮ノ如キ心持を體シ呉レシナラバ、此ノ如キ不祥事ハ發生セザリシモノヲ
ト 御歎ジアラセラレタリ。
三、
此日、朝ニ至リ、行動部隊ノ將校ノ態度一變シ、又々原隊復歸を肯セズ。
前晩、
眞崎大將等、三軍事參議官ノ説得ニテ、行動部隊ノ將校等ハ、
部下ノ部隊ヲ原隊ニ歸スベク決意セシ模様ナリシニ、
夜半ニ至リ、電話ニテ首相官邸ニアル、右等將校ニ電話指令セシモノアリ。
( 北、西田等ナリト噂セラル )
爲ニ、彼等將校ノ態度一變セリト云フ。
午前十時、
杉山参謀次長參内シ、
愈々武力行使斷行を奏ウエセントセシトキ、又々 戒嚴司令部ヨリ、模様一變ノ爲メ、
暫しばらク武力行使ヲ見合スベク通知アリ。
午前十一時頃ニ至リ、
戒嚴司令部ハ、一般市民ノ立退キ區域時刻等ノ処理ヲ指示ス。
正午頃、
戒嚴司令官ハ、愈々奉勅命令ヲ行動部隊將校ニ傳ヘ、
速ニ最後ノ決心ヲ爲シ、軍隊ヲ原隊ニ復歸スベク促ス所アリタリ。
而ルニ、彼等將校ノ或ルモノハ、該奉勅命令ハ徹底セザリシト云ヒ、
或ルモノハ、機關説信奉者ノ奉持スル命令ハ随したがフノ要ナシ抔種々辭ヲ設ケテ、
躊躇決スル所ナカリシガ如シ。
午後三時、
杉山參謀次長參内、
帝都警備兵力ノ増加、及 參謀總長ノ戒嚴司令官ニ對スル區処權ニ附奏上シ、御裁可ヲ得。
午後四時半、
杉山參謀次長、香椎戒厳司令官ト共ニ參内、
武力行使ハ時間已ニ遅ク、明日ニ延期スルノ外ナキ旨ヲ奏上ス。
四、
此日午後一時、
川島陸相及山下奉文少將、武官府ニ來リ、
行動將校一同ハ 大臣官邸ニアリテ自刃 罪ヲ謝シ、
下士官以下ハ原隊ニ復歸セシム、就テハ、勅使ヲ賜ハリ死出ノ光榮ヲ与ヘラレタシ、
此以外解決ノ手段ナシ、
又 第一師團長モ部下ノ兵ヲ以テ、部下ノ兵ヲ討ツニ耐エズト爲セル旨語ル。
繫ハ、斯ルコトハ恐ラク不可能ナルベシトシテ、躊躇セシモ折角ノ申出ニ附、
一應傳奏スベシトテ、
御政務室ニテ右、
陛下ニ傳奏セシ処、
陛下ニハ、
非情ナル御不満ニテ、
自殺スルナラバ 勝手ニ爲スベク、此ノ如キモノニ勅使抔、以テノ外ナリ
ト 仰セラレ、又、
師團長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリ
ト、未ダ嘗テ拝セザル御氣色ニテ、嚴責アラセラレ、
直チニ鎭定スベク厳達セヨト 嚴命ヲ蒙ル。
固ヨリ、返ス言葉モナク退下セシガ、
御叱責ヲ蒙リナガラ、嚴然タル御態度ハ却テ難有ク、
又 條理ノ御正シキニ寧ロ深ク感激ス。
午後二時半、
第一師團司令部ニアリシ山口大尉ヨリ、
武官府宛電話ニテ、事變以來、聯隊副官ノ如キ地位ニアリテ、働キアルコト、
及ビ行動將校等ノ考ヘガ、廔々ろうろう變転セルコトヲ述ベタル後、
皇軍相討ツノ失態ナカラシメンガタメメニハ、
彼等最後ノ場合ニ勅使ヲ給フノ一事アルノミトテ、盡力ヲ請ヒシモ、
絶對不可能ナリトテ諭シテ、電話ヲ絶チタリ。
午後三時、
參謀次長拝謁ノ後チ、
陛下ニ對シ、
曩さきニ、傳奏セシ行動將校等自殺ノ際ニ、勅使ヲ賜ハリシ云々ハ、
自刃ノ狀況檢視ノ意味ナリ、ト訂正ヲ願出置キタリ。
又、午後四時半、參謀次長、戒嚴司令官拝謁ノ後チ、
陛下ヘ、昨今陸軍ハ大命ヲ殊更ニ奉ゼザルモノナリトカ、
或ハ、軍政府ヲ樹立セントスルモノナリトカ、風評スルモノアリ。
陛下ノ陸軍ヲ、誣しユルノ甚シキモノニシテ、同時ニ、現事件ヲ速カニ、且ツ、
円満ニ解決セントスル、陸軍ノ努力ヲ無視スルモノナリトテ、一般ノ空氣ト、
誤解ノ酷ナルヲ訴ヘシトコロ、其刹那、感極ツテ覚ヘズ涕泣言葉出デズ。
陛下ハ、其儘入御アラセラル、
暫ラクシテ、陛下ヨリ更ニ御召アリ。
武官長ハ泣ヒテ、陸軍ニ對スル誹謗ヲ訴ヘシガ、兎ニ角、速カニ解決セザレバ、
容易ナラザル結果ヲ招來スベキガ故ニ、武官長ノ所感ヲ、軍事參議官ニ傳ヘ、
且ツ、速カニ、事體ヲ収拾スベク取リ計ヘ
ト仰セラル。
之ニ於テ、軍事參議官代表者ノ來室ヲ求メシニ、
荒木大將參リ、早速ノ前記ノ次第ト御恩召シノ程度ヲ傳ヘシ処、
同大將モ、奉勅命令ノ出デシ以上、最早實力行使ノ外ナシト答ヘタリ。
五、
午後四時、
岡田総理無事ナリシトテ、迫水秘書官ニ伴ハレ参内、拝謁、
恐懼ニ耐ヘザル態度ニテ、謹ンデ御詫ヲ申上グ。
六、
此日午後、
宮中ニ秩父宮殿下、高松宮殿下ヲ始メ、
伏見、梨本兩元帥宮殿下、淺香宮、東久邇宮殿下
其他各宮殿下參内、御會合、各種情報ヲ聽取ノ上、
相伴ハレ宮城堤上ヨリ、行動部隊占據ノ狀況ヲ視察アラセラレタリ。
第四日 ( 二月二十九日 )
一、
二十八日夜ヨリ 二十九日朝ニ亘り、戒嚴司令官ハ、装甲自動車及飛行機を以テ、
叛軍下士官兵卒ニ對シ、順逆ヲ説キ、速ニ反省スベキ意味ノ宣傳文ヲ撒布ス。
就中 「 兵ニ告グ 」 ノ勧告文ハ名分ニシテ、條理ヲ盡シ、一般ヲ感動セシム。
午前六時ヨリ戒嚴司令官ハ、
蹶起將校等ハ勅命ニモ從ハザルニ至リシヨリ、
武力ニ拠ル、強行解決ヲ圖ルニ決セル旨ヲ發表シ、
引續キ、一般市民ニ對シ、叛軍鎭壓區域ノ狭小ニシテ、波及ノ大ナラザルヲ示シ、
且ツ 平靜ナルベキコト、
及ビ、戰闘區域附近ノ市民ニ立退區域、及戰闘發生ノ場合ノ注意ヲ与フ。
午前六時ノ戒嚴司令官ノ發表ニ拠レバ、
「 勅ヲ奉ジ、現姿勢ヲ撤シ、各所属部隊ニ復歸スベキ命令ヲ、昨日傳達シタル処、彼等ハ尚ホ、之ヲ聽カズ、遂ニ勅命ニ抗スルニ至レリ 」
ト アリ、
又此日、午前九時ノ戒嚴司令部發表ニ拠レバ、
「 永田町附近ニ占據セル、矯激ナル一部靑年將校ハ、奉勅命令ノ下リシニモ拘ラズ、夫レニ服從セズ、遂ニ叛徒トナリ終ツタ 」
ト アリ。
即チ、叛徒ナル名ハ、右戒嚴司令部發表ヲ正シキモノトスレバ、此奉勅命令降下後ニ於テ、
始メテ附セラルベキモノト想ハル。
陸軍當局ハ、此等發表ハ、鎭定ノ爲メノ、一ノ謀略ナリト解シアルガ如シ。
戒嚴司令官ハ、第一師團ニ對シ、御前八時以後、住民避難ノ狀況ニ應ジ、
可成速ニ指定區域ノ掃蕩ニ任ズベク、
近衛師團ニ對シテハ、之ニ伴ヒ、指定區域ナイノ叛軍ヲ攻撃スベキヲ命ズ。
斯クテ、第一師團ハ、午前八時半ヨリ、近衛師團ハ、同九時頃ヨリ行動ヲ開始ス。
午前十時頃ヨリ、続々下士官兵ノ歸順投降アリ、
同十一時半頃ニ至リテハ、山王ホテルニ於ケル 安藤大尉ノ指揮スル二百名内外、
及首相官邸ニアル若干名ノミトナル。
午後二時頃、山王ホテルノ叛乱部隊ハ安藤大尉 訓示ヲ下シ、
歸隊ヲ命ジタル後自殺セルモ死ニ到ラズ。
其後歸途ニ就キシ部隊、再ビホテルニ引返セシモ間モナク歸順セリ。
之ヨリ前キ、首相官邸ニアリシモノモ、正午頃ヨリ逐次撤去セシモノノ如シ。
午後二時過ギ、杉山參謀次長、同二時半香椎戒嚴司令官參内拝謁、
事變一段落ノ旨奏上ス。
午後四時十分以後、東京市環狀線ノ交通制限を解除ス。
午後五時、伏見軍令部總長宮參内、今次事變ニ伴フ海軍ノ行動ヲ奏上アラセラル。
同五時半、川島陸相參内拝謁、事變ニ對スル御詫ヲ申上グ。
此日、陸軍大臣官邸ニ集マレル叛亂將校ニ對シ、
關係者ヨリ代ワル々々自決スベク訓示セシ由ナルモ、
野中大尉ノ自殺セシ外、之ヲ肯ゼズ、凡テ憲兵隊ニ拘留セラル。
叛亂將校ガ、自決ヲ肯ゼザリシハ、
更ニ法廷ニテ、自己ノ眞意ト主張ヲ、堂々陳述シタキ意思モアリシナルベク、
又自己ノ行爲ヲ、不正不忠ト認メアラザリシニ因ルコトモアルベシトハ傳ヘ、
一般ヨリハ、甚ダ遺憾ナリトセラル。
二月二十八日附ヲ以テ、野中、安藤兩大尉以下十三名ノ叛亂將校ニ對シ、本官ヲ免シ、
位記返上ヲ命ゼラレシガ、此日更ニ、事變關係將校五名ノ本官ヲ免ゼラレタリ。
・
此日、事變鎭定後、川島陸相ハ左記要旨ノ聲明ヲ發表セリ。
輦轂れんこくノ下ニ於テ、軍内ヨリ未曾有ノ叛亂ヲ惹起シテ、宸襟ヲ悩マシ奉リ、
遂ニ、戒嚴ノ布告ヲ見ル等、昭和聖代ノ歴史ニ、拭フベカラザル汚點ヲ貽スニ至リシハ、
恐懼痛恨ニ堪ヘズトシ、若干時日ノ遷延セル事情ト顚末ヲ述ベ、治安ノ完全ナル恢復ト、
粛軍ノ達成ニ、今後最善ノ努力ヲ払ヒ、更始一新、團結鞏固ナル國軍ノ眞価ヲ充實シ、以テ、
叡慮ニ酬ヒ奉ランコトヲ期ス。 云々
二、
陛下ニハ、二十八日町田代理蔵相ノ奏上等ニ拠リ、
事變ノ経經濟界ニ与フル影響、就中、海外爲替ノ停止ニ至ルベキヲ御軫念アラセラレシガ、
此日、事變ガ比較的早ク片附キシヨリ、最早差シタル影響ヲ与ヘズ、
大丈夫ナリト御漏ラシアラセラレ、御安慮ノ體ニ拝シタリ。
附記
一、
二月二十九日、事件鎭定後、臨時憲兵司令部ニアリシ、參謀本部ノ首脳部ハ、
本部ニ、翌一日、陸軍省ノ首脳部ハ本省ニ復歸ス。
事件中、一部ノモノハ、本部、本省ニ踏ミ止マリシガ如キモ、
其首脳部ガ、殆ド悉ク、他ニ移ラザルヲ得ザリシガ如キハ、
將來ノ爲メ、大ニ研究考慮を要スベキモノナリトス。
二、
三月一日朝、政府ハ、今次ノ大不祥事件ニ對シ、左ノ要旨ノ聲明ヲ發セリ。
責任ノ重大ナルヲ痛感セルコトト戒嚴令ノ一部ヲ施行シテ、
秩序ノ恢復ニ努メ、遂ニ、御稜威ニ拠リテ、暴擧ノ鎭壓セラルルニ至リシコト、
及國民ガ、異常變ニ処シテ、平靜ヲ持シ、經濟界モ其常態ヲ失ハザリシコト、
竝ニ今後、相共ニ矯激ヲ戒メ、制節ヲ尚ビ、
國民ノ本分ヲ盡サンコトヲ切望シテ止マズ。
ト 云々。
閣僚一同拝謁シ、事件ニ對シ、恐懼ニ堪ヘザル旨、御詫申上ゲタリ。