あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

櫻田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」

2021年11月16日 18時49分17秒 | 其の他

昭和七年一月八日、櫻田門事件 が起きた。
恒例の陸軍始めの観兵式を終えて、帰還の途につかれた天皇陛下一行の馬車に、
李奉昌という朝鮮人が爆弾を投げつけた事件である。
陛下は幸い御安泰であった。

犬養内閣は、陛下より
「 時局重大の時故に留任せよ 」
とのお言葉を賜ったという理由で留任した。
野党の民政党は 
「 さきの虎ノ門事件では、
 関東大震災直後の重大事局下にあつて、留任の優諚を拝したが山本内閣は総辞職した。
 当時閣僚であった犬養は 『 責任は絶対だ 』 と強硬に辞職を主張した。
 しかるに今回は全く同じ状況にありながら優諚に名をかりて留任するとは、
 政治道徳上許し難き行為である 」
と、強く非難した。
このように内閣が留任したため、
警衛責任者に対する処分も寛大で、
長警視総監が懲戒免職となった外は、いずれも減棒処分以下ですんだ。
これは虎ノ門事件と日垣してみると明瞭に軽い処分である。

この事件に際し
一木 宮相が
「 陛下には お恙もあらせられず、神色自若として云々 」
という
「 謹話 」 を発表したことを捉え、

今泉定助 ( 皇漢学者として重きをなしていた )
は これを問題にした。
矢次一夫の 『 昭和動乱私史 』 に拠れば、
「 これは表面こそ出なかったが当時の政界裏面にて大紛議を惹き起し、
 前内務省社会局長官で協調会常務理事だった吉田茂 ( 戦後首相となった吉田茂とは別人 )
が調停に動き、
遂に翌八年一月、
一木宮相が辞任するまでに騒ぎを発展させた。
今泉が問題にしたのは、
不祥事件とのみ見るのは間違いで、
神国日本として、これは八百万の神々の意志と見るべしというのである。
しかるに宮相は
『 お恙もあらせられなかったこと 』
のみが、あたかも
『 神の意志 』
であるかのように喜んでいるのは 神国日本の本質を解せざるもの。
さらに
『 神色自若云々 』
というにいたっては、言語道断、
歴代の天皇は、
民にして一人着ざるものあり、食せざる者あれば、

『 これ皆朕の責任 』
と仰せられている

しかるに
着ないとか、喰わぬどころの問題ではなく、
国民の一人から ( 朝鮮人でも当時は国民 )
爆弾を投げつけられたのに、
『 神色自若 』 というのでは、もはや 天皇というべき存在ではない。
これは 『 化物 』 か 『 馬鹿者 』 と申すべきであると、
いうのだ。
仄聞そくぶんしたところによると、
一木は、さすがにこの一語には憤激したということで、
化物とは、陛下に無礼であろう、
と一喝したそうだ。
そして陛下に責任をとれ、ということか
と鋭く訊したところ、
今泉は、
もちろん
と答え、
但し、陛下が責任を負われるのは、国民に対してではなく、
歴代皇祖皇宗の神霊に対して負われねばならぬ
神皇連綿として三千年、しかるに図らずも朕の代にいたり、前古未曾有の不祥事を見る。
朕まことに不徳の極まるところ、
とし伊勢大神宮をはじめ、歴朝の神前に身を投げうち、
泣いて万謝せらるべく、
そして日本に皇室のあらん限り、再び不祥事を起こさないために、
神前に固く誓願せらるることこそ当然、
と切言したのである。
そして仲介者の吉田に、
ことは国体の本義にかかわる大問題ですぞ、
この本義を守り、貫く為には生命をかけています。
貴下の得意とする労働争議の調停のようなつもりで、動き回られるのは困る、
といったそうだから、当時としては、相当な人物である 」
と。
今泉の
側近一木宮相に呈した苦言は、次のように要約できると思う。
即ち、
天皇は国民全員の生活に関し無限の責任を歴代の神霊に負うている。
この根本義から輔佐する人々の言動は発せねばならぬ。
この義を守るためには、私としては生命をかけている、
と。

・・・挿入・・・
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あゆまりなされませ
・・・磯部浅一獄中日記  』

この事件の責任者に対する懲戒に関し、
内大臣秘書官長の木戸は、一月十三日の日記に次のように記している。
「 内大臣より今回の不祥事件に責任の地位にありしものの懲戒に関し、
其処分決定前に何等かの方法にて陛下より御優諚を賜りては如何との議あり。
 ・・・中略・・・
苟も行政組織上之等の事件を判定する夫々の機関の存する以上、
其の決定を左右するが如き御言葉等のあるは面白からずと思考す。
行政官として懲戒委員会に附議さるべき事態を惹起したる以上、
其の判定を待つの外方法なきは当然なねべし。
彼の幸徳事件の際の如きも、其の大赦は裁判の判決後に於て初めて行はれたものなり、
決して事前に陛下の御動きのあるは不可なりと述べ置きたり 」
この木戸の見解は至当である。
幸徳事件の大赦とは、
幸徳秋水以下二十四名が死刑の判決を受けたが、
明治天皇の特赦により、十二名が無期徒刑に減刑されたことである。
わが身に危害を加えんとした国民の罪すら、わが身の責として祖宗の神霊に拝謝する態度
---普通の人間に出来ぬこと---は、国民の無限の業を自ら負われることである。
このことは必然的に国民の感謝と敬仰の念を生み、その誠心まごころは天皇に集中連繋する。
ここに神が生ずるのである。
ただ普通のありきたりの人間、字が上手であったり、一つの学問に秀れたりしておるということは、
天皇の本質ではない。
それだけならば他に秀れた人物はいくらでもいる。
千年余に亘る長い伝統のうちに つちかわれたるものはそんなものではない。
一億の民のまごころの集まる身、世襲の皇位でなければならぬ。
そこには対立抗争を超越し、至公至平、寛恕かんじょにして綜合統一に向わしむるものがある。
今泉はこの義を守るためには生命をかけているという。
天皇側近にありて輔佐する人々、当然この義を守るために生命をかけるべきである。

天皇の機能は何か、
私は次のように考えていた。
第一は、
綜合統一の機能である。
分裂せるもの、対立抗争するものを克服して統一に向わしめる機能である。
明治維新の混乱動揺を、最も損害少なく短期間に収拾し得たのは、
天皇のもつこの社会的機能のおかげである。
第二は、
権力者がともすればおちいりやすい権力行使の行き過ぎを、調節抑止する機能である。
幸徳事件における明治天皇による大赦がその一例である。
第三は、
日本民族が長い年月をかけて体系化されるうちに、血の通った同胞感が生れ育つ。
一君万民の平等感を内心に味わうからである。
この平等感は前二項の基底に流れているが、変革期になると変革論の拠りどころにもなる。

昭和七年夏、磯部は主計転科のため上京、桜田門事件の動揺未だ収まらざる時である。
北、西田との接触が始まる。
政界裏面の事情に通ずる北は、また矢次一夫とは熟知の間柄である。
当然前記の今泉の話は北、西田より聞いたであろう。

佐々木二郎 著 
一革新将校の半生と磯部浅一
桜田門事件  から


櫻田門事件 『 陛下のロボを亂す惡漢 』

2021年11月16日 01時12分51秒 | 其の他

非常時日本の驚愕
昭和七年は風雲の年であった。
昭和六年の満洲事変が上海にのびて、海軍の陸戦隊が支那軍と衝突したのが一月二十九日、
満洲国の建国が三月一日、
血盟団の一人一殺で井上準之助と団琢磨がやられたのが二月と三月で、
五月十五日には天下を衝撃した五 ・ 一五事件があった。
共産党は共産党で、戦争の近づく気配に乗じて、戦争を日本の敗戦に導いて一気に革命を勝ち取るという訳で
党の充実を企て資金蒐集の悪あがきを始めた。
川崎第百銀行大森支店のギャング事件が十月六日、
熱海の伊藤屋別館の全国代表会議が急襲されて、ピストル防弾チョッキで渡り合った熱海検挙が十月三十日であった。

政権を執る政党の疑獄続出の満身創痍で、明にも断にも非常時の国家を率いる力は到底ない。
ここにおいて革新の火の手は、下剋上の噴煙に包まれて燃え上がらん形勢を見せた年 昭和七年、
そのへき頭に突発したのが 『 櫻田門事件 』 である。
新玉の年が明けて ( 昭和七年 ) 一月八日、
恒例の陸軍始観兵式は代々木の練兵場で挙行された。
これに臨まれた天皇の鹵簿ろぼが、還幸の御道筋を皇居近く桜田門に差向かった時、
全く不意に炸裂した爆弾であった。
そもそも非常時とは、挙国団結という事の替え言葉であった。
その挙国団結とは、一君万民、天皇絶対という事に外ならない。
それが風雲昭和七年の指導理念であったのである。
さういう時に恐れ気もなく 天皇の馬車に爆弾を投ずる者があるという事は、
正に狼狽以上、革新勢力に対し冷水三斗であったといえる。

鹵簿 ろぼ
河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下の ロボ を乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました
私は理屈は知りません、
しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
・・・第磯部浅一  行動記  第八 


この日 行幸の鹵簿ろぼは第三公式で、天皇の馬車は先頭から三番目であった。
先頭馬車には式部次長松平慶民、二番目には宮内大臣一木喜徳郎が搭乗していた。

午後一時四十五分、
あたかも二番目の馬車が桜田門の停留所の安全地帯に差し向かった時、
轟然たる響きである。
その附近の軌道上で爆弾が炸裂して、宮内大臣の馬車は底部を損傷し、
馬は驚いて棒立ちになり、後続した儀仗の近衛騎兵の乗馬や、天皇旗棒持の近衛士官 館義治の乗馬も、
一様に足並を乱して跳ね上がり、爆片で馬脚を若干負傷したのもあった。
場所は警視庁の玄関先で、万に一つも警備に遺漏のあるべき場所ではないのに、
そもそも何者の不逞に為らされた爆弾ぞと警察官、憲兵の面上に殺気が走って、
皆帯剣の鯉口をくつろげて走り寄って来た。
だが、幸いにして爆弾は後続なく、宮内大臣も馭者ぎょしゃ松山三次郎も無事であり、
炸裂箇所から十八間の後方にあった御料車も、何の障りもなく 恙つつがなく宮城に入らせられた。
検事亀山慎一、予審判事秋山高彦は、時を移さず現場検証に出張して来たが、
炸裂の箇所は、虎の門方面行安全地帯の南端から三尺九寸の軌道内と報ぜられた。

警視庁玄関前の兇漢を逮捕
この混乱の時、炸裂の現場から西北約十間警視庁玄関前の歩道で、
軌道の方に向って何か投げようとしていた男があったのを、警備の警察官が認めて引捕られた。
年の頃は三十歳位、黒の詰襟服を着て不適の面魂をしている。
投げようとしていたものは手榴弾であった。
この手榴弾は、後に歩兵中佐宇治田昇造、歩兵少佐相馬登八郎が鑑定した所によると、
構造幼稚で おそらく支那製品、もしくはそれを真似て作った素人製品であろうとの事であったが、
相当の爆発力を持つものであった。
犯人はすぐに警視庁に引立てられた。
朝鮮京城府錦町百十八番地 李奉昌 三十二歳と名乗り、
朝鮮の独立の為に、祖国を奪った日本の天皇を弑逆しぎゃくすると悪びれずに申し立てる。
彼は先頭の馬車が御料車であると誤信したものだから、躊躇なくこれを狙ったが、
まさに投げんとして車中の人をよく見ると、ちがう。
日本の天皇とは明らかに別人である。
続く第二馬車を見ると、これは立派な黒塗りで、窓に金色の房で縁どった赤地の掛け物をかけ、
その中央には燦さんたる菊の紋章がある。
すぐ後から儀仗兵もついて来る。
これこそ天皇に違いないと思ったから、之に向かって投げた。
爆弾は軌道に落ちて炸裂したが、馬車の中にはさしたる事もなかった様子なので、
続いて第二弾を投げようとしていた所を捕らえられたものであった。

人物往来社 昭和31年3月
小泉輝三朗 ( 元検事 ) 著  桜田門大事件  から