心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

徒然なるままに

2015-05-30 23:15:19 | 愛犬ゴンタ

 第二十四候・小満・末候「麦秋至」(ばくしゅういたる)。麦が成熟する時季なのだそうです。麦は冬に種を蒔いて年を越し、この時季から収穫が始まるのだと。
 季節の移り変わりについて、吉田兼好の「徒然草」にはこんなくだりがあります(第百五十五段)。「春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通い、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ」。人間の一生にふれて、「生・老・病・死の移り来たること、またこれに過ぎたり。四季はなお定まれるついであり。死期はついでを待たず」とも言います。
 角川ソフィア文庫「徒然草」の解説には、「四季は、それぞれが独立・分離しているのでなく、春の中に夏がひそみ、夏の中に秋が隠れ、秋の中に冬が兆す」「四季の場合と同様に、生と死とは別のものではない。死は生のなかにひそみ、それが現れる時季は予測不能」と。なにやら、人間の発達段階を記したダニエル・ロビンソンの「ライフサイエンスの心理学」を思わせます。
 徒然草と言えば、つれづれなるままに日暮し硯に向かいて云々、というくだりが浮かんできますが、ほぼ全文を眺め終えてみると、平安時代の一人の批評家としての吉田兼好の息遣いが聞こえてきます。それはある種、現代の小林秀雄と重なります。講演録CDで聞く小林秀雄の語りグセが、浮かんでは消えていきます。
 さて、5月も末、そろそろ梅雨の季節を迎えます。そんな休日の昼下がり、なにげなく庭を眺めていたら、おや?伸び盛りのアケビの葉っぱの影に小さな青い実がひとつ。驚きました。湖北の山小屋の裏山を散策しているときに採取したアケビの苗を持ち帰って庭に植えたのは、そう、十年も前のことです。ここ数年、花が咲くようになりましたが、実をつけるまでには至らず、秋になるとアケビの蔓が生花の花材になるのでありました。それがやっと実をつけました。まだ親指ほどの小さな実ですが、既に目の前には、紫色に熟した大きなアケビの実が見えてしまいます。
 さてさて、昨夜は同業他社の仲間数人と一献傾けました。全員同世代、というよりも同じ歳の仲間です。すでに定年世代に入っていますから、この4月の人事異動で役職を後進に譲った方、仕事人生をフェードアウトするための助走期間に入った方々です。我が社より規模の大きな会社での、悲喜交々の話に花が咲きました。でも全員、決して老いているわけではありません。人生を達観し、気持ちは益々若返る。これもお酒のせいでしょうか?夜遅くまで大阪の夜を飲み歩きました。
 最後に、ゴンタ爺さんの近況報告です。最近は、ほぼ一日中横になっていて、お散歩の時だけは俄然元気にはなりますが、足腰が弱く、歩くテンポもまったくのお爺さんなのであります。でも、食欲だけは旺盛。餌をねだり、ペロリとたいらげますが、さてどうなんでしょうね。体重もずいぶん減りました。ただただ、じっと私の目をみつめて何かを語ろうとしています。もう15歳です。
 今夜は、舘野泉さんのピアノ曲「シャコンヌ」を聞きながらのブログ更新でありました。明日は、孫長男くんの運動会の応援は失礼して、仕事関連で京都にお出かけです。いよいよ6月、なにやら忙しない気分になってきます。

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