心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

心の中の二重奏

2010-03-28 09:50:39 | Weblog
 年度末の慌ただしさから少しずつ開放されようとしている3月も下旬の日曜日、なんとなく心穏やかな朝を迎えました。でも、天候は曇り、桜の開花宣言があって1週間も経とうとしているのに、愛犬ゴンタとのお散歩も薄いコートがいる、そんな休日の朝でした。
 ところで、きのうの土曜日は、溜まった仕事を片づけると3時過ぎには静かに退勤しました。別にお目当てがあるわけではありません。久しぶりに散髪屋さんに立ち寄って、さっぱりしたところで、帰り道にある数軒の古書店をのぞきました。そこで手にしたのは、「南方熊楠」(笠井清著)、そして「金子みすゞ 永遠の母性」でした。この2冊、なんとも取り合わせが悪いと言われそうですが、私の中では案外、両立しているのです。
 南方熊楠と言えば、博物学者にして民族学者、はたまた先駆的なエコロジストとしても活躍した、いやいやある意味では奇人変人呼ばわりされがちな数奇な人生を歩んだ人。大学を卒業することなく、独学で極め、英国大英博物館で学び、明治の頃、かの学術雑誌「ネイチャー」等に数々の論文を発表しました。ところが帰国後は、和歌山県の山中に籠って菌類の採取に明け暮れる。自分の思うままに、自由奔放に生きた方でした。
 一方、金子みすゞの詩の世界は、理屈でも学問でもない。極めて平易な言葉を使って、人の「心」が素直に表現されています。取り立てて詩を好む人間ではないのですが、どこかに置き忘れていた「心」を気づかせてくれます。
 金子みすゞの詩に最初に出くわしたのは、2002年の春、三越大阪店で開催された「中島潔が描く金子みすゞ」展でした。中島さんは、毎月発行のNHK「ラジオ深夜便」の表紙を飾る画家です。絵に惹かれて出かけると、会場の一画に鰯の群れが描かれた大きな絵が飾ってありました。その横に添えてあったのが、金子さんの詩「大漁」でした。

  朝焼小焼だ
  大漁だ
  大羽鰯の
  大漁だ
  
  濱は祭りの
  やうだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰯のとむらい
  するだろう

 大漁だと浜辺が喜び沸いている風景を眺めながら、ふと鰯のことに思いをやる。悲しい出来事を見つめる視点が、そこにあります。どきっとしました。心の機微に触るのが怖いような、いや古き良き時代に引っ張り込まれそうな、そんな不思議な感覚に襲われました。
 平易なひとつひとつの言葉が、輝いています。金子みすゞの詩を難しく思うなら、それは読む側の視点に陰りがあるということ。自らの心に素直であれば、この詩の世界のなかに自分を見出すことができる。日々の出来事を冷静に見つめることができれば、この世の複雑な問題の何割かは取るに足らないことばかりであることに気づく。平易な言葉で自らの心を素直に表現できる人って、最近では少なくなりました。当の私でさえ、こうしてブログを更新しながら、非力さを感じています。
 日々の騒々しさから逃れるように、毎日、眠る前に紐解くのが、この金子みすゞの詩の世界です。でも、オテントウサマが昇ると、それが許されない。ビジネスの世界です。南方熊楠の執拗なまでの拘りと、意思の発露が、物事を動かす。様々なことに真正面から向きあい、課題をひとつひとつ片づけていく。この、一見矛盾する心の振る舞いが、私のなかで一定の均衡を保っている。それはあたかも、ピアノ二重奏のようでもあります。
 実は、このふたつのメロディーを繋ぎ合せるものがあります。それが、須賀敦子さんであり、鶴見和子さんです。福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」には、相補性という言葉が何度も登場します。お二人の存在は、ひょっとして、それを促す役目を果たしているのかもしれません。「行為」「動」というもうひとつの指針を示すことで、私の水先案内人になっていただいているのかも知れません。もう、そう長くはない私の人生の、これがいまの生きざまでもあります。



と書き終えたところでディスプレイから目を離そうとしたら、昨年、宮島で購入したバンビ君が私を微笑みながら見つめておりました。
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