心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

母の命日に思う

2009-02-01 09:27:48 | Weblog
 風邪が流行っています。週の初めに一緒に出張した一人は帰阪と同時に病院に直行、インフルエンザと診断されて2日ほど休みました。出向いた先に風邪が流行っていたために、結局、私を含めて同行した全員が風邪をひきましたが、軽症で済んだのは私一人でした。こういうときに、田舎育ちの本領を発揮するのでしょうか。
 なんということはありません。うがいを励行し、頻繁に手を洗い、夜更かしはしない。温かい卵酒を2杯呑んで、温かいベッドの中でぐっすりと寝るだけ。あとは成り行き任せです。今回も風邪薬のお世話になることはありませんでした。強いて言えば、手作り漢方酒であるタンポポ酒をいただいた程度で済みました。(^^♪
 さてさて、そうこうしているうちに、今年も12分の1が終わり、本日は、2月1日です。旦那が出張した機会を狙って、長女が孫を連れて1か月ぶりのご帰還です。1歳3か月もなると、なかなかしっかりしてきて、きちんとご挨拶もできるようになりました。
 きょう2月1日は、母の命日でもあります。30数年前のきょう、私は支店開設初めての行事の日の朝、電話で母危篤の知らせを受けました。どうしても職場に行って引き継ぎをしておかなければならないことがあって、職場に直行したら、上司に叱られました。「早く帰ってあげなさい」と。新大阪駅までタクシーを飛ばし、新幹線に飛び乗って岡山駅へ。そこで、特急「やくも」に乗り換えて、在来線に乗り換えて、実家についたのは午後も遅い時間でした。すでに葬儀の準備が始まっていました。お正月休みに帰省したときに、枕元で「春になったら、暖かくなったら、ゴロウ(愛犬)を連れて裏の山城にお弁当をもって花見に行こう」と話しかけるのが精いっぱいでしたが、母も私も、これが終(つい)の別れになるであろうことは、お互い目を見れば判っていました。ひとの別れというのは辛いものです。
 いま元気なら90歳も半ばの年齢。考えてみれば、私も、何年かすれば、母が他界した年齢になります。母は、私の子供(孫)たちを見ることも適いませんでした。もちろん、曾孫も。明治生まれの気丈な女性でした。後年は、東京に夫を残し、夫の実家の面倒を見ながら子育てに専念しました。最後は私一人になり、その私が京都の大学に進むと、田舎のだだっ広い家に独りで生活することに。お手伝いさんというよりも、話し相手の方と晩年、静かに暮らしました。体長を崩すと、長男一家が戻りましたが、父親が仕事を辞めて田舎に帰る決意をしたのは、そのあとのことです。父を憎んでも仕方ありませんが、母には本当に可哀そうなことをしたと、思っています。
 きのう、家内と私たちの老後のことを話しました。リタイアしたら湖北の山小屋を建て替えよう。隣地の雑木林も手に入れて広い面積を確保し、晴耕雨読を夢見る私には、ちょっとした畑のスペースもほしい。猪や野猿対策はどうするか。家内のために小さな陶芸窯を作ろう。家は2人で住むことができる程度で良いだろう。いやいや孫たちが林間学校替わりにやってこようから、あと2室ぐらいは用意しておいた方が良いかも。と、話は限りなく発展していきますが、しかし、頑張っても10年足らず?病気になったらどうする。見知らぬ土地で最後というのもどうか?
 ......数年後には、長女一家も、この街のマンションに引っ越してくると言っている。......結局、山小屋は夏の間のお楽しみということで、やはり生活の基盤は今のままが良いか。とまぁ、熱燗を楽しみながら、冬の夜の果てしない団欒は夜遅くまで続きました。

【写真説明】職場の近くにある公園の風景です。シューベルトの「冬の旅」を想起させる冬の淋しさが伝わってきましたので携帯カメラに収めました。昨日は、その足で梅田の繁華街に向かいました。2枚目の写真は数年前の湖北の山小屋風景です。これまた淋しい風景です。....と書き込んでいると、冬の明るい太陽が部屋の中に差し込んできました。きょうは、モーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏を聴きながらのブログ更新でありました。
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