心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

物の大切さと環境問題

2009-06-21 10:03:26 | Weblog
 きのうは5か月ぶりに京都に出かけました。京都国際会館であった内閣府等主催の第8回産学官連携会議に出席するためでした。4千人を超える規模の催しですが、興味深い話題もあって楽しく過ごしました。気分を良くして、帰りは寄り道です。地下鉄を乗り換えて京都市役所前で降り、中古LPショップ「HOT LINE」さんに立ち寄りました。
 そこで1時間ほど物色して5枚のLPを手にして帰りました。最近は、音楽だけでなくジャケットデザインにも関心があって、今回はどちらかといえばそれを優先した選曲。プッチーニの歌劇「トゥーランドット」(ソプラノ:サザーランド、テノール:パヴァロッティー。指揮はズービン・メータ)。他に、シュワルツコップのモーツァルトアリア集などなど。
 ところで、久しぶりに京都の街を歩くと、心の中のもやもや感がどこかに飛んで行ってしまいます。なんとなく脳ミソが活性化するような錯覚を覚えます。終わりのない柵から開放されて、重く感じていた脳ミソが急に軽くなる、そんな感じです。京都は、学生時代を自由奔放に過ごした街です。しばし京都の知的で新鮮な空気を吸いながら帰途につきました。
 帰りの電車のなかでは、鶴見和子曼荼羅Ⅸ「環の巻」を開きました。きょうは上智大学での最終講義「内発的発展の三つの事例」の章です。三つの事例とは「タイの農村の自助運動」「水俣病患者の自助努力と地域再生」「中国江蘇省の小城鎮の工業化」です。アニミズム、仏教、隠れキリシタン、儒教といった、それぞれの精神構造にまで踏み込んだもので、根底には「近代化」をどう考えるのかという鶴見さんのするどい視点があります。
 この章で妙に読み飛ばせなかった言葉があります。タイのお坊さんの言葉として「必要なだけ自分でとって、後は他人に残しておく」。また、当時の水俣患者の方の言葉として「われわれは、物を取りすぎていないか?物を持ちすぎていないか?もっと少ないエネルギーを消費し、もっと少ない物で、もっと豊かな生活ができるのではないか?そして、あり余っている人は、もっとどうしようもない、食べ物の少ない人に届けなくてはいけないのではないか?」。
 環境問題、低炭素社会を考えた産学官連携会議での議論とのギャップの大きさを思いました。何とも不思議な感覚に襲わました。「技術」と「心」の共生といったら大袈裟でしょうか。車窓に輝く街の明かりを追いながら、わたしたちの「物」に対する拘り、それが今の時代を不幸にしている?景気の動向に一喜一憂するけれども、もっと根底にある問題、ものの考え方、そのあたりに楔を打ち込まなければ、とんでもない方向に進んでいきはしないか。連日報道される政治の混乱、経済の混乱、社会の混乱、教育・文化の混乱。親殺し、子殺し、・・・・・・。あぁ、あまりにも悲惨な事件が多すぎます。なぜ、そこで立ち止まらないのか。立ち止まれないのか。・・・・・・きょうは、きのう手にしたLPを聴きながらのブログ更新ですが、ここにもモノに依存する私がいます。

【写真説明】
上段は昨日購入したLP「トゥーランドット」のジャケットです。下段は1週間経ったプルメリアの花芽です、徐々に大きくなってきています。
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