きょうは家内のピンチヒッターで孫次男君が通っている幼稚園の「お迎え」に行ってきました。午後2時、お婆ちゃんが来ていると思っていた孫君は、一瞬驚いた様子でしたが、お婆ちゃんが急に歯医者さんに行くことになったことを告げると、事態を納得したようでした。
そんな孫次男君に、「アケビの実って知ってるかい」と聞くと「知らない」と予想どおりの答えが返ってきました。私が小さい頃は、秋も深まるこの時期に里山を歩いていると、木に絡まった蔓の枝先に淡紫色に熟したアケビの実を簡単に見つけることができました。ぽっかりと口を開けたアケビの甘い実を頬張ったのはずいぶん昔のことです。
そのアケビの実が、ことし我が家の庭で実りました。自生の苗を湖北の山小屋の裏から持って帰って十数年。数年前から春先に花が咲いて実をつけるようになりましたが、ことしは初夏に3個ほどの小さな幼実が確認できました。その後、固く青い実のままで暑い夏が過ぎましたが、秋も深まり朝晩肌寒さを感じるようになって、まさにここ数日のことですが、急に色づき始めました。さっそく紙袋をかけて鳥害から実を守ります。分厚い果皮がぱっくりと割けるのも時間の問題です。
霜始降(しもはじめてふる)、霎時施(こさめときどきふる)、楓蔦黄(もみじつたきばむ)......。秋も深まり、そろそろ「立冬」の季節を迎えようとしています。
さて、今週はカレッジで社会見学をしました。行先は、茶道千家の始祖・千利休が生まれ、歌人・与謝野晶子が22歳で上京するまで過ごした堺の町です。奈良時代の僧・行基の生まれた町でもあります。JR天王寺駅から、大阪唯一の路面電車・阪堺電車にのって「宿院」をめざしました。
午前中は「さかい利晶の杜」で学芸員の方から堺の歴史を学びました。長年大阪にいて、大和川より南の方に出かけることが滅多になかった私にとって、堺の町は新鮮でした。江戸時代には7万人もの人口を数える都市でありました。
市内には、有名な仁徳天皇陵古墳があります。5世紀の頃、古墳をつくる道具を製造する必要から鍛冶技術の基礎が築かれたようですが、その技術が刀づくりに繋がり、16世紀にポルトガルから鉄砲が入ってくると火縄銃が、タバコ葉栽培が伝わると葉を刻む「タバコ包丁」がつくられるようになります。それが今日の伝統産業「刃物づくり」に繋がっています。千五百年にわたる鍛冶技術の伝統は近年、自転車製造に受け継がれており、日本の産業史に一定の存在感を示しています。
「さかい利晶の杜」館内の千利休茶の湯館と与謝野晶子記念館を見学したあと、午後は観光ボランティアさんの案内で、千利休屋敷跡のほか、臨済宗大徳寺派龍興山「南宋寺」、日蓮宗本山由緒寺院廣普山「妙國寺」、堺伝統産業会館などを見て回りました。
特に印象に残っているのが妙國寺です。明治維新前夜の混乱期、1868年2月、和泉国堺で土佐藩士とフランス水兵とが衝突した、いわゆる「堺事件」。お寺のパンフレットによれば「堺のまちを警護していた土佐藩士と上陸してきたフランス水兵とが出くわした際に言葉が通じないこともあり意思疎通が出来ない中、いざこざとなり、発砲が起きフランス水兵が殺傷された。死者は11人と多数の負傷者が出たことから外交問題に発展し、賠償金15万ドルの支払いと加担した者のうち20人の切腹を(妙國寺の)境内で行うことになった」とあります。「双方立ち合いの下で行われたが、余りにも凄惨な光景となったため、11人の切腹を最後にフランス側から中止の申し入れがあった」と記されています。
宝物資料館には、土佐十一烈士の遺品が多数展示されていました。彼らの多くが20代前半の若者であったこと、事の発端が言葉の意思疎通の欠如による偶発的なものであったことを思うと、なんとも胸の痛む史実です。なお、日本側の立会人は、昨年、朝のテレビ小説で有名になった、後に大阪商工会議所などを創設する外国局判事・五代友厚だったのだそうです。
土佐十一烈士のお墓は妙國寺境内にあります。観光ボランティアさんのお話しによると、死亡したフランス水兵11人のお墓は、なんと先日登ったばかりの六甲・再度公園の外国人墓地にあるのだそうです。堺の町を歩きながら、様々な人と場所が繋がってきます。何百年にわたる大きな歴史の流れのなかに立っている自分を感じた一日でした。そして長い一日の終わりは、もちろん班のメンバーで呑み会を開き懇親を深めました。(笑)
明日は京都・百萬遍知恩寺境内で開かれる京都古書研究会主催「秋の古本祭」に出かけてきます。そのあと、紅葉には少し早いと思いますが、久しぶりに東山の「哲学の道」を散策して帰ろうかと思っています。そんな次第で今夜は、3年前にご病気のため長期休養に入っておられたギタリスト・村治佳織さんの5年ぶりの新作「ラプソディー・ジャパン」を聴きながらのブログ更新とあいなりました。