愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

斑鳩町 極楽寺墓地地蔵石仏他

2014年09月15日 | 石仏:奈良

極楽寺墓地(ごくらくじぼち)は法隆寺裏、かっての極楽寺は廃寺となり、墓地にその名前を残すだけに成っているが、この地域の惣墓となり・・・・

広大な丘は、石碑、石塔、墓石などで埋め尽くされ、一種壮観でさえ有る。

 

その広い墓地の西南端には木造瓦葺きの立派な地蔵堂が有り中に大きな地蔵石仏が祀られている。 

地蔵石仏は高さ約2m、幅90cmの大きな舟形光背を負い、蓮華座に立つ像高172cmの定形地蔵。

室町中期の永正十八年(1521)の銘を持つ。

ちょっと失礼して赤い涎掛けをまくしあげると白いマイマイカブリの卵塊がびっしり・・・・涎掛けも悪くは無いが石仏さんには大迷惑かも??

又この地蔵は「継子(ままこ)地蔵」とも「飯乞(ままこい)地蔵」とも呼ばれ、斑鳩の昔話にも登場してくる様です。

一方地蔵堂脇には室町期の阿弥陀石仏が2体確認できる。

下部をコンクリート詰にされ、ちょっと待ったのサインを出す阿弥陀石仏。

見慣れた像容、室町時代後期の永禄七年 (1564)銘を持ち、イケメンで凛々しい尊顔。

方や、少し大きめの阿弥陀石仏、前者に同じく来迎印を結び蓮華座に立つ像高約1m・・・

同じく室町末期の造立だと思われるが、顔の印象は全く違う。

場所柄も有ってか??、この墓地にはまだまだ見るべき石仏が一杯有りそう・・

撮影2012.5.26


京都府宇治田原町 奥山田の茅葺き民家

2014年09月14日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

1年半ほど前、たまにしか降らない雪が少し残ったこの茅葺き屋根を撮影したが、伊賀方面からの帰り道、その後どうなっているのかと寄ってみた。

前回は枯野色の寒さ厳しい頃、今回は黄金の稲穂が出だしたまだ暑さの残る9月の中頃・・・

当たり前の事だが、前回来た時よりも茅葺き屋根はやっぱり草臥れが進んでいた。

前のシート掛け屋根も前に見たまま・・・・やっと雨漏りを防いでいるだけ。

前回訪ねた時には高齢者世帯だったけど・・・・やっぱり今でもそうなんだろう。

入母屋の棟飾りが崩れ、後は又、前の家と同じようにシートを掛ける事に成るのかも・・・・

 それほど山間僻地で無くとも地域格差は加速度的にますます広がるばかり。

撮影2014.9.13


平群町 信貴山成福院墓の石仏

2014年09月13日 | 石仏:奈良

 先日紹介の千体石仏裏山にある信貴山塔頭「成福院寺僧墓」の石仏さん達。

信貴山大門を潜ると、右側に山手に登る石段が見え、その奥が成福院寺僧墓に成っているが、ちょうどその辺りから見ると信貴山朝護孫子寺毘沙門堂が真正面に見える。

 

上り口に有る大木の根元に中世仏だと思われる小石仏が4~5体並べ置かれ、いい味を醸し出している。

向かって左端には、まん丸童顔の地蔵菩薩・・・・

中央には板碑型阿弥陀坐像、多分ですけど・・・。

石段を上り切ると狭いながら平坦地に成っていて、最近整備されたのか?切石基壇の上、石造物が一塊並べられている。

中に一体永禄銘を持つ石仏。

室町末期の永禄四年(1561)造立。

総高87cm、像高60cm・・・室町期の特徴そのままで佇んでいる。

裏側には入口に置かれていたのと良く似た石仏が・・・・

因みに現在、成福院境内に置かれている十三仏石室はこの墓地に在ったものだそうです。  

撮影2012.11.21 


平群町 信貴山大門の千体石仏

2014年09月12日 | 石仏:奈良

 

信貴山大門手前、右手斜面に雛段基台を設けられずらりと並べられた石仏群。

現在の駐車場に車を置くとこの大門と呼ばれる仁王門は通らないが、一昔前の旅館土産物屋のある旧参道を歩いてくればこの大門にぶち当たる。

 千体仏と呼ばれる石仏は新道建設の折、出土したものをここに集めたもので、その一体毎に赤い涎掛けがかけられて居る。

 

 その殆どは舟形か箱石仏で、所謂、総高50cmのも満たない小石仏と呼ばれる石仏群・・・・

 

 上段には少し大きめの舟形名号碑や五輪塔の残欠までも並べられ、そんな石造品にまで涎掛けが掛けられている。

いくらなんでも五輪塔の残欠に涎掛けは似合わないような気がするけどなあ・・・・

撮影2012.11.21 


平群町信貴山 千手院墓の石仏

2014年09月11日 | 石仏:奈良

信貴山内寺僧墓地?で見掛けた、ちょっと僕の目を惹きつける石仏さん。

先日の「石当て地蔵」の横を少し登ると、奥に塔頭「千手院」の小さな寺僧墓地がある。

ほどほど立派な五輪塔の横に、ほぼ正方形の板状花崗岩中央に目を惹く石仏が刻まれて居る。

板状石材は一辺が約55cm、その正面一杯に舟形を彫り窪め、中に像高約40cm強の蓮台に立つ阿弥陀如来立像を刻み出している。

手馴れた像容でよくまとまり、以前紹介の石龕仏(せきがんぶつ)残欠を思い起こさせたりしないでも無い。

肉厚に刻み出された阿弥陀如来は、彫りり窪められた舟形光背の窪みより厚く前に飛び出しているのでちょっと驚き。

一般的には正面石材と面一の場合が多いのに・・・・。

左手には小さきながら中世仏の阿弥陀如来坐像、その脇に背光宝筐印塔・・・

お馴染み大門付近から見た大門池にかかる信貴大橋、開運橋・・・ちょっと漫画チックな白虎が可笑しい。

撮影2012.11.21


平群町信貴山 石当て地蔵

2014年09月10日 | 石仏:奈良

 

地元では石当て地蔵と呼ばれる石仏さん。

信貴山大門に向かって左に登る山道があり、暫く進むとこの石仏に出逢う事が出来る。

多分地元の人でも普段は殆ど通る人とて無い細い山道・・・・ちょうどこの奥には山内塔頭の千手院墓があり、脇には小石仏や五輪塔の残欠なども並べられている。

 石仏は自然石にそのまま長方形を彫り沈め、中にぎこちなく稚拙に見える定形の地蔵立像を肉厚に刻み出している。

幅約85cm、高さ約60cm、まるで磨崖であったものを剥がして来たのかと思える程の自然石。

この石仏はもと山中の樵道出合いにあったものをこの地に移設・・・そのせいかどうも足元が変に寸足らずに成っている。

 往時、信貴山城落城の手助けをした老婆を恨んで、道行く人はこの石仏に石を当てたので「石当て地蔵」と呼ばれている。

その石礫のせいかどうか??殆ど像容も覚束なく・・・・・ちょっと絵に描いたヘタウマ地蔵となって居る。 

撮影2012.11.21


平群町 信貴山不動石仏

2014年09月09日 | 石仏:奈良

三郷町方面から信貴山に登る県道236号線沿い、信貴山麓の出合いの辻にある不動明王石仏。

 

 信貴山内集落の最東端、道路脇にこんもり茂った木立があり・・・・、

その木立を背負うように不動石仏が祀られて居る。

石仏は、高さ約80cm、幅広く鏨痕の残る舟形光背を背負った像高約60cmの不動明王立像。

像に巧さはなくアンバランスで力量の無さが窺えるが、その様式から室町後期の造立。

勿論朝護孫子寺に関係した石仏だろうが・・・余り良い出来栄えの石仏ではなく残念。

撮影2012.5.26


平群町 信貴山妙蓮塚十三仏板碑

2014年09月08日 | 石仏:奈良

妙蓮塚守る様にずら~と塚の周りに並び建てられた十三仏板碑群。 

昨日も紹介した妙蓮塚は直径5m、高さ1.4mの円墳状をしており、表面には砂利が敷き詰められ、周囲を新しい石柵で六角形に囲んで居る。

その外柵内、土盛り裾に立掛けるように山形二条線の一石一仏板碑が周りを一回りめぐって土留の役も果たして居る。

幅約30cm、高さ80cm内外、二条線直下に舟形を彫り窪め中に蓮華座に座す尊像を中肉彫りで刻み出す。

ところどころ、倒れてしまったものや、傷んだものも見受けられるが、概して保存状態は良く、その数は大凡70体にも及ぶ。

素人目の僕にも昨日の「十三仏石室」よりも、明らかに古いものだということが良く判る。

板碑の様式像容から室町後期の造立と考えられ、妙蓮塚も同時期に整備されたのだろうと考えられて居る。

少し下って行くと信貴山内がほぼ全貌出来た。

撮影2012.5.26


平群町 信貴山妙蓮塚十三仏石室

2014年09月07日 | 石仏:奈良

 

信貴山中興の祖「命蓮上人」の墓所と伝えられる上人塚に置かれた十三仏石室。

開山堂南西後方に命蓮塚があり、ここに命蓮上人が葬られている。

命蓮上人は、醍醐天皇の病気平癒の祈願をし、毘沙門天の加護により、天皇の病気を癒やした僧で・・・、このことにより「朝護孫子寺」の勅号を賜ったという。

命蓮上人に関わる物語については「源氏物語絵巻」と並ぶ日本の絵巻物の傑作、国宝である「信貴山縁起絵巻」に描かれている。

石室の正面にも涎掛けが掛けられていましたが・・・そこはそれ、前掛けを石室の屋根に捲くり揚げ石室内をバシャさせて戴きました。

山内、成福院十三仏石室に酷似、しかし出来は比ぶべくもなく、その差は誰が見ても歴然としている

作風から江戸中期の作と考えられ、成福院のものより少し小さく総高88cm。

中央に仏の通字である「ア」字を小さく彫り込み、上から左回りに阿閦(あしゅく)如来、虚空蔵菩薩、胎蔵界大日如来・・・・・、しかし、やっぱり力量の無さが気になります。

左壁が中央に文殊菩薩、右上から時計回りに観音菩薩、不動明王、釈迦如来、地蔵菩薩。

右壁は上に阿弥陀如来を配し、右上から薬師如来、普賢菩薩、弥勒菩薩、勢至菩薩を像容で陽刻している。

実のところ、実際に見るまでは、もう少し良いものかと思ってたけど・・・期待はずれ。

撮影2012.5.26


平群町 信貴山朝護孫子寺成福院十三仏石室

2014年09月06日 | 石仏:奈良

信貴山の石仏と言えば、なんと言ってもこれ・・・

以前、もう7年以上前にも紹介した事のある山内塔頭「成福院」境内脇に置かれた十三仏石室。

今回再度訪れ撮影して来たので更新再UPです。

真正面からワイドで・・・

向かって右側側壁を・・・ 

向かって左側壁を・・・・

7年前と何も変わらなく健在でした。

詳細は前回のものを参考にしてください。

撮影2012.5.26


平群町 信貴山石龕仏(せきがんぶつ)残欠:他

2014年09月05日 | 石仏:奈良

信貴山境内、開山堂への参道右手の小高い丘に立つ石仏。

一山、信仰の山として河内と大和の境に君臨、その歴史は古く聖徳太子の創建に依るものとされている。

石仏は丘の頂上に2体が並び立つ。

うち一体は高さ約1m、幅60cmの板石状花崗岩に阿弥陀坐像が刻まれている。

正面両側を柱状に残し、枘穴が設けられ、元は側石が組み合わされ、石龕仏の奥壁だと考えられて居る。

阿弥陀坐像は三区からなる格狭間の上、中央に舟形光背を彫り下げ蓮華座に座し定印を組む。

小さいながら姿形が良く整い、右柱面に南北朝中期の正平八年五月の刻銘があり、信貴山内では最古の石造物だとされて貴重。

一方、向かって右側に据えられた半身が欠落した坐像石仏は、その蓮華座や結跏趺坐した膝の張りから、鎌倉様式を感じられなくもない。

完品であったら、さぞかし立派なものであったに違いない。 

撮影2012.5.26


奈良市柳生阪原  多尊磨崖仏

2014年09月04日 | 石仏:奈良

 

 もう7~8年前にも紹介した事のある柳生阪原の多尊磨崖仏。

7~8年経ってもこの柳生辺りは何一つ変わらないけ、どブラ~と出かけた序でに寄ってみた。

奈良市街方面から国道369号線で一走り、阪原の中央を横切る白砂川右岸縁にこんもりとした木立の森がある。

森斜面から川岸に球状巨岩が突き出し、その表面に都合三枡の双体仏と、背光五輪塔と墓碑が各1基。

現在廃道となってしまった川沿いの旧道の正面には大小の枡形を浅く彫り沈め・・

共に阿弥陀と地蔵の立像を中肉彫りで刻み出す。

大枡左壁面に銘らしきものが見えますが苔生し確認できません。

向かって左下方には墓碑のように見える刻み付けが・・・

 向かって右側面には二つの枡形、その一つはやっぱり阿弥陀と地蔵の双体仏、もう一つの枡には背光五輪塔が刻まれている。

正面の大きい枡形の双体仏が最初に刻まれ、後、何度か追刻されたようで、それぞれに違った顔を見せている。

撮影2012.5.1


旧都祁村 来迎寺の石塔

2014年09月03日 | 石仏:奈良

暫く振りの石仏石造美術の紹介です。

奈良市都祁来迎寺に残された五輪塔と宝塔です。

大和高原、奈良県旧都祁村は我が近くに有って、事あるごとに想い出したように足の向ける土地。

根からの田舎人はやっぱり田舎の匂いの中、田舎の時間の中でしか、自分の居場所を見つける事が出来ないのかも・・・・。

来迎寺は旧都祁村中心、名阪針インターより南へ約2.5km、少し西にいった地にある古刹・・・寺伝によると僧「行基」により開創され、この地の豪族「多田満仲一族」や「東山内衆」の菩提寺として栄えたらしい。

しかし現在すっかり寺観は寂れ果て、小さな林に囲まれた山寺と成っている。

しかし本堂の裏、小高い台地に残された宝塔と五輪塔は地域の名品だと言われている。

特にこの大和地方では、それでなくても遺品の少ない宝塔は希少価値です。

高さ224cm、屋根と露盤は一石でつくり、露盤の側面は二区で各々格狭間を入れ、四面素面の基礎石の上に建つ。

基礎石正面には鎌倉後期の延慶三年(1310)、庚戌四月の刻名が有り、重要文化財指定。

一方宝塔の左手一体には約100基にも及ぶ夥しい数の古五輪塔が建ち並び圧巻を呈している。

中でも五輪塔群の最大塔は、高さ2.4m、鎌倉時代の力強さを見せつけている。

こんな田舎の山寺にまさかこんな名品が残っていようとは、誰も思わない程・・・

撮影2012.4.14


奈良市 法華寺光月亭(旧東谷家住宅)

2014年09月02日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

あの光明皇后が開基、国分尼寺の総本山として君臨した法華寺(法華滅罪之寺)に移築された旧東谷家住宅。

平城宮阯の東外れ、法華寺集落の中心に伽藍が有り、その本堂背後に光月亭と名付けられた茅葺き民家がある。

この民家は元、大和高原東端域の旧月ヶ瀬村月瀬にあった東谷家住宅を移築再建し、現在では同寺の客間的に利用され、法事の振る舞いや総代会、茶室の控えなどとして使われている。

東谷家は地域の庄屋を務めた家柄ですが、簡素で深い寄せ棟葺き下ろしの茅葺き屋根、大和高原域を代表する農家住宅です。

 

現在奈良県の文化財に指定されている。

撮影2014.1.4

 


熊取町 中家住宅(重文)

2014年09月01日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 大阪、熊取町に在るもうひとつの茅葺き屋根は、とてつもない名家のとてつもない大規模な茅葺き民家。

これでも民家というのかどうか???

熊取町の旧市街地、熊取歴史公園レンガ館脇の広大な屋敷の中に立つ豪壮な茅葺き屋根が見える。

ここは中家住宅は国の重要文化財に指定され、現在熊取町が管理運営を行って居ます。

普段無料で解放されて居るようですが・・たまたま僕は運が悪く休館日に出かけてしまい邸内に立ち入ることは出来ずしまいでした。

しかし外から見るだけでもその威容は十二分に伝わって来ます。

南面する表門は三間薬医門、その奥に三つ巴の家紋を刻んだ豪壮な妻板が見える。

その豪壮な屋根の規模にも圧倒され・・・しばし呆然とするばかり。

この規模にまでなると誰も一般民家などとは思いもしないが・・・もはや個人で維持管理出来る範疇には無い。

撮影2013.12.4

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中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まり、盛晴の嫡男盛秀は左近将監に任じられ、中家は代々「左近」を名乗りました。

 室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、根来寺の一子院であった成真院に子弟を送るなど深いつながりをもちました。そして、その勢力を背景に広く和泉国や紀伊国北部に及ぶ田畠を買い集め、また麹販売の権利を持つなど、この地方における政治・経済の担い手として活躍しました。なお、成真院院主であった根来盛重は徳川家直臣として、関ヶ原の合戦や大坂の陣で奮戦し、のち徳川家の旗本になりました。

江戸時代には岸和田藩の郷士代官(松平氏の時代)や七人庄屋(岡部氏の時代)の筆頭を勤めました。谷内には四百石を越える持高を有し、三十軒前後の「家中」と四十軒余りの「内衆」を抱えていました。五門・野田・紺屋・小垣内・宮・久保・下高田の村々の年貢徴収や、年寄・組頭の決定など熊取谷の行政全般を委ねられるとともに元禄5年(1692)には岸和田藩藩札の札元任じられ、藩経済にも貢献しています。

中家住宅正面
 中家住宅正面の家紋は、後白河法皇が熊野山行幸の折、当家にて作った甘瓜を献上し、それを喜ばれてこれを家紋とするようにお言葉があったことにちなみ、「三つ巴」と定めたものです。
 また中家は江戸時代末期、思想家として活躍した25代当主中瑞雲斎(1807~1871)や、明治時代に衆議院議員を勤めた28代当主中辰之助(1867~1936)などの人物を輩出しています。