愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

滋賀県大津市大石 富川の覆懸け民家

2014年02月13日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

淀川水系瀬田川に注ぐ信楽川沿い、蛇行する狭い谷合に軒を連ねる富川集落。

琵琶湖より流れ出す瀬田川が宇治川と名を変える「立木観音」で良く知られた「大石」、そこより信楽川沿いに遡ること5km約10分、信楽へと通じる国道422号線、狭い棚田越し山裾斜面の富川集落。

此処は大津市と旧信楽町が境を接する山里、春には山桜がその景観に風情を添え、まるで喧騒のない別天地。

建ち並ぶ懐かしい姿の屋根には全て覆い懸け・・・・

少し谷間を遡った民家はどこか伊賀風の屋根・・

更に奥へ詰めると二軒並んで入母屋屋根に覆い懸け・・

これは信楽川を更に遡った小さな集落で見た民家。

別方向から見れば懐かしい景観に雪が舞う・・・・この家は都会の人が買ったと言うが、その姿はついぞ見掛けたことが無いそうです。

覆い懸け屋根の民家はまだまだ残る地域ですが茅葺き屋根は全滅・・・・、この辺り車なしでは日々の生活もままならない。

撮影2013.2.11:2009.4.12:2009.3.8


京都府和束町 石寺の覆い懸け屋

2014年02月12日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

もう早や、30数年も前、郷土史の恩師と共に訪れた茅葺き屋根・・・・・。

急に思い立って訪れてみたら後の祭り、悲しくも惨たらしい姿を晒していました。

此処は和束町石寺地区、茶畑がなだらかな山肌を埋め尽くし、民家は茶畑を縫うように走る道路脇にポツポツと建つ。

30数年前、郷土史の小冊子に載せた写真・・・もうその頃にはお年寄りの二人所帯、聴いた話によると一人残ったお婆ちゃんも何年か前に亡くなったらしい・・・。

この覆い懸けが被せられたのはいつの頃だろうか??それほど古くも見えないがそれほど新しくもなく、まだ二人共に元気だった頃なのだろう???

冬支度の割木をいっぱい残し、すっかり見捨てられてしまった小さな赤い屋根

当時から農家の吹き降ろし屋根としては珍しいものでしたが・・・・、今はもう取り壊しを待つばかりです。

一方振り返れば・・・・まだまだ温もりの感じられるこんな民家も。

40年ほど前には、南山城標準の一般農家の佇まいでした・・・・。

撮影2013.2.17


奈良県生駒市 菜畑の茅葺き民家

2014年02月11日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

街中の茅葺き民家は広い屋敷に木立が茂り、周りを高い塀で囲み尽くし大抵門戸を固く閉ざしていて敷居が高く、その全容を撮影するのは難しい。

この民家は生駒市を縦断するように平群王子方面へと続く幹線道路沿い、この道を通るたび、ずっと以前から気に成っていた茅葺き屋根。

この日は天気も良かったのでチャリで足を伸ばし、ここまでやって来た・・・・・しかし案の定、門戸は固く閉ざされ、多くの建物や木立に囲まれた中央に豪壮な茅葺き大和棟の頭が突き出しているのが見えるだけ。

対面する少し高台に登ってズーミングを試みるがこの程度が関の山・・・・・。

幹線道路を跨いで捉えたのがこの写真。

多分付近一帯を治めていた大庄屋屋敷なのだろう??・・しかし見事に手入れが行き届き、揺るぎない家格を表している。

撮影2013.5.12


山添村 広代(ひろだい)墓地の十三仏板碑

2014年02月10日 | 石仏:奈良

山添村にあったもう一体の十三仏板碑

この十三仏板碑のある広代(ひろだい)墓地は、名阪国道山添ICを降りて直ぐの山添村役場から道成に約2km、鄙びた山里の幹線道路脇、一段高くなった山裾の古い墓地脇に安置されて居て地元民以外には殆ど訪れる人も居ない。

板碑は高さ約1mばかり、幅45cmと昨日紹介の奥北野墓地のものに等しく、頂部を山形にし、板面に十三仏を中肉彫りで刻み出している。

四段三列に十二仏、上部中央に虚空蔵菩薩を置き、十三仏坐像としている。

三段目と四段目の境で断裂、拙い補修が施され、合成樹脂が石仏の表面にまで垂れているのが目に障る。

記銘は禄の字が確認出来、その全体象から室町末期、永禄(1560年頃)の造立だと思われていて、こんな草深い山奥にまで十三仏信仰が根付いて居た事が窺い知れる。

撮影2012.4.14


山添村 奥北野墓地の十三仏板碑:他

2014年02月09日 | 石仏:奈良

十三仏の遺品は生駒文化圏の東大阪や生駒市方面に多いが、大和高原域でもしばしば見かける事がある。

此処、山添村北野は約20km程南「室生龍穴神社」まで続く広域農道の起点、集落外れの高台にある奥北野墓地入口に立っている。

墓地は最近綺麗に整備され古びた侘しさは無くなっている。

十三仏板碑は高さ約1m幅約45cm、頂部を山形に整え直下に二段の切り込みを入れ、天蓋を持つ虚空蔵菩薩の下に四段三列の十二仏坐像を中肉彫りで刻み出す。

両脇に銘が確認出来、安土桃山期の天正八年十月九日造立。

脇には無縁塔が有り、可愛い地蔵さんがニンマリ笑っている。

像高約60cm、多分十三仏板碑と同じ頃の造立でしょうか?? 

撮影2012.4.14


奈良県天理市 山田町の茅葺き民家-2

2014年02月08日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

前回に同じく山田町で見つけた茅葺き民家。

前回とは別の集落ですが、やはり後ろに小高い杉林が有り、どことなく良く似ています。

この一帯の集落を廻って見ると古い茅葺き民家は数多くあるのですがその全てに覆い懸けが施され、茅葺きのまま残っていたのは前回の民家とこの二軒のみ。

平入棧瓦下屋に鋭角の切り妻茅葺主屋を載せ、落棟を張り出した大和棟。

裏の高台に登って見下ろすとここもやっぱり棚田が見え隠れする。

日当たりの悪い裏側茅葺き屋根は、やっぱり苔生し傷みが段違いに早いような・・・・。

撮影2013.5.31


奈良県天理市 山田町の茅葺き民家

2014年02月07日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

大和高原、天理市山田町、なだらかな山裾の杉木立を背景に端正な茅葺き主屋を持つ上級農家の屋敷。

天理市最東部、山田町は名阪国道福住ICと都祁馬場町を結ぶ県道47号線沿いの歴史ある鄙びた山里。

緩やかな棚田の中に小さな集落が軒を連ね、日本の原風景を彷彿とさせてくれる処です。

そんな中、早苗のそよぐなだらかな棚田の奥にバッチリ決まった茅葺き民家の屋敷がまるで絵のように佇んでいる。

片妻寄せ棟、片側切妻、棧瓦の大きい箱棟を載せ、棧瓦の落棟に煙出し館・・・ちょっと風変わりな大和棟風。

平入主屋を真ん中に、離れ屋、蔵、向かって右手には納屋?を兼ねたようなもう一棟・・。

狭いながらも庭先には松や紅葉のの植え込みもあり・・・・

良き時代の裕福な農家を彷彿とさせてくれる。

放棄茅葺き民家の多い中、現在も堂々と生き続けている事を、強く感じさせてくれる茅葺き屋根の民家でした。

撮影2013.5.31


京都市右京区嵯峨 嵯峨釈迦堂(清涼寺)石造層塔:宝筐印塔

2014年02月06日 | 石塔:石造物

古い寺には古い石造遺品・・・・、昨日に引き続き京都嵯峨釈迦堂(清涼寺)の三石塔。

その一基目、「源融(みなもとのとおる)の塔」と呼ばれる鎌倉時代後期の宝篋印塔。

相輪を除いた高さは163cm、塔身には金剛界四仏の種子を刻むと言うが、彫りが浅いのか良く見えない。

直立に近い隅飾り、切石の上に、基礎を無くし、別石で造られた単弁反花座の上に載り、均整の取れた風格を持つ。

因みにここは、源融の山荘「 棲霞観(せいかかん)」があり、死後「棲霞寺」としたのがこの寺の始まりと言われている。

二基目の宝篋印塔は「源融の塔」の少し北側、石柵に囲まれた基壇の上に後ほど紹介する石造層塔と並立している。

一目見るなり何処か変、笠部の隅飾りが全て欠損、どこか締まりなく、何となく落ち着きません。

四隅共に欠損するなんて・・・、なんか人為的なものも感じ無いでは居られません。

複弁反花座上に載る塔身には、金剛界四仏の種子を、線彫りの月輪内に刻み、「嵯峨天皇の塔」との伝承があるようですが、鎌倉時代後期の造立。

同柵内、向かって左手には、古びた様式を持つ石造層塔。

特に初重軸部と一段目、二段目の屋根部は軒が薄く勾配も緩く、軒反りも少なく、特に古い様式示している。

特筆すべきは、隅取りした細くて高い塔身、古様な顕教四仏の種子。

基台上部も面取りがあり、古式をを踏襲・・・・上部を欠損するも平安末期の五重層塔だと考えられ貴重な石塔です。

撮影2006.12.16:2012.8.25


右京区嵯峨 嵯峨釈迦堂(清涼寺)八面石幢(再UP)

2014年02月05日 | 石塔:石造物

清涼寺を開基した然(ちょうねん)上人(938~1006)の墓標だとされる八面石幢。

六角形や燈籠型のものは多いが、八角形の石幢は珍しく、その上風化摩耗も激しく、上部の笠がなければ丸い石柱・・・・。

高さ155cmの花崗岩を丸みの強い八角形に整形、上部に括れ造りその下方、各面のそれぞれ如来形立像を刻み出している。

しかし石仏は風化摩耗が激しく、肉眼では何が何やら状態。

古い形式を伝え鎌倉期の像立とされるが、元から然(ちょうねん)上人(938~1006)の墓だとするには無理がある。

因みに上部八角形笠石宝珠は最近の後補です。

一切経蔵(輪蔵)の前に安置された「傅大士(ふだいし)」父子像・・・・やっぱりどこか異国風で彩色もよく残っている。

撮影2012.8.25


奈良県御杖村 神末(こうずえ)の覆懸屋根民家

2014年02月04日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

 

2~3年前には確かに残っていた茅葺き民家を再確認に行ったが・・・・・道の駅で確かめたところ去年「覆い屋根」が懸けられ後の祭り・・・・・。

しょうがないので近場でそれらしき集落は無いかと訪ねたのが此処、奈良県御杖村神末地区。

奈良県御杖村は奈良県最東端、三重県旧美杉村と境を接する旧伊勢本街道沿いにある鄙びた山里。

そんな中でも神末地区は更に東外れ、幹線道路より更に谷筋を遡上、御杖神社という古い神社のある古い土地。

しかしここでも、つい最近までは茅葺き屋根だったろうと思える民家は多いものの茅葺き屋根の民家は全滅・・・・・。

これがそのまま茅葺きだったらどんなに素晴らしいだろうと思える民家もこの通り。

こんな可愛い山沿い一軒家にもやっぱり覆懸屋根。

山際に三軒並んだ入母屋の屋根を持つ覆懸家・・・・・、もう10年程前なら、せめて右の二軒は茅葺き屋根の侭だったろうに??

こちら幹線道路沿い、高台に三軒並んだ覆懸民家・・・・・。

最近は覆懸民家でも、人の住まない放置家屋が多くなってしまった。

撮影2013.5.3


滋賀県米原市 吉槻の茅葺き民家

2014年02月03日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

永らく御蔵入りしていた茅葺き民家。

多分、もう今では見ることも出来ないだろう??・・・・、今から7~8年も前、このブログを始め出した頃、湖北、伊吹山の山懐に巨樹の撮影に行き、たまたま出逢った茅葺き民家。

ロケーションもよく背景には新緑を吹き出した桂の巨木。

しかしその当時既に廃家と化していて、最早この地には何も存在してない事だろう???

時代は容赦なしに懐かしさを奪い取ってゆく。

撮影2007.4.28


三重県旧美杉村  伊勢奥津の街並

2014年02月02日 | 街道街並集落 景観 

奥津は伊勢本街道、奈良県境に近い三重県、旧美杉村に江戸時代から明治末まで宿場として栄え、今も懐かしいその面影を残し、町おこしの一環として、古い屋号のある家が玄関に工夫を凝らした暖簾を掛けている。

町の中央には、今は通わないJR名松線の終着駅「伊勢奥津駅」が有り・・・

赤錆た鉄路や遠い昔の給水塔に過ぎ去った過去へのノスタルジーを感ぜずには居られない。

JR名松線は2009年10月、台風18号で甚大な被害を受け、途中の「家城」から「伊勢奥津」間が不通、、現在も代行バスで凌いでいる。

一時は不通箇所の家城~伊勢奥津間の廃線も取沙汰されたが、何とか2016年度中には復旧開通予定に成っています。

<伊勢奥津駅を正面奥に見る道しるべ>

そんなことも相俟り、過疎化が進む往時の宿場も人通りは無く閑散としていますが・・・・、それだけに僕にとっては余計に心に染み入る処と成りました。

同じ場所より振り返る旧街道・・・・。

向かいには「ぬしや」と書かれたちょっと風変わりな建物の雑貨店・・・・・この建物具合はどうも旅籠っぽい。

伊勢本街道「ぬしや」の暖簾が見える。

見たところ出入り口にはカーテンが降ろされ、既に閉店状態・・・・。

「かぶとや」と染め抜かれた暖簾の掛かる民家・・・・

平入、正面の雨縁には懐かしい棧格子が残され・・周りは改装されても、どこかやっぱり旅籠風。

こちら大店風の重厚な家構え、脇門には「山中屋」の染め抜き文字・・・・どの旧家にも伊勢地方独特の「蘇民将来」と書かれた駒札を掲げた七五三縄を通年掲げ、この鄙びた山里も伊勢地方の一部だと言うことを教えてくれる。

山内醤油店の古い看板の残る民家、家紋を入れた暖簾が掛けられている。

暖簾だけで伊勢本街道時代の賑わいは戻らないだろうが・・・・、鄙びた宿場町の風情は倍増して味える。

それにしても名松線が不通になって約5年、いくら過疎地域だといっても未だに復旧もせずおよそ3年先の2016年中だとか????

撮影2010.3.28


京都府精華町 祝園(ほうその)神社の居籠り祭り(三日目-綱引き式)

2014年02月01日 | 神事:行事:寺社: 仏像

祝園(ほうその)神社「居籠り祭」の第三日目、綱曳(つなひき)の儀を見てきた。

<この画像だけは2013.2.6撮影のもの>

祝園(ほうその)神社は我が山城、精華町祝園、木津川右岸堤直下に有り、 「崇神天皇」の時代に、朝廷にそむいた武埴安彦(たけはにやすひこ)がこの地で討伐され、その霊は鬼神となりこの地ににとどまり、災いを起こしていた・・・、この霊を鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが祝園神社であるといわれています。

<祭りの間、境内中央、榊の両脇に砂盛をし、木の鉾を立て二本をクロスさせている>

この地「祝園」は難読地名の一つにも挙げられ「ほうその」と読みますが、古来「武埴安彦の乱」で戦場となり、多くの死者を葬ったこの地を「葬園(はふりその)」と呼び、後「ほうその」と読みが転嫁、縁起の悪い「葬」の字は「祝」の字に変わったようです。

そんな古い謂れの祝園神社では正月の申の日から三日間「いごもり祭り」と称する神事が行われる。

「いごもり」は「忌籠り」や「斎籠り」とも書き、その昔には、一定の場所に物音一つ立てずに籠り、外部との接触を断つのが習わし、その習わしが現在にまで残り、旧家の一部には玄関に筵を張り、明かりや音が外部に漏れないようにして神事に服している。

<「御田の儀」が行われる道筋には神の渡る白砂が一筋長く続いている>

「いごもり祭り」は一日目、怨霊の例を鎮め神を迎える「風呂井の儀」、二日目大松明を担ぎ境内より約1km、田圃の中に小さく残された「こうのもり」と呼ばれる場所まで行き、五穀豊穣を願う「御田の儀」・・・・・この二日間は暗闇の「静」の中、粛々と行われる。

さて、僕の見てきた三日目、「綱曳の儀」は、前夜までの「静」の祭りとは一転、昼間明るい内に、老いも若きも集まり賑やかに行われる「動」の祭り。

用意されていた綱曳き用の綱は笹付きの青竹三本を中央の笹環に通し結わえたもの・・

1月15日午後2時過ぎから三々五々、人々が集まり、竹綱を参道まで引きずり出し、笹環を鳥居の真下に据え準備万端。

因みに中央の笹環はこの地で斬殺された「武埴安彦」の首を型どって造られたものだと言い伝えられている。

子供達が学校から帰り人数が揃うと綱引きのスタート・・・・・・神官は中央に立つものの、それほど厳粛さもなく和気あいあい。

勝負は三番勝負、今年は2対1で奥側、北地区の勝ち・・・・勝負でその年の豊凶を占うと言うが・・・・・凡そ皆さん信じてないらしく、地区のリクレーションと言った風・・・・。

おまけに今年は1回目の勝負で中央の笹環が断裂、応急措置のうえ勝負を続けたが、不平不満を言うでもなく、誰もが苦笑い。

役目を終えた竹綱は参加者の手により引きずられ・・・・・

神社より南に約300m、出森(いずのもり)と呼ばれる、武埴安彦(たけはにやすひこ)斬殺の地まで運ばれ・・・

素早く解体、村中の正月飾り共々盛り高く積み上げられ・・・

火が点けられ・・・・・・「いごもり祭り」の行事は全て終了。

一ヶ月後、対岸の旧山城町「和伎神社(和伎座天乃夫岐賣神社)」でも「いごもり祭り」が行われる。

撮影2014.1.15