祝園(ほうその)神社「居籠り祭」の第三日目、綱曳(つなひき)の儀を見てきた。
<この画像だけは2013.2.6撮影のもの>
祝園(ほうその)神社は我が山城、精華町祝園、木津川右岸堤直下に有り、 「崇神天皇」の時代に、朝廷にそむいた武埴安彦(たけはにやすひこ)がこの地で討伐され、その霊は鬼神となりこの地ににとどまり、災いを起こしていた・・・、この霊を鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが祝園神社であるといわれています。
<祭りの間、境内中央、榊の両脇に砂盛をし、木の鉾を立て二本をクロスさせている>
この地「祝園」は難読地名の一つにも挙げられ「ほうその」と読みますが、古来「武埴安彦の乱」で戦場となり、多くの死者を葬ったこの地を「葬園(はふりその)」と呼び、後「ほうその」と読みが転嫁、縁起の悪い「葬」の字は「祝」の字に変わったようです。
そんな古い謂れの祝園神社では正月の申の日から三日間「いごもり祭り」と称する神事が行われる。
「いごもり」は「忌籠り」や「斎籠り」とも書き、その昔には、一定の場所に物音一つ立てずに籠り、外部との接触を断つのが習わし、その習わしが現在にまで残り、旧家の一部には玄関に筵を張り、明かりや音が外部に漏れないようにして神事に服している。
<「御田の儀」が行われる道筋には神の渡る白砂が一筋長く続いている>
「いごもり祭り」は一日目、怨霊の例を鎮め神を迎える「風呂井の儀」、二日目大松明を担ぎ境内より約1km、田圃の中に小さく残された「こうのもり」と呼ばれる場所まで行き、五穀豊穣を願う「御田の儀」・・・・・この二日間は暗闇の「静」の中、粛々と行われる。
さて、僕の見てきた三日目、「綱曳の儀」は、前夜までの「静」の祭りとは一転、昼間明るい内に、老いも若きも集まり賑やかに行われる「動」の祭り。
用意されていた綱曳き用の綱は笹付きの青竹三本を中央の笹環に通し結わえたもの・・
1月15日午後2時過ぎから三々五々、人々が集まり、竹綱を参道まで引きずり出し、笹環を鳥居の真下に据え準備万端。
因みに中央の笹環はこの地で斬殺された「武埴安彦」の首を型どって造られたものだと言い伝えられている。
子供達が学校から帰り人数が揃うと綱引きのスタート・・・・・・神官は中央に立つものの、それほど厳粛さもなく和気あいあい。
勝負は三番勝負、今年は2対1で奥側、北地区の勝ち・・・・勝負でその年の豊凶を占うと言うが・・・・・凡そ皆さん信じてないらしく、地区のリクレーションと言った風・・・・。
おまけに今年は1回目の勝負で中央の笹環が断裂、応急措置のうえ勝負を続けたが、不平不満を言うでもなく、誰もが苦笑い。
役目を終えた竹綱は参加者の手により引きずられ・・・・・
神社より南に約300m、出森(いずのもり)と呼ばれる、武埴安彦(たけはにやすひこ)斬殺の地まで運ばれ・・・
素早く解体、村中の正月飾り共々盛り高く積み上げられ・・・
火が点けられ・・・・・・「いごもり祭り」の行事は全て終了。
一ヶ月後、対岸の旧山城町「和伎神社(和伎座天乃夫岐賣神社)」でも「いごもり祭り」が行われる。
撮影2014.1.15