愛しきものたち

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山科 人康親王(さねやすしんのう)供養塔と石仏

2012年07月05日 | 石仏:京都

先日紹介の山科地蔵堂の裏、徳林庵東南角に人康親王(さねやすしんのう)供養塔と呼ばれる宝筺印塔と共に石仏が立ち並んで居る。

山科地蔵は元、伏見区六地蔵に在る大善寺祀られていた六地蔵の一体を保元年間(1156~1159)に、この地に移したもの。

仁寿二年(852)小野篁公(おののたかむら)の作だと伝えらる像高3mにも近い地蔵菩薩立像は圧巻ですが・・・これも鍵の掛かった格子戸よりレンズだけ入れてのストロボ撮影です。

山科地蔵の有る臨済宗徳林庵はその後、江戸時代の天文年間(1532~55)、人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔うために創建されたと云うが・・、死後1000年近くも経って妙な話です。

実のところ、そんな事は解らなくても良くって・・・・これが所謂人康親王供養塔。

石柱には「蝉丸:人康親王供養塔」と有りますが、蝉丸は同時代同じ盲目の琵琶法師だと云う事から混同されたようです。

中央に建つ宝筺印塔(供養塔)は塔身正面、月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫りする南北朝期の建立。

宝筺印塔の向かって左後に立つ石仏は・・・・・・いつものように涎掛けを失礼するとこんな像容。

総高約1.5m足らず、舟形光背を負い、右手は肩先、左手は膝の上、しかし風化磨耗が激しく印相は不明。

頭部には肉髻(にくけい)が盛り上がり如来型を示し、下部は殆ど石塊の如くに見えますが蓮台に結跏趺坐しているようです。

これだけ傷んでいると尊名は不明ですが、肉付き豊かで力強い膝張など全容からは鎌倉様式を踏襲した南北朝頃の造立か??

元は野の仏として置かれていたのか蓮台から下に土台のような石塊が有る・・・、この部分が土中に埋まり立っていたのだろうか??

右端にはこんな妙な石仏さん。

涎掛けを付けたままでは在り来たりの地蔵さん・・・外してみると、こんなん出て来ました~~~

肩から先を欠損、つい最近になり頭部と光背上部を補修したようですが明らかにチグハグ、体躯は左の石仏と同じく如来型、頭部は地蔵を意識した僧形。

元は蓮台に座する如来型坐像石仏だったのだろうが??やっぱり地蔵さんと呼んでるのだろうか??

体躯だけを見てると、殆ど左の石仏に引けを取らないが、頭部はそれを知ってか知らずか??悲しげに見える。

もう一体、宝篋印塔の真後ろに隠れるようにしてこんな石仏の残欠。

弥陀定印を持ち頭部は断裂欠損、卍の丸瓦が載せられています。

これも他の二体と同じ頃の造立だと思われます。

この塔や石仏達は、その呼び名はともかくとして、どのような運命を辿って来たのか気に掛かる。

撮影2012.6.30



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