ピアノの音色 (愛野由美子のブログです)

クラシックピアノのレッスンと演奏活動を行っています。ちょっとした息抜きにどうぞお立ち寄り下さいませ。

荒城の月

2011年09月21日 | クラシック豆知識
皆さまよくご存知の名曲「荒城の月」。この曲は大分県出身の作曲家、滝廉太郎が作曲した曲です。私は大分県に住んでいるせいか、色んな集まりなどでこの曲を耳にする機会がよくあります。

私も今度、ある会でピアノの演奏をするのですが、クラシックだけではなくこの「荒城の月」も弾いて欲しいというリクエストをいただきました。この曲をちゃんと楽譜を見て弾くのは初めてなので、改めて下調べを始めて、あれ?と思ったことがあります。私が今回入手したピアノソロ用にアレンジした楽譜と、日頃よく耳にする曲とでは、一ヶ所、音が違うところがあるのです。



この冒頭の二小節めのミの音です。ここにシャープがついています。いつも耳にする「荒城の月」はここにシャープがついていません。夫に歌ってもらったり(これはあまりあてにはなりませんが、一応大分県出身なので)、YouTubeで聴いてみたりしましたが、皆、シャープなしで歌っていました。そこでさらにウィキペディアを見てみると、私たちが日頃よく耳にしているのは滝廉太郎の原曲ではなくて、後に山田耕筰が編曲したバージョンの方だったということがわかりました。

「山田耕筰はロ短調からニ短調へ移調、(中略)一番の歌詞でいえば『花の宴』の『え』の音を、原曲より半音下げている」

なるほど、そういうことだったんですね。この半音の違い。結構大きいですよね。

最初聞いたときに違和感のあったシャープつきの旋律が、だんだんこのシャープに味わいがあるような気になってきました。今回は、敢えて原曲版をもとにしたこの楽譜で弾いてみようと思っています。

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作曲家のおもしろ雑学事典

2011年09月16日 | クラシック豆知識
萩谷由喜子氏の「作曲家おもしろ雑学事典」という本を時々めくります。

作曲家の一生を簡単にまとめながら、プライベートなエピソードを盛り込んである本です。興味津々で読んでしまいます。一人の作曲家に5分で読めるような内容にまとめてあって、読みやすいです。

今日は、バッハの愛妻のお話。バッハの最初の妻は、明るく心優しい妻マリア。バッハの人望は厚く、家にはたくさんの弟子たちが出入りしマリアを中心に笑い声が絶えませんでした。ところが、マリアは36歳という若さでこの世を去ります。マリアの死で悲しみにくれるバッハとその家族。

その家族をしばしば訪問し子供たちに愛情をそそいでくれたのが、アンナ。バッハが何よりも嬉しかったのは、アンナはマリアの想い出を大切にしたことでした。こうして、だんだんアンナとバッハは愛し合うようになり結婚します。

アンナもマリアのように献身的にバッハにつくし、マリアとの間の子供4人を成人させ、アンナ自身も13回の出産をしています。後年、バッハが目を患った時には、アンナが筆写しているものがあるそうですが、全く彼自身のものと見わけがつかないほどだったそうです。

バッハが、アンナに贈った「アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア曲集」は有名ですね。

今日は、バッハの愛妻のお話ですが、もっといろいろな作曲家の、「へ~!知らなかった」というエピソード満載ですよ。

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楽曲解説 グリーグ「ピアノコンツェルト イ短調」 第二楽章、第三楽章

2011年08月18日 | クラシック豆知識
さて、昨日第一楽章の解説をしたので、今日は第二楽章と第三楽章です。そもそも、この曲は三つの楽章からなっていて、第一楽章と第二楽章の間には、ちゃんとそれと分る区切りがあるのですが、第二楽章から第三楽章にかけては、とどまることなくそのまま第三楽章に入る、アタッカという形式になっています。

第二楽章 アダージョ 変ニ長調、8分の3

導入部は、オーケストラの弦楽器が弱音器つきで静かに哀感を持って奏でるところから始まります。山々の起伏をなだらかに表すような旋律が続き、第2部に入ります。第2部からピアノが入ります。このピアノの最初の4小節は民族風の「牛を呼ぶ歌」から、グリーグがインスピレーションを得たと言われています。転調して同じような音型が繰り返され、第3部に渡されます。第3部では、ピアノとオーケストラが共に再現部を演奏しますが、導入部のように静かではなくここでは、ペザンテ(重々しく)堂々とした音楽に変わります。ピアノは、左手の力強い前打音を特徴とした壮麗な雰囲気になります。そして、また静かになり、美しい夜の星空のもとに誘われるようにして第二楽章が消えていきます。

第三楽章 アレグロ・モデラート・エ・マルカート、イ短調4分の2拍子

第三楽章はロンド形式で書かれています。カデンツァ風のピアノからすぐ主題に入ります。主題は軽快なリズムと北欧的旋律が特徴的な民族舞曲を取り入れています。第1副主題は、違う形の軽快で歯切れのよいリズムが続き、第2副主題の分散和音の流れるようなピアノの伴奏の部分を経て、次のセクション、第3副主題へと入ります。それは、フルートのソロによる牧歌的な美しい旋律から始まります。その旋律をピアノが引き継ぎ、この世のものとは思えないほど美しい音楽が繰り広げられます。そこには、グリーグが目にした美しい北欧の風景が音に閉じ込められているように感じます。私など、あまりの美しさにピアノを弾きながらそのメロディーに感動して、ふと左手を忘れたりしてしまうことがあります。弾き手は感動しても冷静さを失ってはいけないと、胆に銘じるところでもあります。そして、再現部となり、小規模のカデンツァが終わると、いよいよコーダに入ります。ここで、2拍子から3拍子へと変わり調性もイ長調になります。そして、クライマックスを迎え華やかに終結するのです。


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楽曲解説 グリーグ「ピアノコンチェルト イ短調」 第1楽章

2011年08月17日 | クラシック豆知識
第一楽章  アレグロ・モデラート、4分の4拍子

グリーグといえばこれ、というくらい有名な出だしです。何の曲かは知らなくてもこの冒頭部分を聴けば誰でも、「あ、知ってる」、と言うにちがいありません。ティンパニが地鳴りをするようにクレッシェンドしながら響いてきて、その頂点に達したところでピアノがドラマティックに始まります。「チャン、チャチャチャン」というあの有名な出だしです。ラソ♯ミという短2度長3度の下降は、グリーグモティーフと呼ばれ、ノルウェーの民族音楽に特徴的なフレーズなのだそうです。何かこれからドラマティックな展開が始まるのではないかと、聴衆を一気に「掴む」、ものすごく効果的で鮮烈な印象を与える出だしです。

その後、オーケストラが第一主題を奏で、ピアノに受け継がれ発展して、ピアノが軽快なリズムを刻む経過部を通って、ゆっくりした静かな第2主題が始まります。この第2主題は、グリーグらしい美しい旋律でノルウェーのフィヨルドを思い起こさせるものです。それから、フルートの旋律にピアノが寄り添う形で展開部が静かに始まり、だんだん熱を帯び華やかに展開部を閉じます。そして、再現部が始まり、全く同じ第1主題が今度はいきなりピアノから始まり、第2主題に流れます。それぞれの主題や展開部や再現部の始まりは、イ短調、ホ短調など短調で書かれていますが、この第2主題はハ長調、そして再現した後の第2主題はイ長調で、それぞれ長調で始まります。

私は、グリーグのこの長調の穏やかで美しく切ない雰囲気に、ノルウェーの自然の美しさと人間の本来持っているであろう魂の美しさを感じます。これが長調であることによって、逆に悲しい美しさを感じてしまいます。

そして壮大なカデンツァが続きます。カデンツァとは、もともとソリストによる即興的な演奏という意味でしたが、ある時期から作曲家が書いた通りに演奏するようになり、即興性自体は失われています。それでもこの部分は協奏曲の中にあって完全にソリストに任された部分であるということは変わりません。カデンツァではオーケストラはお休みし、指揮者も棒を振りません。この曲のカデンツァは、技巧的にも華やかで、ピアニストの腕の見せどころとなっています。

カデンツァが終わるとコーダ(終結部)に入ります。冒頭に使われたグリーグモティーフを、ここではリズムを変えて、3連附のリズムで奏で、第一楽章が華々しく終わります。

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ベーゼンドルファーのピアノ

2011年08月11日 | クラシック豆知識
8月20日に予定されている医大OBオケの定演で、コンチェルトのソリストとして出演します。
大分市コンパルホールでの開催ですが、そこのピアノを少しだけ試し弾きさせてもらいました。

このホールには、ベーゼンドルファーのフルコンとカワイのフルコンが入っています。ベーゼンの方は、以前何度か弾いたことがありますが、それから随分時間も経っているので、どんな状態か少し気になっていました。「状態によってはカワイを使う方がいいかも」という声もあり、ここのホールのカワイは弾いたことがなかったので、今回、両方とも少しだけ試弾させて頂きました。

使用していない時間帯に倉庫の中でという条件でしたが、快く対応していただけて感謝です。さてその結果は、やはり、私がしっくりくるのはベーゼンの方でした。久しぶりに弾くベーゼン、普通のピアノは88鍵なのに対して、ベーゼンのインペリアルは低音部にもう9鍵ついていて、全部で97鍵になります。それを足すと、このピアノの鍵盤は全体でちょうど8オクターヴということになります。追加の9鍵のところは写真のように黒塗りになっていて、一応区別できるようになっていますが、やはり、「ピアノの左端はラ」という感覚に慣れているので、気をつけないと間違いそうになることがあってドキッとします。



今回、私が弾くグリーグのコンチェルトは、冒頭のドラマチックな始まりで上から下まで下降し、普通のピアノの一番下のラからアルペジオでまた駆け上がるところがあります。そこを間違いそうになるのです。ここはピアノの一番端っこから、とインプットされているので、手元が狂いそうになります。気をつけないと恐ろしいことに・・・・。

というベーゼンですが、その名を世界に馳せたピアノですから、本来素晴らしいピアノです。ピアノは、メインテナンスと調律によって、その本来の持っている素晴らしさが発揮できるかどうか決まってくると思います。ベーゼンはそんなに弾く機会を私は持ちませんが、東京の自由が丘にある工房で試弾させていただいた時のベーゼンの素晴らしさは今でも忘れられません。

いろんな場所でいろんなピアノと出会い、仲良くなる。これが、自分の楽器を持ち運びできないピアノ弾きの喜びでもあり、苦労でもあります。

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グリーグの生涯その3

2011年08月08日 | クラシック豆知識
グリーグは、1868年、25歳の年の夏から秋にかけて、デンマークのセレレーズ(Søllerød)という町に宿をとり、そこにピアノを持ちこんで作曲に没頭しました。ここで書かれたのがグリーグ唯一のピアノ協奏曲で不滅の名作「ピアノ協奏曲イ短調」です。この宿にはピアニストで親しい友人でもあったノイベルトが一緒に住み込み、この作曲にピアニストとしての助言をしています。彼の助言はこの名曲のピアノ演奏効果に大いに役立ったと言われています。

初演は翌年コペンハーゲンで行われました。そのときのピアニストは作曲にも貢献したノイベルトで、ものすごい大成功を納めました。この曲はノイベルトに献呈されています。続いて翌年グリーグはこの曲の自筆の楽譜を携えてリストのもとを訪れます。リストはこれを初見で弾いて、第3楽章のある部分について「これが本当の北欧だ!」と絶賛したというエピソードがあるそうです。グリーグ27歳、巨匠リストが59歳のときのことです。他にも組曲「ペール・ギュント」をはじめ、民族色豊かで、美しい自然を彷彿させるグリーグならではの旋律を用いて数多くの作品を発表していきます。こうしてグリーグは世界に羽ばたいて行くのです。

駐日ノルウェー王国大使館によるグリーグの紹介記事には次のような一節があります。

「リストの絶賛を受け、海外での人気は高まり、外国での公演も次々に成功しました。グリーグの国民的作曲家としての地位は揺るがぬものとなり、二人の銀婚式は国をあげて盛大に祝われました。当時、音楽的には非主流である、いわば田舎の一作曲家に過ぎなかったグリーグが、生きている間に世界的な人気を博したのは、きわめて異例なことでした。まだまだ男性社会だった当時、夫妻がともに名声を得ていたことも、例外的でした。」

ノルウェーの国民にとって当時も今もグリーグが、いや、グリーグ夫妻がどんなに誇らしく、愛すべき存在かがよく分りますね。

しかしもちろんグリーグといえども生涯を通じて悲しみや苦悩と無縁だったわけではありません。ニーナとの間に生まれた愛娘アレクサンドラを一歳の時に失っています。その後夫妻は子供に恵まれることはありませんでした。さらに後年、両親を亡くした上、ニーナとも一時不仲になるなど、グリーグの様々な苦悩から生まれた「バラードト短調」なども特筆に値する名曲です。このバラード以降彼の耳に通奏低音のようにト短調が聞こえて、内なる声としてとらえられていきます。それは彼自身が言っている「私の生涯の重要な時期」であり、ト短調の時代ともよばれているのです。


トロルハウゲンの家

ヨーロッパ中を旅から旅へと移動し、自作自演のコンサートを繰り返しながら、夫婦は1885年4月にベルゲンのトロルハウゲンに家を建ててそこを終の棲家とします。トロルハウゲンの家は海の見えるフィヨルドの断崖の上にあり、自然の美しい風景が広がっているところだそうです。ニーナとは、生涯仲睦まじく暮らし、オシドリ夫婦として有名でした。夫婦でトロルハウゲンの家から海外演奏に出掛けては帰ってくる、旅の多い音楽三昧の暮らしを続けていたようです。こうしてグリーグは愛する妻とともに生涯音楽と取り組み、1907年(64歳)ベルゲンの病院で亡くなりました。トロルハウゲンの家は現在グリーグの博物館兼コンサート会場として親しまれています。

駐日ノルウェー王国大使館:グリーグ
駐日ノルウェー王国大使館:ニーナ・グリーグ

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グリーグの生涯その2

2011年08月07日 | クラシック豆知識
グリーグは、ライプツィヒでの留学を終えてノルウェーに戻ってきた翌年、1863年にデンマークのコペンハーゲンに出ていきます。当時、北欧の音楽の中心となっていたのが、デンマークだったからです。ここでも、たくさんの出会いがありました。

中でもグリーグの作風を変える運命的な出会いといえるのが、ノルウェー国民楽派の作曲家で、「ノルウェー魂の化身」と呼ばれ、後にノルウェーの国歌になった曲を作曲したことで知られるリカルド・ノルドロークとの出会いです。当時グリーグ20歳、ノルドローク21歳、このほぼ同い年の若者二人は、ノルウェーにある魅力的な民族的音楽を芸術の高みに持っていこうと奮起します。

こうして、グリーグのスタイルであるロマン派的民族主義がこの時期に固まっていきます。このコペンハーゲン時代の三年間は、彼にとって大きな転機の時代でした。音楽的にもそうですし、私生活でもそうでした。歌手で従姉妹の二―ナと婚約したのもこの頃です。ここで、歌曲「きみを愛す」やピアノソナタ、ヴァイオリンソナタなど、数々の作品を作っています。幸せに満ちたグリーグの心情が音楽に表れています。


生涯を通じて仲睦まじく暮らしたグリーグとニーナ

1866年、ノルウェーに帰国したグリーグは、時にはニ―ナとともに、素晴らしい演奏家達とコンサートを次々と開き、ノルウェーの音楽家の若手代表として認められるようになっていきます。ハルモニスケ教会の指揮者に任命され、仲間とともにノルウェーに音楽アカデミーを設立、1867年には晴れてニーナと結婚し、公私ともに充実した生活を送っていました。そして完成したのがピアノ曲「抒情小曲集」の第一集です。この愛すべき作品集は、その後37年かけて第十集をもって完成します。全部で66曲もある小品集です。その第一集はこの時期に生まれました。一つひとつが豊かな雰囲気を醸し出し、その音楽を奏でると美しい山河を想像させたり、または、民族的な踊りを連想させたりします。この曲集は、出版社を大いに興奮させたと記されています。こうして彼は、ヨーロッパで大きな名声を得るようになっていきました。

今日はここまで。今度のコンサートで私が弾くことになっているグリーグの代表作「ピアノ協奏曲イ短調」についてはまた次回。どうぞお楽しみに!

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グリーグの生涯その1

2011年08月06日 | クラシック豆知識
エドワルド・グリーグは1843年6月15 日生まれ。ノルウェー出身です。

グリーグは、5人兄弟の4番目の子供で幼い頃、母ゲンネが弾くショパンやシューマンを聞きながら育ちました。6歳の頃から母からピアノを習い、ぐんぐん上達していきます。ゲンネの親戚に当時ノルウェーで伝説的なヴァイオリニストのブルという人がいて、エドワルドのピアノを聞き、とても感銘を受けてライプツィヒで本格的に音楽の勉強をすることを勧めます。

15歳だった少年は、こうして音楽の道へと本格的な一歩を踏み出していきます。メンデルスゾーンが創立したライプツィヒ音楽院は、1858年グリーグが旅立った頃は世界中から優れた音楽学生が集まってきていました。そこで彼は切磋琢磨して音楽を学んでいきます。

ただ、このライプツィヒ時代は、グリーグにとっていろいろな葛藤があったものと推測します。なぜなら、「私がほとんど始めた時と同じくらい何も知らずに音楽院を後にすることができたのは、私の気質のせいです。私は夢見る人間で人と競争する気持ちはなかった。どちらかというと鈍くてすぐに覚える方ではなかった」という言葉を残しています。

しかしながら、この時代の収穫は大きなもので、シューマンの親友のヴェンツェルに師事したり、有名なピアニスト、モシェレスに師事したりしてピアノの腕を磨いています。またこの間、たくさんの演奏会に出かけていて、ゲヴァントハウスで聴いたクララ・シューマンの演奏するシューマンのピアノ協奏曲から受けた感動が、のちにあの有名なピアノ協奏曲イ短調を作曲する原点となったと言われているそうです。

その留学時代、残念な事に重い肺炎になり、その後遺症で左肺が不全となってしまいます。それでも無事1862年に卒業して、ベルゲンに戻りピアニストとしてデビューしました。コンサートではシューマンの作品を演奏して好評を博したそうです。

今日は、ライプツィヒ時代まで。続きはまた次回。

参考文献:「GREIG ピアノ協奏曲イ短調」大束省三、日本楽譜出版社

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イスラエル室内管弦楽団とワーグナー

2011年07月28日 | クラシック豆知識
今月の26日にイスラエル室内管弦楽団がドイツのバイロイトでワーグナーの「ジークフリート牧歌」を演奏したというニュースがありました。一見、大したことでもないように見えるかもしれませんが、実はこれは国際的な大ニュースなのです。

ワーグナーは偉大な作曲家でしたが、同時に反ユダヤ主義者でした。後にナチス・ドイツはそのユダヤ人排斥運動を推進する上で、ワーグナーとその作品を最大限に利用しました。ユダヤ人たちにとって、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の経験や記憶は、反ユダヤの象徴であるワーグナーとその音楽を受け入れられないものにしたのです。

戦後、今に至るまで、イスラエル国内ではただの一度もワーグナーの曲が演奏されたことはないそうです。イスラエルではワーグナーはタブーなのです。そんな中、ドイツで初めて、しかもワーグナーとゆかりの深いバイロイトで、イスラエル管弦楽団がワーグナーの作品を演奏したのです。多くのユダヤ人たちから、そんなことはやるべきではないと批判の声があがったそうです。それでもついに実現にこぎつけたのでした。

指揮者のロベルト・パーテルノストロの母親もホロコーストの生き残りで、当時、親戚などをふくむ一族の80%がホロコーストによって亡くなったそうです。その彼が、熱心にこのコンサートの実現に取り組み、この演奏会を大成功に導きました。満員の会場にはワーグナーのひ孫や、イスラエルをはじめ世界各国からのユダヤ人たちの姿も大勢見られたそうです。

演奏会の後、パーテルノストロはインタビューに答えて、25年間の指揮者生活で最も感動的な演奏会だったと述べています。演奏が終わった後、1分間あまり、沈黙が会場を覆い、そしてその後、割れんばかりのスタンディング・オベーションが始まったということです。

この指揮者は、ワーグナーがユダヤ人にとってどんな人であったか充分承知の上で、なお、ワーグナーの音楽そのものの素晴らしさを訴えようとしたのです。音楽を通じて、どのような道を歩むのか、どのようなメッセージを伝えようとするのか、それは作曲家の手を離れて、演奏家自身が決めることもできるということをはっきりと示した好例だと言えるのではないでしょうか。

イスラエル楽団がワーグナー=ドイツで初-バイロイト

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ハニホヘトイロ

2011年06月19日 | クラシック豆知識
音名というのは五線譜の上の一音一音の呼び名のことです。これを普通私たちはド・レ・ミと呼ぶのですが、これはイタリア語です。このド・レ・ミに対応する英語がC・D・Eです。ドイツ語も英語と同じC・D・Eですが、読み方が違って、ツェー、デー、エーになります。もちろん日本語音名もちゃんとあります。ド・レ・ミは日本語で言うとハ・ニ・ホです。

ドレミの歌をハニホの歌に変えて歌う人はいないので、ハニホヘトイロという日本語読みは定着していないのかといえば、そうではありません。ト音記号とかヘ音記号という音部、それにニ短調とかハ長調とかいう調性、こういうところにはちゃんと日本語読みが使われているのです。イタリア語読みと日本語読みを場所によって使い分けているのですね。

学校ではこうして普通にドレミやト音記号という、二カ国語をごちゃまぜにした音楽の授業をやっているようです。さらに私の場合、中学生の時に新しいピアノの先生について、レッスンで驚いたのは、その先生が音名や調性名についての指示をドイツ語読みでやることでした。例えば、「レの♭」の音のことを「デス(Des)」「ハ長調」のことを「ツェー・ドゥア」、「ニ短調」のことを「デー・モール」という風におっしゃるのです。

音大に入るとこの傾向は益々顕著になって、音名や調性については授業でも仲間同士でもドイツ語読みが当たり前でした。それ以来私の頭の中ではこれが主流になっています。ところがこれだけではまだ済まなくて、これに英語読みが加わります。クラシックではなくても、例えばギターなどの教則本を手にしたことのある人は、コードの名前がCメイジャーとか、Dマイナーと書いてあるのをご存知だと思います。これがその英語表記です。「C major」はハ長調、「D minor」はニ短調のことです。最近はアメリカで出版されたピアノの子供用教材にとても良いものがあるので、それを使うともちろん中身は英語表記。ホ長調でもE dur(エー・ドゥア)でもなく、E major(イー・メイジャー)となります。

さてこれで、私達日本人は音楽を学ぶのに四ヶ国語を駆使して(?)いるということが分ります。これって大変?!

私は学校の先生ではないので「こういう風に指導しなさい」という決まりごとに縛られてはいません。それだけに、生徒を指導する時に何語を中心にして覚えさせるのがいいか、ちょっと悩むこともあります。あまり生徒を混乱させてもいけないしなあ。

せっかく音楽という万国共通の素材を扱っていて、その音楽自体は言語の違いを超えて世界中で通用するのだから、音楽用語も本当は統一してもらった方がいいんじゃないかなと密かに思う訳です。学校の音楽の授業で「ホ短調」とか「嬰ハ短調」とかをテストに出さなければ、私はもう日本でしか通用しない「ハニホヘトイロ」は教えるのをやめてしまおうと思うくらいです。ま、学校の教育方針が変わらない限り、やめられないとは思うけど・・・。


これは「イ短調」の曲です。左から順番にドイツ語、英語、フランス語で書かれています。さて、何語が覚えやすいかな?

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ニ長調とハ長調 聴き比べ「G線上のアリア」

2011年05月07日 | クラシック豆知識
昨日、車の中でラジオを聴いていると、クラシックのイントロクイズをやっていました。そのとき問題の一つとして出題された曲が、バッハ作曲の「管弦楽組曲第3番 ニ長調(BWV1068)の第2楽章」でした。曲名をこう書くと分かりにくいかも知れませんが、超有名な曲なので、ほんの少し出だしを聴いただけで、多くのリスナーが正解されたようです。ところが正式なこの曲名を答えた人のほかに、通称の方を答えた人がこれもまた大勢いらしたそうです。この曲の通称(愛称)は「G線上のアリア」です。こちらの名前の方がよほど有名なになっているので、これなら皆さんもよくご存じだと思います。

でも実は正確にいうとこの二つの曲は別物なのです。ラジオではそこのところをきちんと説明した上で、「今回は『G線上のアリア』と答えた人も正解にします」、と言っていました。

さて、これはどういうことかと言いますと、「管弦楽組曲第3番」というのはバッハが18世紀の初めの頃に作曲した曲なのですが、19世紀の終わり頃になって、その中の第二楽章をアウグスト・ウィルヘルミというバイオリニストが、バイオリンとピアノのための曲に編曲(アレンジ)したものが「G線上のアリア」なのです。その際、ニ長調で書かれている原曲をハ長調に転調して、バイオリンで弾くと、四本あるバイオリンの弦のうち、G線一本だけで弾けてしまう、ということから、「G線上のアリア」と呼ぶようになったのだそうです。つまり、バッハの原曲はニ長調の曲。一方、ウィルヘルミが編曲した「G線上のアリア」は、ハ長調の曲(しかも1オクターブ下げている)ということなのです。

さて、これは言葉で書いても分かりづらいので、実際に二つの曲を聴き比べてみましょう。こういうときにYouTube があると本当に便利ですよね。

バッハ作曲「管弦楽組曲第3番 ニ長調(BWV1068)第2楽章」


バッハ作曲、ウィルヘルミ編曲「G線上のアリア(ハ長調)」


ニ長調の方は、美しくて麗しい、清楚な夢の世界のような感じがします。一方、ハ長調の方は、とても落ち着いていて人の心の奥深くに響く、いぶし銀のような世界を感じます。ハ長調の演奏も渋くていいですね。皆さんはどちらがお好きですか?


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リストと若冲

2011年03月28日 | クラシック豆知識
今年は、リストイヤーです。リストのことが語られ、リストの曲があちこちで演奏されることと思います。ムジカ・ノーヴァの4月号に「フランツ・リスト、ピアノ作品の背景」という記事が載っていて、そこに、リストがベルリオーズに宛てた手紙の一節が紹介されています。リストによれば、様々な芸術のジャンルを超えて、「天才」と呼ばれる人たちにはなにか隠された類似性があるというのです。そして、リストは「ラファエロとミケランジェロを知ることによって、私はモーツァルトとベートーヴェンについてより深く理解できるようになりました」と書いているのだそうです。

これは、要するに、音楽の世界にだけ没頭するのではなくて、様々な芸術や自然に目を向けて、それらに共通した何かを感じ取る、これが重要だということではないでしょうか。音楽のジャンルの中で、室内楽、オーケストラ、オペラなどいろんな音楽に触れるのはもちろんですが、絵画や、彫刻、建築さらに自然などにも目を向けて、何かを感じ取ることが大事だということだと思います。

私などヨーロッパで産まれたクラシックをずっと勉強してきていながら、一度もヨーロッパに行ったことがありません。なので、ラファエロもミケランジェロも本物をみたことなどありません。けれど、展覧会で見た伊藤若冲の絵とか、京都や奈良の仏像や寺社建築、そして庭にやってくる小鳥のさえずりなど、私にとって手の届く範囲の天才たちの営みや自然の営みに接するたびに、私は言いようのない感動を覚えます。そしてこのことは私の音楽に大なり小なり必ず影響を及ぼしていると思います。

リストのピアノ曲を弾きながら、若冲の絵を思い出しています。リスト風に言えば「私は若冲を知ることによって、リストについてより深く理解出来る」ようになった気がします。二人とも驚異的なまでに緻密で繊細、精確な技巧の持ち主で、しかも二人とも、実はネアカな芸術家なんだと思います!

「紫陽花双鶏図」伊藤若冲、プライス・コレクション

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ダヴィッド同盟舞曲集

2011年03月08日 | クラシック豆知識
今月の21日に行うイリスコンサートで、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」を弾く予定にしています。この曲は、1837年、シューマンが27歳の時に作曲されたシューマンの代表的ピアノ曲の一つです。この「ダビッド同盟舞曲集」、その冒頭には次のような古い格言が書きつけられています。

「古い格言」
いつの世にも
喜びは悲しみと共にある
喜びにはひかえめであれ
悲しみには勇気をもって備えよ



楽譜にこのような、楽語以外の言葉が記されるのは、私の知る限り、とても珍しいことです。それにしてもこの言葉、何とも味わい深い、しみじみと胸に沁みる言葉ではありませんか。さて、このような格言をわざわざ冒頭に記した「ダヴィッド同盟舞曲集」という曲、一体どんな曲なのでしょうか?

この曲集は最初に発表された時は「フロレスタン」と、「オイゼビウス」という二人の架空の人物の名前の連名で発表されたそうです。「フロレスタン」は、積極的で明るく行動力のある人物。一方、「オイゼビウス」は、控えめで女性らしく、もの静かな人物。この相反する二つのキャラクターをもつ二人がそれぞれ掛け合いでもするかのように、全部で18の小曲を紡ぎ出しているという構成になっています。

そもそも「ダヴィッド同盟」自体が、シューマンが考えだした空想上の団体の名前です。当時支配的だった伝統的で古い考えに基づく芸術観に対抗するための団体という設定でした。架空の団体に所属する架空の人物二人がそれぞれのキャラクターに応じて、芸術や音楽について真剣に語り合う、そんな情景を表現しているのがこの「ダヴィッド同盟舞曲集」なのです。つまりこれ、ちっとも舞曲集らしくありません。村の広場にみんなで集まって楽しく踊る、とか、華やかなサロンで紳士淑女が優雅に踊るとか、そういう曲では全然ないのです。

「フロレスタン(F)」と「オイゼビウス(E)」というのはシューマン自身がもつ二面性を象徴していると言われています。18曲からなる組曲で、一つ一つの曲にはっきりと、EかFのどちらが出ているかがわかります。この相反する二面性は、人間、だれにでも多かれ少なかれあるものだと私は思います。だから、どちらのキャラクターも理解できるし、入れ替わりの妙を味わうことが出来て、弾いていて面白くて飽きないのです。この組曲は、キャラクターの入れ替わりのバランスが絶妙で本当に素晴らしいと思います。

作曲家、音楽評論家として大変高い評価を得たシューマンですが、後に精神を病んで、自殺未遂などを経て、最後は精神病院で亡くなりました。私たちの人生も、いつも一筋縄でいくものではありません。喜びと悲しみが交互に入れ替わり立ち替わりやってくるのです。シューマンは、この楽譜の冒頭に載せた古い格言を、見事に音楽で表現してくれたのだと、思わずにはいられません。

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ショパンの名刺

2010年12月21日 | クラシック豆知識
皆さん、ショパンの名刺を見たことありますか? 先日、ポーランドから日本に帰っていらした河合優子先生が、ショパンの名刺を見せてくれました。ポーランドでショパンの資料の展示会があって、そこに本物のショパンの名刺が出展されていたそうです。先生はそのレプリカを手に入れて、見せて下さったのです。


写真では分りにくいですが、サイズは普段我々が目にする名刺と変わりありません。それなのに、なんと、この真ん中に書かれている名前の小さいこと!! 一体、どういう理由でこんなに小さくしてあるのでしょう。右下に住所が書かれていますが、そちらの字の方が大きいんです。

河合先生はこれを見てとても不思議に思って、資料館の方にその理由を尋ねてみたそうです。すると、ショパンは控えめだったからじゃないか?と笑って答えたというのですけど、果たしてそんな単純なことでしょうか? 私も河合先生も、それはちょっと違うんじゃないかと思ってます。もしかして、気難しい人だったのかしら? とか、なにか皮肉っているのでは? とか、いろいろな憶測をしてしまいます。

晩年のショパンは、胸の病も悪化し、気分もすぐれず、病のストレスからかわかりませんが、極度に神経質だったらしいのです。恋人のジョルジュ・サンドも、たいへんに手をやいていたようです。ショパンとサンドが別れるころに書かれた、ジョルジュ・サンドの小説には、神経質で意地悪をすることに心を燃やしている芸術家と、それに苦しめられる女性とが描かれているそうです。実話と同じではないにせよ、なにか暗示させるものがあります。

昨日、私は風邪で熱を出してベッドで一日中寝ていました。病気になると心までふさがれるような気がします。私の場合は、単なる風邪(インフルエンザではありません)ですから、一日で元気を取り戻しますが、ショパンのように、完治することのない、胸の病を抱えることが、どんなにストレスのたまる、辛いことなのか、想像するだけで暗くなってしまいます。この不思議な名刺、ショパンの名刺を見て、こんな名刺を作って実際に使っていたショパンの胸中に、思いを馳せるのでした。


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今年はシューマンイヤーでもあったのに!

2010年12月10日 | クラシック豆知識
今年もあとわずかになりました。この一年、クラシックピアノ界では、ショパン、ショパン、ショパンの嵐でした。ショパンコンクールも重なり、生誕200年のショパンイヤーは、大いに盛り上がりました。私も一年中ショパンを弾いてきました。

しかし、今年はショパンだけではなく、シューマンの生誕200年でもあったのです(二人は同い年)。つまりシューマンイヤーですね。でもシューマンは、ショパンの影に隠れて、なんだかもう一つ盛り上がらなかった印象があります。私も今年始めは、ショパンとシューマンの二本立てでいっていましたが、途中からショパンに追われ、いつの間にかシューマンを弾かずに過ごしてしまいました。もともと、シューマンも大好きな私です。ちょっと遅ればせながら、来春はシューマンを弾こうと、改めてプログラムに組み込むことにしました。お客様にこんなにショパン熱があるのなら、きっとシューマンも喜んで頂けると思っています。

しかーし! 実はもう一つシューマンを邪魔するものがあるのです。来年は、「ピアノの魔術師」と言われるほどの超絶技巧で有名なピアニスト兼作曲家、フランツ・リストの生誕200年にあたるのです。つまり来年はリストイヤー。すでに、私もリストの曲をリストアップ(ここオヤジギャグ?)しています。リストも素敵な曲が多いですからどれを弾こうか迷っちゃいますよね。

ということで、またも、シューマンが埋もれてしまいそう? いやいや、私だけでもシューマンを弾こう! こう、心に決めたのでした。本当に、気持ちが溶けるくらいロマン派を代表する作曲家の一人です。「クライスレリアーナ」「ダビッド同盟舞曲集」「カーニバル」あげたらキリがないのですが、素晴らしい曲たちだと心から思っていますから。。。

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