Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

なぜ頭巾先生は駄目?

2008-12-20 | 文学・思想
承前)不信も強い連邦共和国の政教分離の特徴とは一体なになのか?それはEU連邦化に向けて、各々のお国の特殊事情に赤信号が灯り、画一的で事務的なスタンダード化が加速している時、失われるかもしれない危機に瀕しているのだろうか?

歴史的な各々の政体やその特にモナヒーにおける宗教的正当性に比べると、信教の自由を掲げた法的な調和への移行はあまり大きな問題とはならないとされる。それは歴史的経験によって積み重ねられた解決法が存在しているからなのである。当然の事ながらここでドイツにおける新旧両宗派の軋轢と共存の歴史を思い出しても見当違いではないだろう。

最高裁判事ウド・ディ・ファビオの話は宗教的な中立性へと及ぶ。つまり、それは民主主義的官僚主義と結びつく、公平の論理としての大衆文化的な偏見であると、先の社会民主主義的ツィプリース女史の「国が受身であったも良いのだろうか」との懐疑的意見を非難する。中立的なライシテを不注意に掲げる事で、その無差別性から宗教的な精神生活の崩壊へと政治を推し進める事になる恐れが強く、反宗教的な政治は、信仰告白に対して厳しい国政への同化を強いる事になり、理性的な世俗の構築の国策を教育課題としてしまうと指摘する ― なんとかアニマルと呼ばれるような極端な扇動に騒状態ある官僚主義的な社会組織をそこに見れるだろう。

要するに「宗教はもはや人々の生活を完全に強制的に規約出来ない」とする、全く個人的な信仰とは相容れない対宗教観がここで非難されていて、この社会主義者の女性法務大臣が基本法の制御の効かない解釈に陥っていると言うのである。

その倫理に従えば、少女の「処女喪失」は、信仰の自由の保護を根拠として、裁判所で議論されるべきであろうか?ハッシシの使用をその問題とするべきか?と決して空想的な極論ではない合衆国におけるインディアンが刑務所で許されたぺヨーテの使用が挙げられる。

そして、自らが下した頭巾裁判の見解を説明している。信仰の自由の名の下に相反する制限として、宗教の戒律の遵守によって俗世界での可能性が制限され、更にそうした傾向を示すことで宗教的蒙昧が疑われ、その自らの政治的動機を否定する者が宗教的な妄想に冒されていると診断させるかも知れないと言うのである。

視点を変えれば、今日的な国による宗教的解釈強化への道は、内部的には特にエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの定めた中立な国の経典解釈の歴史学的批判の対象になる。

カール・シュミット学派が、その理想主義的な方法によって、中立性の意味を近代的な国のあり方として過大評価して、憲法歴史研究の「前近代的通常国は信仰告白的であった」とする調査結果に陥っていた疑惑を挙げる ― これを読んで例のどこかの修正主義者の主張などを思い浮かべない読者は少ないであろう。(続く



参照:
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07
まだ言論の自由がある? [ BLOG研究 ] / 2006-02-17
政教分離の無為と有為 [ ワールドカップ06 ] / 2006-07-10
イドメネオ検閲の生贄 [ 音 ] / 2006-09-29
止揚もない否定的弁証 [ 歴史・時事 ] / 2006-10-07
フリーセックスのモナーキ [ マスメディア批評 ] / 2006-11-15

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