Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

前近代に生きる日本の自己欺瞞

2011-04-03 | 文化一般
一昨晩のニュースは日本政府は国民を落ち着かせようとしていると、ブルーのユニフォームから背広に代わった大臣達の様子を伝えていた。原発事故発生後日本人が全く見えていない日本が見える報道をしている。そこで、なにも知日家のイアン・ブルーマのように日本人の使う「仕方ない」を挙げて日本を描くまでもなく、これは社会学的な考察の対象となる事象であろう。

FAZは、こうした一連の事象を二つの記事に纏めている。一つは経済面で「日本の自己欺瞞」として、もう一つは「いざ、緊急通報」と題した文化記事である。

前者では、一時は世界のお手本とされた極東アジアの日本株式会社が、二十年間に渡っての体たらくの原因を、今回の一向に見通しが効かないでお手上げ状態の日本の危機管理と考えている。要するに、日本は1868年と1945年に二度の解放をしたが、その実は上辺だけの近代化であって、「和魂洋才」の言葉に表わされる好い加減なものであったと、日本の官僚主義を強く批判している。開かれた議論、市民社会、自主性が無く、日本のビジネスマンがハンドブック片手に ― MBAの肩書きを片手に - 世渡りをしているのと同じで、教科書がないところではその無能さを曝け出すと言うことである ― 奇しくも今ドイツと修交百五十周年に、その当時から古くなっていたプロシアの国家制度を踏襲したそのままに、「(出る釘は打たれる式の)日本は未だに、西欧の尺度からすれば前近代にある」と記者は明言する。

そして、そうした自己欺瞞を、福島が片付いたところで、日本人自身が向き合わずにはいられないだろうとしている ― さてどうだろうか?玉砕で敗れた日本人も全く生まれ変わったかのように振舞い、その実は只単にその狭められた視角の向きを変えただけではないのか?。

その例としてトヨタの世界戦略なども具体的に挙げられるが、企業活動における紛争時のとんずらや臆病さ、時間の掛かる決断など、まさに官僚主義のお手本として世界に君臨した日本のプロフィールを映し出す。そしてそこが、この危機に瀕した日本の取る態度が世界的に大きな批判対象となるところなのである。実際に、また別の記事においては六月の時点で一向に先が見えないようならば、ワシントンもそれを世界的な決定機関として積極的に機能させたいIAEAの判定として、決断が下されるだろうという。そうした日本の態度が顕著である限り、日本は今や被害者でなくて、もはや環境汚染を広げる加害者なのである。

もう一つの記事は、幾つかネットに散見する日本国外に住む日本を外からみる日本人の懐疑に回答を与えているかも知れない。つまり、ドイツの一流の学者などが討論しても、どうしても感情的にしか映らないその情景への懐疑である。その懐疑は、外からみると言う特殊な条件において、「日本の姿を疑心暗鬼で眺める」その心理を裏返しに反映しているのでもある。事実、昨晩のSWR2のいつもの夕方の討論会番組では各々の分野でのまともな学者であるにかかわらず即物的な観測よりも観照的な感情の発露でしかなかった。こうした例はイデオロギーを討論したり、ヨハネの福音を語り合うときでさえもなかなか起こらないのである。なぜだろうか?

この「福島の前に技術が私たちに約束したもの」の副題を付したその記事は、如何に学問やそれを土台とする社会が危ういものであるかを語っている。それは同新聞の先日の科学欄の統計学的な見地からの今回の事故への考察にも呼応していて、今でも大原発事故の起こる確率は飛行機の墜落事故の十分の一しかないと言うのである ― しかし、こうして起こってしまえばそれで安心する人はいないという「実証的な見地」が考慮される。もちろん「確率論的」に言えば、頻繁に起こっている小さな事故に既に予想は出来ていた筈だとするのは私見である。

しかしここで述べられていることは、まるで子供のように技術をおもちゃにして、何が起こっているか判らずにその無能さを曝け出しているのは、なにも才能の足りない似非学者や技術者ではなくて、そうした社会であると言うのだ。つまり、こうした不可逆な現象が起こるまでは「確率的」に絶対起こらないと言う主張が、一瞬にして否定されるような状況で初めてその体系の限界があからさまになるということでもあろう。その通り、特にドイツの「専門家の議論」を要求される知識人は、そうした体系の中ではじめて正論を吐くことが出来、冷静に対応出来るのだが、一度疑心暗鬼になるとうろたえてしまう。それは、真実を追いかけようとしている生真面目な学究精神を反映してはいるのだが、残念ながら「微量の放射能の医学的な影響」やその扱いなどは学術的に認識するには限界があるのだ。だから「ここで安全と宣言することは、原子力発電が安全と宣伝するのと全く同義」である。

それは丁度一月前ほどに取り上げた遺伝子工学の農作物の影響と同じで、人類がそうした技術や環境に慣れるには十分な認知の時間が必要なので、前述のラジオ番組でも捉えられていたが「極一般的な不安」と言うのがこうした事故における最大の問題なのである。そこを十分に理解して配慮することが最も大切なことなのだが、それを指して「無知蒙昧な教育のない庶民の根拠のない不安」などと世界に向けて放送するNHKは逸早く解散した方が良い。また、容易に学術的な安全宣言をするような官僚組織を叩き潰し、そうした官僚は粛清されるべきなのである。

既に成された、あとは正しい方向へと「常識」を以って導かれなければいけない。そのためにも教養や教育と呼ばれるものが重要であるのだ。そして、災害用のロボットなどの導入を十年以上も拒否し続け、一方で路上生活者などを「使い捨て労働者」と呼んで危険な仕事をさせていた東電をして、教養はそうした人道的なものに結びついたものであり、教育は放射性物質を樹脂で固めたりと時間稼ぎをするような技術的にお手上げとならないようなものでなければならないと明言している。



参照:
Japans Selbstbetrug, Casten Germis(Tokio),
Wählen Sie jetzt 112, Jürgen Kaube, FAZ vom 1.4.2011
ドイツ国の日本国民に対する同情と日本問題 (作雨作晴)
終わり無き近代主義 2005-09-03 | マスメディア批評
勝手に風呂敷を広げる面白さ 2011-03-09 | BLOG研究
資料で読む官僚組織活動の歴史 2010-11-10 | 歴史・時事
強制収容所の現実 2005-01-26 | 歴史・時事
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする