Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芸能人の高額報酬を叱責

2007-12-28 | マスメディア批評
連邦共和国の最初の二十年ほどは、「我々は国をもっていなかった。それは民主主義のベールに有益者の政府駅舎が隠れていた。」と1960年代に述べ、1970年代には「労働組合の限られた関心と無関心に、CDUの政治家は多くのアドヴァイスを必要とした」と、カール・シュミットエルンスト・フォルストホッフの往復文書で戦後に交わされた内容である。

そもそも法治国が憲法の土台として存在するのか否かは、公平さを齎す国社会として存在するのかの問いかけとした法学者フォルストホッフが、同じく第三帝国の法的根拠を築いたシュミットと、戦前から最後まで交わした文書を軸とした新刊書籍の新聞評を読む。

門外漢には難しい、国社会の機構や法治国のあり方の議論は、アンゲラ・メルケル現首相の収入格差への議論が、それとはまた異なる形で、大統領に次ぐ連邦共和国第二位の地位の国会議長ノベルト・レンメルトから切り出された議題にも含まれる。

それは、クリスマス前に再びキリスト教民主同盟側からの声として、上場企業重役への報酬や退職金のみならず、スポーツ選手や芸能人への法外な報酬に怒り、それを叱責するものである。これを伝えたのがビルト・ツァイトュングと言う写真大衆紙であり、メディアの元締めであることも忘れてはいけない。

ミュンヘンのクラブがブラジルの少年に払った高額な金は、多くの一家の主が一生掛かっても稼げない額であることを叱る。法的には規制できないことであり、当時者に良識を求めるとしているが、これはそのような問題であろうか?

少し考れば、これはドイツの国内問題ではないと判る。グローバルな市場競争の問題であることぐらいは素人でも推測できる。しかし、スポーツ選手や芸能人に限っても、それがその能力とは全く関係ないところの人気市場で評価されていて、それを食い止めることが出来ないのは、あれだけ世界で罵られた元日本サッカー選手などの法外な収入でも判るのである。それどころか、自転車競技などでの薬品の使用の常習化は、その報酬が「誤り」であることさえ証明している。

そして、上の政治家も「なにも政治家の収入と比べる訳ではないが」と付け加える必要がある。どうしてもそのような興味となるのが、こうした収入の政治議論の難しさなのである。

さらに、国が富みの分配をその税制によって司れるかと言えば、スイスやモナコなどのヤクザ諸国が世界に存在する限り不可能なのである。世界のマネー・ラウンダリングは法規制されているが、移住や居住は自由であり、当然ながら自由な報奨の支払い方法も自由な経済活動の基本である。

多くの人気者や著名人が社会奉仕に私財をつぎ込んでいることは知られているが、寄付金の非課税だけではこうした善意が充分な機構として、社会の不平等感を解消するに至らない。

シュミットが上の文章の中で一度、社会学者フランツ・オッペンハイマーが「重要なドイツ人」として記念切手に採択された節に、あまりにも政治的であると痛烈に批判している。少数民族であるそのユダヤ人こそが、政治的な方法での社会の公平化を乗り越える自由経済の経済的方法を考え、先日なった欧州の往来の自由とTV電話を2023年の社会に予測していて面白い。余談ながら、慶応義塾大学に招聘され東京への脱出を果たしたが、その第三帝国の同盟国ではナチの圧力で講座を持つには至らず、上海経由で米国へ亡命したとある。

そのような事を考えていると戦後公職復帰後ハイデルベルクの正教授を務め、キプロスの総監となったフォルストホッフが、元凶であるマスメディアやジャーナリズムを1967年に批判する言葉に行き当たる。

「19世紀とは異なり、報道機関が、公共の議論において、もはや根本的なアンチテーゼを提示しないで、ただ一つのシステムの中でのヴァレーションを示すのみとなっている」と、報道の可能性を「自己の姿勢を示すだけに限られる」と定義している。

この考え方にあるジャーナリズムの姿勢は、今回シュプリンガーグループの大衆紙がこうした議論を大きく紹介して、税制上の調整無しに社会の不公平感を募るような収入格差が埋められる可能性の無い、国の税制を簡素化する方向にある自由主義市場システムの中では、こうした政治家の発言こそが殆ど無責任にしか響かないことに相当するのである。つまり、それは大衆紙の主要読者である大衆の動員を目指すポピュリズム政治であり、市場の中で自己の立場を築く破廉恥なメディアでしかない。有権者の「人気」取りを命題とする民主主義政治の限界ともなる。

こうした悪循環から逃れる方法は、はたして存在するのか?メルケル首相の提唱する「社会と経済を司る政治の実現」は本当に可能なのか?

フォルストホッフは、作家のユンカーなどと同じく消極的なナチ協力者もしくは節度を持ったナチ批判家としてとしてのアリバイをこれ見よがしに提示する。一方、シュミットがただ単に法律的にナチの基盤を整えたのみならず、強力な反ユダヤ主義者であったことを思い出せば、国社会がなすべきことは大衆のルサンチマンの心情に動かされるものではないことは明白な筈である。



参照:
Eine große Rührung, von Wolfgang Schuller, FAZ vom 24.12.07
Rezension über ein Buch:
"Ernst Forsthoff - Carl Schmitt" Briefwechsel 1926-1974
Hrsg. von Drothe Mußgnug, Reinhard Mußgnug, Angela Reinthal
Alademie Verlag, Berlin, 2007
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
東京でのヒトラーの遣い [ 文化一般 ] / 2007-08-16
キルヒホッフ税制の法則 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-24
美しい国は何処に? [ 雑感 ] / 2006-10-01
「現代福祉国家における自律への権利」 (『法の科学』28号掲載) ―
笹沼 弘志 (静大教育学部)
「市民の厚生を見据えるEU、軍需利権へ媚びる日本/リスボン条約の核心」
(『toxandoria の日記、アートと社会』)
格差事情 (文化芸術暴論)

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