Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

物乞いとしての福島の被害者

2011-04-26 | 文化一般
フランスとドイツでの福島に触れた。それらの社会的もしくは政治的な背景は良く知られているが、それがどのような実感となっているかはなかなか分からないだろう。

その一つとしてラジオ番組などの報道姿勢にその差異をみた。もう一つその内容について考察すると次のようになる。例えばドイツにおけるそれは神学者がプロテスタンティズムを語ることで、そこに自省と共に現在の最先端の考え方が散りばめられる。要するに日本人が百年ほど前に習ったこととは何世代も先を行くものである。

言葉を変えると近代化と呼ばれるプロテスタンティズムが推し進めた近代とその反省としての脱近代への考え方である。つまり「最終処理」のない原発の理不尽と「近代を習った日本人の制御できると言う傲慢さ」への反省である。どこかで制御を利かせるための自省である。

そのためには「過剰な消費生活を改め、少々の不便さは受け入れるべきだ」と言うのだ。

日本人の知的水準が低いのは、まさにこうした本質的な考え方を抜きに効率主体に習うことの出来る知能の低さであり、その懲りない姿勢である。西欧人は、そもそも家元であるから米国人のように、12歳の頭脳とは言わないが、徒弟がやらかした誤りにはとても自嘲的である。

それはフランスのそれにも良く表れており、日本人音楽家の学習能力や完成度を通して、そのしくじりにとても深い同情と哀切を示して、カトリック国では当然ながらの反応を示している。丁度、物乞いに喜んでコインを握らしてやるかのようである。

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