一昨晩のニュースは日本政府は国民を落ち着かせようとしていると、ブルーのユニフォームから背広に代わった大臣達の様子を伝えていた。原発事故発生後日本人が全く見えていない日本が見える報道をしている。そこで、なにも知日家のイアン・ブルーマのように日本人の使う「仕方ない」を挙げて日本を描くまでもなく、これは社会学的な考察の対象となる事象であろう。
FAZは、こうした一連の事象を二つの記事に纏めている。一つは経済面で「日本の自己欺瞞」として、もう一つは「いざ、緊急通報」と題した文化記事である。
前者では、一時は世界のお手本とされた極東アジアの日本株式会社が、二十年間に渡っての体たらくの原因を、今回の一向に見通しが効かないでお手上げ状態の日本の危機管理と考えている。要するに、日本は1868年と1945年に二度の解放をしたが、その実は上辺だけの近代化であって、「和魂洋才」の言葉に表わされる好い加減なものであったと、日本の官僚主義を強く批判している。開かれた議論、市民社会、自主性が無く、日本のビジネスマンがハンドブック片手に ― MBAの肩書きを片手に - 世渡りをしているのと同じで、教科書がないところではその無能さを曝け出すと言うことである ― 奇しくも今ドイツと修交百五十周年に、その当時から古くなっていたプロシアの国家制度を踏襲したそのままに、「(出る釘は打たれる式の)日本は未だに、西欧の尺度からすれば前近代にある」と記者は明言する。
そして、そうした自己欺瞞を、福島が片付いたところで、日本人自身が向き合わずにはいられないだろうとしている ― さてどうだろうか?玉砕で敗れた日本人も全く生まれ変わったかのように振舞い、その実は只単にその狭められた視角の向きを変えただけではないのか?。
その例としてトヨタの世界戦略なども具体的に挙げられるが、企業活動における紛争時のとんずらや臆病さ、時間の掛かる決断など、まさに官僚主義のお手本として世界に君臨した日本のプロフィールを映し出す。そしてそこが、この危機に瀕した日本の取る態度が世界的に大きな批判対象となるところなのである。実際に、また別の記事においては六月の時点で一向に先が見えないようならば、ワシントンもそれを世界的な決定機関として積極的に機能させたいIAEAの判定として、決断が下されるだろうという。そうした日本の態度が顕著である限り、日本は今や被害者でなくて、もはや環境汚染を広げる加害者なのである。
もう一つの記事は、幾つかネットに散見する日本国外に住む日本を外からみる日本人の懐疑に回答を与えているかも知れない。つまり、ドイツの一流の学者などが討論しても、どうしても感情的にしか映らないその情景への懐疑である。その懐疑は、外からみると言う特殊な条件において、「日本の姿を疑心暗鬼で眺める」その心理を裏返しに反映しているのでもある。事実、昨晩のSWR2のいつもの夕方の討論会番組では各々の分野でのまともな学者であるにかかわらず即物的な観測よりも観照的な感情の発露でしかなかった。こうした例はイデオロギーを討論したり、ヨハネの福音を語り合うときでさえもなかなか起こらないのである。なぜだろうか?
この「福島の前に技術が私たちに約束したもの」の副題を付したその記事は、如何に学問やそれを土台とする社会が危ういものであるかを語っている。それは同新聞の先日の科学欄の統計学的な見地からの今回の事故への考察にも呼応していて、今でも大原発事故の起こる確率は飛行機の墜落事故の十分の一しかないと言うのである ― しかし、こうして起こってしまえばそれで安心する人はいないという「実証的な見地」が考慮される。もちろん「確率論的」に言えば、頻繁に起こっている小さな事故に既に予想は出来ていた筈だとするのは私見である。
しかしここで述べられていることは、まるで子供のように技術をおもちゃにして、何が起こっているか判らずにその無能さを曝け出しているのは、なにも才能の足りない似非学者や技術者ではなくて、そうした社会であると言うのだ。つまり、こうした不可逆な現象が起こるまでは「確率的」に絶対起こらないと言う主張が、一瞬にして否定されるような状況で初めてその体系の限界があからさまになるということでもあろう。その通り、特にドイツの「専門家の議論」を要求される知識人は、そうした体系の中ではじめて正論を吐くことが出来、冷静に対応出来るのだが、一度疑心暗鬼になるとうろたえてしまう。それは、真実を追いかけようとしている生真面目な学究精神を反映してはいるのだが、残念ながら「微量の放射能の医学的な影響」やその扱いなどは学術的に認識するには限界があるのだ。だから「ここで安全と宣言することは、原子力発電が安全と宣伝するのと全く同義」である。
それは丁度一月前ほどに取り上げた遺伝子工学の農作物の影響と同じで、人類がそうした技術や環境に慣れるには十分な認知の時間が必要なので、前述のラジオ番組でも捉えられていたが「極一般的な不安」と言うのがこうした事故における最大の問題なのである。そこを十分に理解して配慮することが最も大切なことなのだが、それを指して「無知蒙昧な教育のない庶民の根拠のない不安」などと世界に向けて放送するNHKは逸早く解散した方が良い。また、容易に学術的な安全宣言をするような官僚組織を叩き潰し、そうした官僚は粛清されるべきなのである。
既に成された、あとは正しい方向へと「常識」を以って導かれなければいけない。そのためにも教養や教育と呼ばれるものが重要であるのだ。そして、災害用のロボットなどの導入を十年以上も拒否し続け、一方で路上生活者などを「使い捨て労働者」と呼んで危険な仕事をさせていた東電をして、教養はそうした人道的なものに結びついたものであり、教育は放射性物質を樹脂で固めたりと時間稼ぎをするような技術的にお手上げとならないようなものでなければならないと明言している。
参照:
Japans Selbstbetrug, Casten Germis(Tokio),
Wählen Sie jetzt 112, Jürgen Kaube, FAZ vom 1.4.2011
ドイツ国の日本国民に対する同情と日本問題 (作雨作晴)
終わり無き近代主義 2005-09-03 | マスメディア批評
勝手に風呂敷を広げる面白さ 2011-03-09 | BLOG研究
資料で読む官僚組織活動の歴史 2010-11-10 | 歴史・時事
強制収容所の現実 2005-01-26 | 歴史・時事
FAZは、こうした一連の事象を二つの記事に纏めている。一つは経済面で「日本の自己欺瞞」として、もう一つは「いざ、緊急通報」と題した文化記事である。
前者では、一時は世界のお手本とされた極東アジアの日本株式会社が、二十年間に渡っての体たらくの原因を、今回の一向に見通しが効かないでお手上げ状態の日本の危機管理と考えている。要するに、日本は1868年と1945年に二度の解放をしたが、その実は上辺だけの近代化であって、「和魂洋才」の言葉に表わされる好い加減なものであったと、日本の官僚主義を強く批判している。開かれた議論、市民社会、自主性が無く、日本のビジネスマンがハンドブック片手に ― MBAの肩書きを片手に - 世渡りをしているのと同じで、教科書がないところではその無能さを曝け出すと言うことである ― 奇しくも今ドイツと修交百五十周年に、その当時から古くなっていたプロシアの国家制度を踏襲したそのままに、「(出る釘は打たれる式の)日本は未だに、西欧の尺度からすれば前近代にある」と記者は明言する。
そして、そうした自己欺瞞を、福島が片付いたところで、日本人自身が向き合わずにはいられないだろうとしている ― さてどうだろうか?玉砕で敗れた日本人も全く生まれ変わったかのように振舞い、その実は只単にその狭められた視角の向きを変えただけではないのか?。
その例としてトヨタの世界戦略なども具体的に挙げられるが、企業活動における紛争時のとんずらや臆病さ、時間の掛かる決断など、まさに官僚主義のお手本として世界に君臨した日本のプロフィールを映し出す。そしてそこが、この危機に瀕した日本の取る態度が世界的に大きな批判対象となるところなのである。実際に、また別の記事においては六月の時点で一向に先が見えないようならば、ワシントンもそれを世界的な決定機関として積極的に機能させたいIAEAの判定として、決断が下されるだろうという。そうした日本の態度が顕著である限り、日本は今や被害者でなくて、もはや環境汚染を広げる加害者なのである。
もう一つの記事は、幾つかネットに散見する日本国外に住む日本を外からみる日本人の懐疑に回答を与えているかも知れない。つまり、ドイツの一流の学者などが討論しても、どうしても感情的にしか映らないその情景への懐疑である。その懐疑は、外からみると言う特殊な条件において、「日本の姿を疑心暗鬼で眺める」その心理を裏返しに反映しているのでもある。事実、昨晩のSWR2のいつもの夕方の討論会番組では各々の分野でのまともな学者であるにかかわらず即物的な観測よりも観照的な感情の発露でしかなかった。こうした例はイデオロギーを討論したり、ヨハネの福音を語り合うときでさえもなかなか起こらないのである。なぜだろうか?
この「福島の前に技術が私たちに約束したもの」の副題を付したその記事は、如何に学問やそれを土台とする社会が危ういものであるかを語っている。それは同新聞の先日の科学欄の統計学的な見地からの今回の事故への考察にも呼応していて、今でも大原発事故の起こる確率は飛行機の墜落事故の十分の一しかないと言うのである ― しかし、こうして起こってしまえばそれで安心する人はいないという「実証的な見地」が考慮される。もちろん「確率論的」に言えば、頻繁に起こっている小さな事故に既に予想は出来ていた筈だとするのは私見である。
しかしここで述べられていることは、まるで子供のように技術をおもちゃにして、何が起こっているか判らずにその無能さを曝け出しているのは、なにも才能の足りない似非学者や技術者ではなくて、そうした社会であると言うのだ。つまり、こうした不可逆な現象が起こるまでは「確率的」に絶対起こらないと言う主張が、一瞬にして否定されるような状況で初めてその体系の限界があからさまになるということでもあろう。その通り、特にドイツの「専門家の議論」を要求される知識人は、そうした体系の中ではじめて正論を吐くことが出来、冷静に対応出来るのだが、一度疑心暗鬼になるとうろたえてしまう。それは、真実を追いかけようとしている生真面目な学究精神を反映してはいるのだが、残念ながら「微量の放射能の医学的な影響」やその扱いなどは学術的に認識するには限界があるのだ。だから「ここで安全と宣言することは、原子力発電が安全と宣伝するのと全く同義」である。
それは丁度一月前ほどに取り上げた遺伝子工学の農作物の影響と同じで、人類がそうした技術や環境に慣れるには十分な認知の時間が必要なので、前述のラジオ番組でも捉えられていたが「極一般的な不安」と言うのがこうした事故における最大の問題なのである。そこを十分に理解して配慮することが最も大切なことなのだが、それを指して「無知蒙昧な教育のない庶民の根拠のない不安」などと世界に向けて放送するNHKは逸早く解散した方が良い。また、容易に学術的な安全宣言をするような官僚組織を叩き潰し、そうした官僚は粛清されるべきなのである。
既に成された、あとは正しい方向へと「常識」を以って導かれなければいけない。そのためにも教養や教育と呼ばれるものが重要であるのだ。そして、災害用のロボットなどの導入を十年以上も拒否し続け、一方で路上生活者などを「使い捨て労働者」と呼んで危険な仕事をさせていた東電をして、教養はそうした人道的なものに結びついたものであり、教育は放射性物質を樹脂で固めたりと時間稼ぎをするような技術的にお手上げとならないようなものでなければならないと明言している。
参照:
Japans Selbstbetrug, Casten Germis(Tokio),
Wählen Sie jetzt 112, Jürgen Kaube, FAZ vom 1.4.2011
ドイツ国の日本国民に対する同情と日本問題 (作雨作晴)
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強制収容所の現実 2005-01-26 | 歴史・時事
話を調べて想像するに…
素人がいきなり、原発の検査に行けと言われ、行く。
分かるわけも、できるわけもない。
でもそこを、できるといわなければ、
多分昇進できないシステムになっているのだと思います。
そこができなければ、評価は落とされる。
なぜなら他の人は”できて”いるから。
そういう理由で、官僚は回っているのだと思います。
(東電上部も同じだとは思いますが)
医者は白い巨塔でも、まだ技術があるだけましですが、
官僚は技術に関する知識もないので…知識があるのは法律に対してだけですから。
(高校物理すら知らない人たち。高校生以下なんです。)
個人的には素人ですが、日本の法律体系自体おかしいと思っています。
一回でた通達とかは、絶対消えない。追加で出して修正する。
分かりにくくてしょうがない。
96年に、当時の製造業における売上高上位50社に、主要銀行や九大商社を加えた有力企業75社を対象にして、それぞれの役員やその配偶者の四親等以内に関連企業の役員がいるかどうか、調査した図があります。
75社のうち、58社(77.3%)に企業経営者の「血縁ネットワーク」が見出されています。
(僕は別の本で図を見たのですが、「階級!―社会認識の概念装置」という本にも所収されているようです)
企業でも日本なんて、真のグローバル企業なんてないんです。
(…東京電力は当時、新日鉄&清水建設とつながっています)
さて、少し自分のブログをお休みしようと思います。
ちょっと疲れ気味で・・・休んできます。
ドイツの気象庁の放射能拡散のシミュレーションは、頼りにしています。
一つは、ライフスタイルの考察であるかもしれません。
一つは、世界的にも冷戦下の左右対決の構造の中でしか、こうしたあらゆる問題が捉えられていなかった歴史的事実です。
一つは、上の二つを踏まえて、何を優先して基準とするかの議論かと思います。
本日もラジオで「なぜ日本で大規模な反原発の運動が今起きないのかと不思議の思う」とアナウンスがありましたが、上のような議論が先ず交わされないことには意味がないですね。
京都宣言などのCO2問題も実はよく似た問題だと気がつくかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/taiju0/e/2e9a212d110995c45cc797fad0ec716d
これは実はラジオの討論会でも話題になっていたのですが、そもそもIAEAは産業開発の推進と核拡散を抑えることが目的で、WHO自体も開発中心の姿勢が基本にあるのだと指摘されていました。要するに「世界の健康被害の基準はこれぐらいなら先ず大丈夫」に設置して、気にしないで開発を進めろにあります。それ故にオバマ政権は本格的に後押しをすることになったのだとするのかFAZの記事でした。
企業活動なんて、むしろ上場している会社の方が、社会的な使命を持っているようなそぶりをしていて、性質が悪いのですよ。そんなものです。そうした企業に何かを期待する方が間違っているのでしょうが、本当にオープンであるならば、被雇用者や株主なども含めて、広く議論が出来る筈です。ドイツの一部の会社には、本来の意味でのGESELLSCHAFTは数は少ないとは言え幾らかは存在しています。
参考になるか分かりませんが、リンクをお伝えします。
多分貴殿はこの数値は信じないのでしょうが、僕は信じます。
全国の放射能濃度一
http://atmc.jp/
水道水の汚染状況
http://atmc.jp/water/
大前研一氏の記事です。
氏によると「今後のシナリオだが、順調に事が運んだとしても10年、20年という単位で考えていかなければならず、今回の原発事故はかりに最悪期を脱したとしても、今後かなり長期にわたって困難な作業が続くと見たほうがよい。」だそうです。
「炉心溶融してしまった福島原発の現状と今後」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110404/265766/?ST=business&P=1
「放射性物質懸念は行き過ぎ 東京、香港の通常値より低水準」
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/110404/mcb1104040503010-n1.htm
ぼくの住む三鷹はニューヨークの平常時の値より今は低いです。でもいつ高濃度の放射性物質が降ってくるかは分かりませんが今のところは心配していません。被爆地の方は大変だと思いますので心配しています。
それに対して本来ならば覆水が出ないように設計されているわけですが、ここニ三日の水漏れは、地震や熱などにより基礎におけるクラックを意味しているかと想像します。要するに底抜けになって水が全て決壊する事態と、それ以降の大気中への大規模な発散と北風が最悪のシナリオです。
二号機に関してはその水質濃度と合わせて公式発表のように既に穴が開いているのは判りますが ― 公式発表には嘘はありません。あるのは隠蔽だけです、一と三はまだまだこれからと考えるのが妥当と考えます。やはりそこでも問題は水が決壊したあとのより遠くへと飛散する水蒸気状の放射線物質で、これに対応策を考えているのが現状でしょう。寧ろ現在の垂れ流し状態は都内の観測値からも水が緩衝材となっているのが想像できます。
しかし無人飛行機による鳥瞰写真をみましたが、溶炉自体が無事である可能性がないと考えるのは妥当です。
阿佐ヶ谷に家があった者としてもまことに残念ながら、最悪の状況は予測しておくべきでしょう。