Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

収容所送りとなる人たち

2011-04-04 | 雑感
この間の思いがけなかったことを記録しておこう。ここにも登場している人たちのことなので、侮辱罪で告訴されてもいけないので気をつけて書く。

一人は、父親が宣教師の日系アメリカ人で、自らも強制収容所にいた人なのである。その人が、こちらは未曾有のカタストロフに興奮していると、それに負けずに語ったことである。「東電の作業員は遺書を書いているらしい」と感動しているのである。そのときはなぜそんな感動をするのか分からなかったが、今日本国外にいるような日本人の様子をみていて合点が行った。

彼のことは当然新教徒であるという意識があったから気がつかなかったのだが、やはり彼らは日本人なのだと、途轍もなく「神風行為に感動する」のだと。いつも思っていたように、アーメンソーメン冷やソーメンなどといっている偉そうな口を利く連中の多くは神道のそれも国家神道の連中なんだと分かるのだ。結局、信仰と民族的な感覚は異なるようで、其処に何があるのかとても興味をもっている。

少なくとも、遠縁の日系人にはそうしたものは少ないどころか、身近にもヒットラーユーゲントに熱くなる者までいても、そうした人間はいなかった。要するに神風行為と言うものが犬死以外の何ものでもないことはまともな教養を持っていた者には分かっていたのである。誰も、喜んで死にたいものはいない、誰も、喜んで被爆したいものはいない。

福島第一の作業員が計測器を持たされていなかったことを嘆いているインタヴューがラジオで流され、地震後に再びはじめて数が揃ったことが伝えられた。

一人は、昨朝の車中のラジオでやっていた修交150周年に纏わる催し物を着々と執り行うと言う東ベルリンの思考停止のドイツ女性のことである。その女性についてはここでもベルリンの彼女らのアジトでどやしたことを書いたので、繰り返さない。まさに東独のあの連中と日本の連中の感覚は馬鹿みたいに似ているのだ。つまり、東独でも日本でも行間を読んでひっそりと内に篭ることが要求されるのである。

まともな教養のある者は、この機に及んで、現在の、終戦の日本の悲惨を形作っている古いプロシアの官僚主義の責任をけっして軽々しく扱うことなどは出来まい。

昨日は外での岩登りシーズンをそれも南プファルツの雑食砂岩地帯で始めた。あれだけ室内でやっていたにも拘らず、八時間近く熱心に登っていると足に来た。しかし冬場の慣れのお蔭で、大きな屋根はなかったが垂壁やちょっとした庇にも十分挑めれる様になった。当日の朝届いたリュックサックと確保器などを試して、お目当ての機械式楔フレンズの設置練習をみっちり行った。

この地方の奇岩は全てハーケンは抜かれていて、足場を作るのに必要なボルトが打ち込まれているだけである。場所によっては岩頭の頂上にしかそれが設置されていない。つまり、必要な分だけを設置していかないと、ザイルを結んでいても滑落すれば地面まで落ちてしまう。そうしたルートに自分で楔を挟んでいく練習である。不安と言う人もいるが、昔のハーケンと比べれば必ずしも不安ではない。むしろ、自然にやさしいテクニカルな感じはとても気持ちが良い。今シーズンは毎週のように練習に行く予定である。怪我さえなければ、可也の経験を積むことが出来そうだ。

リュックサックを試すために担いで確保していると、後ろから迫ってきていたおっさんが、原発のことを話して来た。彼は「発電機を早く運び込んでいたらどうだったのだろう?」と疑問を感じていた。その時はじっくりと考えられなかったが、改めて考えるとブラックアウトのあと数時間以内で高熱となり燃料棒が解けて下に落下していたので、初動でしかポムプを動かせなかった筈である。その後はディーゼルの予備電流で動かせてもまともに水が入らなかったのは周知の事実である。
コメント (2)
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