名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

知多半島戦跡めぐり

2011-10-02 20:27:24 | Weblog
2011.10.2(日)
 今日は、ピースあいちの行事として知多半島における戦跡めぐりがあった。
午前8時45分、鶴舞公園集合での参加者は25人、知多半島・河和からの参加者2人を加えて総勢27人が集まった。
 まず、河和港近くには河和海軍航空隊の基地跡があり、今もその残骸が残っている。フローとのついた水上飛行機の基地跡である。海岸がコンクリートで固められており、今なおその痕跡を留めている。
 次に、片名地区には海軍の水上特攻兵器「震洋」の格納壕跡が残っている。「震洋」は全長5.1m、重量1.4トン、舳先に爆薬250kgを積んで敵艦に体当たりする一人乗りのモーターボートである。ベニヤ板製でトラックのエンジンで走る大戦末期の産物とされる。
 また、大井には「回天」の特攻機地もあったが、いまは殆んど跡形もない。
 次に、三河湾側から伊勢湾側へまわって山海海岸から山側へ入ったところにある「岩窟寺中の院軍人像」を見学した。ここは知多新四国43番札所の岩屋寺の隣にあり、4年ほど前の初詣のときに初めて遭遇したものである。
 日中戦争が始まった1937(昭和12)年、上海へ上陸した名古屋の歩兵第六連隊は約1000人の戦死者を出したが、その時の兵らが当時の軍服姿のまま、4人の石工の手で自然石、セメント、人造石で作られたもの68基が並べられているものである。
 50㌢ほどの半身像から等身大の像まで68基もの像が立ち並んでいる様は異様とさえ見える。
 午前の部はここまで、昼食を半田の「魚太郎」で摂る。
午後の最初は半田市内にある雁宿公園に入る。ここには半田戦災犠牲者追悼の平和記念碑があり、殉難学徒の像もある。また昭和19年12月に発生した東南海地震による中島飛行機での学徒動員学生ら犠牲者の追憶の碑もある。
次に中島飛行機工場を狙った攻撃を受け、弾痕が残った赤レンガの建物を見学した。昭和20年7月15日、小型機による機銃掃射による傷跡である。この建物はカブトビールとして明治31年に造られ、戦時中は中島飛行機の衣糧倉庫として使われていたものである。
そのあと、中島飛行機の滑走路跡を車窓から見学した。現在は家も立っていたが、その痕跡はくっきりと判定できた。
 最後に料亭「望洲楼」に残された防空壕跡を見学した。狭いがコンクリートで固められた一見頑丈な壕であった。
知多半島というそう大きくない地域にこれだけの戦跡があること自体驚きである。  

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