田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

下痢34 麻屋与志夫

2019-11-30 20:23:36 | 純文学
34

 どうして、帰るのだろう。
 やっと抜けだした家に。
 三人の姉妹は嫁にいき家には父と母しかいない。
 母はすでに糖尿病。
 どうして、もどるのだろう。
 ぼくは彼女のいうように脆弱な男なのだろう。
 情にモロイ性格なのだ。
 どこに向けていいのか、わからない怒りの矛先。
 ――本気なのね。
 彼女は追いすがってきた。
 K大の学生が何人かぼくらをふりかえった。
 赤いダブダブのセェターの彼女は、深紅の幻獣に姿を変えていた。
 ぼくは逃げようとしている訳ではなかった。
 彼女は距離を縮めようと必死で追いかけてくる。
 追いすがってくる彼女との間隔は離れるばかりだ。
 ぼくは立ち止まった。
 誰もいない。
 ぼくは公衆電話のボックスの中にいる。
 乾いた姉の声が、父の病気を、家族の緊迫した状況を説明している。
 こんどこそ、ぼくは、来週、帰るからと返事している。
 ――明日帰ってきなさい。
 ぼくは、ボックスから出ようとした。
 
 扉に指を挟まれた。

「痛い」

 その声でぼくは、現実に呼びもどされた。
 彼女がなにか探るような眼差しでこちらを見ている。
 トマトジュースはほとんど空になっている。
 ――まだ痛むのね?
 ――出ようか。



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下痢33  麻屋与志夫

2019-11-30 05:23:35 | 純文学
33

 街の騒音がとおのく。
 逆上していた。
 公衆電話ボックスの中で……だんじて故郷Kの家にはもどらないと受話器に声をたたきつけていた。
 昨夜から降りつづいていた雨に洗われ青山の高層ビル街が視野から遠のいていく。
 受話器からは上の姉の声が父が病気で倒れたことを告げていた。
 いちどはすてた、ぬけだしたはずの家、血族共同体からの呼びかけがそこにはあった。
 父と母。三人の女きょうだい。
 困り果てた顔が瞼に浮かんでいた。
 
 ようやく原稿が売れるようになった。
 物書きとしてなんとがやっていけうだった。
 それなのに。
 また邪魔がはいった。
 でも、これはいままでのちょっとしたトラブルではない。
 ぼくの運命を変えるような異変だ。
 
 ――それで結局……K市にもどることにしたのね。ひとことも、わたしに相談しないで。
  
 泣いたり。
 なだめたり。
 すかしたり。
 おもねたりする姉たちの説得にはかなわなかった。
 そこに、親子の情愛がからんでくる。

 ――あなたと同棲してあげてもいいとおもっていたのに。
 彼女はひとりで喋りつづけていた。
 あまり上機嫌ではない。
 ぼくは黙ったまま、彼女を眺めていた。
 ――ねえ……ウソデショウ?
 彼女はいたずらっぽく笑う。
 ――わたしをためそうっていうの。わるい冗談はよして。あんなに嫌がっていた田舎ですもの。帰る訳ないわよね。
 ぼくは黙っていた。
 彼女はじっと、ぼくの顔を見ていた。
 こんどこそ、泣きそうな声になった。
 ――本気なのね。



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下痢32  麻屋与志夫

2019-11-29 14:47:30 | 純文学
32

 ――あなたは自分を痛めつけるのがすきみたい。
 彼女がささやく。
 いたずらっぽく、男を透かして見る眼差しをしている。
 だれが追加したのだろう。
 ぼくらの卓にはトマトジュースがある。
 彼女のグラスでは赤い濃液は半分に減っている。
 いつのまに飲んだのだろうか。
 ぼんやりとしていると、彼女が訊いてきた。
 ――でも……どうして、グラスなんか割ったの?
 質問のおおい女だ。
 ぼくにもわからない。
 動機はわからない。
 理由も動機もわからないまま、ぼくはいつも苦役に満ちた世界に引きこまれてしまうのだ。
 直腸癌の父と糖尿の母の看病をするハメになっときだって、逃げようすればよかったのに。
 
 ――Kがうらやましかつたのだろうか。
 だが、ぼくは声を低めてこたえていた。
 売れっ子の作家になっている彼が羨ましかったのかもしれない。
 妬ましかったのか。
 そんなことはない。
 嫉妬は相手を自分の水準までひきおろす。
 ぼくはKの成功を……よろこんでいる。
 ぼくはただ惨めだった。



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下痢 31  麻屋与志夫

2019-11-29 09:39:48 | 純文学
31
 
 待っているはずのKと彼の妻がいない。
 
 卓には水滴が(グラスを割ったときにとびちったのだろう)光っている。
 グラスの破片をかたずけるときウエトレスがおそらく拭くのを忘れたのだろう。
 回転するミラーボールの光が水泡の上部にあたり、虹色に光っている。
 喫茶店なのになぜミラーボールがあるのか。
 むだな疑問。
 場末の安キャバーレーのような照明効果には別に反発はない。

 外は、あきらかに午前十時。
 先ほどまでの朝のラッシュが、渦巻きふくれあがてって流れる人の波が途絶えた。
 窓ガラスの枠の中で街が静まりかえっている。
 逆巻く海がふいに凪いだように、都会にも静謐の訪れる時間帯があるのだろう。
 
 血は止まらない。
 ぼってりと流れでるほどではない。
 赤い斑点が白い布に広がる。
 痛みは薄らいだ。
 血のシミ。
 汚れ。
 それらの赤い色調をみる。
 自分の置かれている場所が宙ぶらりんだ。
 
 存在そのものがすごく曖昧だ。
 
 不安になる。




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下痢30  麻屋与志夫

2019-11-28 13:41:37 | 純文学
30

 ぼくはいつの間にか、グラスを割ったらしい。指先から血がでていた。
 白いハンカチーフが巻かれ、そこにも深紅のしみが広がっていた。
 自動扉が開いた。コートの襟を立てた女たちが、街にでていく。
 街路樹の葉が緑に芽吹くにはまだしばらく待たなくてはならない。
 冬の朝風に揺られて細枝が乾いた音を立てていた。
 ぼくは風にののって、ふたたび御蔵跡の通りにもどろうとした。
 こんどは、うまくいかなかった。
 ひとたび、くだけた、イメージの破片をふたたび元の形をあたえることはできない。
 再構築できるわけがない。
 洗面台に淡く赤い血が一滴垂れ……ぼくの指先からの出血はなかなか止まらない。
 指の腹でそっと触れてみると傷口に小さなグラスの破片がらしいものが確かにある。
 親指と人差し指の爪をあわせてぬきとろうするのだが……むなしい。
 爪に血がついたたけだ。ぼくはいらいらして彼女に針をかりてきてくれるように頼む。
 やっと、えぐりだした微細なグラスの破片。
 針の先ほどの大きさで……、それがグラスの破片であるといった証拠はなにもない。
 出血はますますひどくる。
 彼女はハンカチを細く紐状にさき、かるくより合わせ、ロープにし、ぼくの腕にまきつける。
 ぼくの胸のポケットから万年筆をぬき、ロープと皮膚の間に差し込む。
 ギュッとしめる。白いロープが肉にくいこむ。
 ぼんやりと彼女の手慣れた動作を見ている。
 ――Kさんご夫妻が待っているわ。行きましょうか。
 ぼくらはまだ洗面所にいた。
 ――いきましょう。外へでましょう。



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下痢29  麻屋与志夫

2019-11-27 10:33:29 | 純文学
29

 ぼくは席をたって街にでる。いや、街にはでない。
 彼女がついてくる、保証はない。いつもの南の繁華街。「大劇」前に古びて油のしみ込んだ軍手が片方だけ落ちている。靴が踏みつけていく。

 冬の朝。

 白息やこの木より蛇落ちきしと 宇佐美魚目。
 
 氷はさみで立方体の氷をさげた男が喫茶店に入っていく。いや、入ってきた。
 記憶の隅にある街。
 深い沈黙。
 黒い毛糸の塊のような着ぶくれした巨女たちが街路のおおきな身ぶりで歩いている。
 ぼくは不透明な幕に隔てられている。彼女たちの声はきこえているはずなのに。きこえない。
 道順を思い浮かべるまでなく「御蔵跡」の履き物問屋街に立っている。
 ちゃんと、カバンはもっている。
 請求書がぼくをみちびいてくれたのだろう。
 ともかく集金をしなければならない。

 どうや。もうかりまっか。
 いや。さっぱりですわ。
 もうかりまっか。あかーん。
 どうや、儲かりまっか? 
 あきませんな。さっぱりですわ。
 そうだっか。そらあきませんわな。
 あきないいうたら、かねだっせ。
 かねがないことには、うごきがとれんわな。
 かねほしい、かねほしいいうたかて、かねのほうから、あるいてきてくれることはないわな……まあ、……やっぱ、努力でっしゃろ。かねがすべてやもんな。

 古びて薄暗い軒並み。
 傘屋。下駄屋。鼻緒屋。
 華やいだ色彩のある和装履きの店。
 けばけばしい原色のヘップ、サンダルの卸問屋。
 これらの店みせがまぎれもなく御蔵跡の街をつくりあげているのだ。
 ここは日本一の履物屋街なのだ。

 まいどおおきに。ごめんやす。素人売りはいたしかねます。
 知らんちゅうことは、ホンマにこわいこっちゃ。
 むちゃくちゃいいはるからな。

 ――また、お会いできて、うれしいわ。
 彼女が笑っている。後ろからふいに、肩をたたかれた。
 ――あれ、おれのカンが、やはりくるったのかな。
 彼女をぼくの妻と誤解していたKは困惑した表情をしている。



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下痢28 麻屋与志夫

2019-11-26 11:11:31 | 純文学
28

 ぼくがたえず父のことを身近に感じるのは、この火傷のせいだろう。
 火傷はぼくの膝にあるだけではない。
 ぼくの心の中にも刻印されている。
 埋葬がすんで「お清め」ということで今度は喪主側で組内のひとを接待することになった。
 家に帰ったぼくは、一刻もはやく横になりたかったが、宴会がまっていた。
 仏間とその隣の居間との間のフスマをとりはらった。
 組内の人たちが、席について談笑している。
 こちらの悲しみなど無視していた。
 ビールが凍っていると、組内の男たちがひそひそはなしている。
 これじゃ、飲めなかんべな、という声が反対側の席でする。
 ぼくはあわてて、部屋をでて、台所の暗くカビくさい片隅にいってみた。

 妻がお茶箱にかがんで、おおきなせりだしたお腹でうずくまっていた。

 今朝までぼくの本が詰めこんであった、内側にアルミ箔のはってあるお茶箱はまさにその構造のためクーラーのかわりを果たした。父の死体の腐乱を避けるためU市まで行って贖ってきたドライアイスが詰めこまれていていた。
 ビール瓶の王冠だけが、かすかな天井から落ちてくる採光のもとで光っていて。
 ドライアイスの上げる白煙がゆらゆらと立ちのぼっていた。
 ビンが破裂するのではないかと、緊迫した予兆に慄き台所へかけつけたぼくをその白い霧は揶揄しているようだった。
 ビンが破裂したら妻がケガをする。
 気をつけないとドライアイスでヤケドをするといってしまってから妻をひきよせてみると、すでに指に赤い火ぶくれができているのだった。
 いまどき冷蔵庫がないと、裏の人たちに陰口をきかれたのが悲しい、悲しかったが……あたしが泣いているのはそのためではないの。二番目の、Tに住んでいるお姉さんに、いまこんなときに、おおきなお腹しているなんて、生まれてくる子は……きっとろくな子ではないわ。そういうの昔から畜生腹っていうのよ。……といわれたからよ。わたしたちはもう若くはないのよ。七年もお母さんとお父さんの看病で、子どもを産まずにがんばってきたのよ。両親の看病でわたしたちの結婚生活をすりへらしてきたのに――。二人目のこどもを望んでは罪なの、受胎をあきらめろというの。
 落ちた涙がドライアイスに触れてシュッというような音をたてた。
 これ以上冷やすと、ビンが破裂したてしまうからと……言って王冠を指でつまんで、まるで鉗子でひきだすような動作で、一本いっぽんていねいに台所にならべた。
 彼女のからだのふるえはやむことがなく、本が入っていた立方体の箱からはかげろうのような霧が立ちのぼり、妻の背後で絶えることはなかった。
 部屋のほうでビールはまだかと催促するだみ声がきこえてきた。



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下痢27 麻屋与志夫

2019-11-25 11:01:18 | 純文学
27

 後ろからふいに肩をたたかれた。
 彼女がほほ笑んでいる。
 フロワーを近づいてくるのに気づかなかった。
 服装が昨日とはかわっている。
 それを彼女に訊いて確認する暇はない。
 たしかに妻によく似た女てはあるが、それを言いだす気分ではない。
 彼女はぼくのとなりの席につく。
 三人は一斉に手ぶりをいれて話しだす。
 Kと彼女の話はうまくかみあっている。
 共通の話題。
 共通の記憶。
 場所。経験。
 
 ぼくはグラスの底についてした水滴で、黒いテーブルの上に「時間」と書いてみる。
 窓の外を行く人がにわかに増えて、通勤時間になったことがわかる。
 冬には全くそぐわない大きな葉をつけた熱帯植物の造花のように硬く動かない葉ごもりをとおして、それらの人びとの話し声や顔の表情までもよく見える。
 いや、話し声は聞こえるはずがない。
 その声はぼくらのものだ。
 だが、ぼくは三人の声をはるな隔たりをもってとらえている。
 貝殻をイメージさせる白い皿。
 あいかわらず水滴のついたグラス。
 レモンの香りの残っている透明な液体。
 
 白い……いや、あれは素焼き色をした小さな壺だった。むしろ銅色にちかい。けっして、白ではないことは確かだ。記憶のなかでは、どうしてすべてのモノが白に向かって色あせていくのか。透いて見える。白く。ぼくはいつも小さな骨壺を心の中にあれからというもの持ち歩いている。ぼくは骨壺の底で円形の火傷を膝に赤く刻印されたときから、心の均衡をかき、日常生活のゆがみ、あるいは白じらしさから、抜けだせないでいる。膝をひらくと半月形の火傷はいまでも消えていない。



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下痢26  麻屋与志夫

2019-11-24 05:44:21 | 純文学
26

 ――七十三だったはずだ。八年間も注射のしつづけだったので、しまいには針をつきたてるところがなくなって、手の甲にしていた。
 ――そんなにひどいものなのか。
 ――言葉で表現するのがむずかしい。記録しておこうと、書き留めても、そのつどリアリティのない言葉をつらねることになってしまう。だいたい、直腸癌の末期患者の介護記録なんて残す価値があるのだろうか。
 モーニングサービスでついているトーストをパクつき、ぼくだけコーヒーではなくレモンスカッシュ……のスライス、をとりだして口に入れる。
 御蔵跡の履物屋、お得意さんをめぐり吸いすぎたタバコで荒れた口腔いっぱいに爽やかな匂いがひろがる。
 朝のきりこむような感触。
 ――あいかわらずレモンをさきにつまむくせ、なおらないのだな。
 するりと、彼の言葉から逃れてぼくは訊き返す。
 ――仕事はおもしろい?
 ――おもしろくないわけないだろう。すきで選らんだ道だ。
 ――偏業の因縁。
 ぴったりと呼吸が合って、過去にいくたびか口にした言葉が同時にふたりの声でつぶやかれる。
 彼の口元。かれの唇の動き。
 
 街の騒音がふいに遠のき、ぼくは公衆電話ボックスの中で逆上して、断じて故郷鹿沼にはもどらないとわめきだした。わめいているのだが、声はよそよそしく耳にひびき、しまいにはしょぼくれ、よそよそしくなり、姉に説得されてしまう。受話器をもった手がふるえていた。父の発病(一滴の真っ赤な血がはるか隔たった空間で純白の便座に付着していた)――を知らされたのだった。絶望の底へ引きもどされる。ようやく逃げだした故郷なのに、北関東の北端、どんずまりの街、鋳型にはめ込まれたような生活圏に下降してしまう。ぼくはふたび、東京にもどって、小説を書く生活にはもどってこられないだろ。不安にふるえていた。悲しみ、悔しさぼくはボックスの底に坐りこんでしまった。

 微笑。
 彼の微笑がぼくを現実に引きもどす。
 ――オマエさん、だいぶ肩幅がひろくなつた感じだな。
 ――労働したからな。
 あれから、八年たっている。……ぼくは眼をつぶる。
 幻影は消えている。
 饒舌な彼の声だけが昆虫の羽音のようにひびき、ぼくはしきりとうなづき、あいづちを打っいる。



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下痢25  麻屋与志夫

2019-11-23 07:51:42 | 純文学
25

 ――どうや、爽やかな、朝やろ。
 ぎこちない関西弁だ。Kだ。ぼくも調子をあわせて大阪弁で応じている。まだよく目覚めていない。翳りのなかに存在している。父の背後霊から――思い出からぬけだせないでいる。
 口をきくのもおっくうだ。
 そうじやない、明朗快活な声がまだ受話器のなかにのこっている。

 自動扉が音もなく後ろで閉まる。
 まばゆい朝の街にでた。
 喫茶店はすぐにわかった。薄暗い空間に入りこむにはすこしだけ違和感があった。
 Kはモーニングをぼくのぶんも注文しておいた。長いつきあいだ。お互いのことはよくわかっている。
 話しているうちに、彼の言葉はしだいに故郷の言葉にもどっていた。
 ――いまごろ家のヤツと「虹の街」でもほっついているだろうよ。
 彼はさぐるような眼でぼくに訊く。
 ――彼女ほんとうは、キミのワイフなんだろう。……しばらくぶりで会ったおれをからかってんだろう?
 ――いや。とぼくは真顔で応えている。見ず知らずの女さ。新幹線の中でひろったんだ。わからない、といった顔がニタリと笑いにかわる。
 ――からかおうとしても、ダメダメ。会ったばかりの女が、ああも巧く、おまえの酒の相手ができるかよ。ぼくはなにを彼に話しているのだろう。
 ――ホテルに連れていかなかったことだけでも……わかるだろう。あれはほんとうに……ぼくが……。
 ――ところで。わからないまま、あやふやなまま、女の身元洗いはやめてKは話題をかえたらしい。
 ――お父さんは、残念だったな。苦しんだのか?
 幾つだった。と訊かれている。




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