田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

割りばし

2007-06-30 23:27:16 | Weblog
6月29日 金曜日
●レストランで食事をするときに必ず割りばしを頼む。これは、若いときからそうであった。銀食器だと歯にカチカチあたる感触がいやなのだ。塗り箸もだめ。おなじようにあのつるつるした歯ざわりがいやなのだ。それに、先がとがっている。歯にあたる音も鋭くてスプーンもフォークもだめ。それでいて、洋食がすきだ。若いとき通訳のマネごとをしていた。アメリカのひととよくレストランで食事をした。かれらの視線がわたしの手元に集まる。わたしは右の箸の下のほうを持ちステーキにすばやく連続した穴をあける。そして箸先で悠然と肉片を挟む。食べる。彼らはわたしのこのパーフォマンスを「おう、侍チョツプステックス」と感嘆したものだった。いまは老いてそうしたちやめっけはなくなった。気に入った割りばしだと「もったいない」と家に持ち帰る。カミサンはいやな顔をする。「なんでもすてるのがきらいなんだから。わたしが長生きしてあげないとあなたまちがいなく、ごみ家敷老人になるわね」カミサンがむしょうにに元気な理由だ。カミサンに長生きしてもらうのには「わたしがいないとこのひとはだめだ」と思ってもらうことだ。
●昭和ひと桁世代だ。欲しがりません勝つまでは。と教育された世代だ。持ち帰えった箸がうれしい。毎日よろこんで使っている。カミサンは微苦笑。
●今朝もその箸で食事をしていると甘いいい香りがする。初めて気づいた。一輪ざしにくちなしの花がさしてあった。白い可憐な花びらがいい。食卓の花瓶には、アジサイ、シトケシヤ、都忘れが活けられている。庭で咲いた花で部屋をいつも飾れるのも田舎住まいの恩恵なのだろう。

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キチョウメンなんだね

2007-06-30 07:48:30 | Weblog
6月28日 木曜日
●ごまかせないな。意地悪いほど正確なんだよな。そんなに文字通り機械的だと疲れちゃうぞ。今朝は早く目覚めすぎた。昨夜遅く書いたブログを開いた。訪問者が少なかった。実は、二日ほどPCに向かえなかった。小説はまだWプロを使っている。長編を書きあげていた。
ようやく小説をアップして、書いたブログ。初めて右肩を見た。26日分のブログの作成日。6―30-0055:43とでているではないか。あんたは、几帳面なんだな。二日遅れのブログを書いていることがバレちまっている。水曜日のブログを金曜日の夜書き出して暦がめくれてしまっていた。
●あまりにも正確なのでおどろいた。訪問客が少なかったのは、毎日訪れている人がいてくれている。空白のページができてしまい、ほんとうにごめんなさい。せっかく訪れてくれたのに、更新されていなかったわけで、ごめんなさい。PCに慣れて小説もここで書けるようになればブログにもつと気軽に立ち向かえるようになるだろう。
●今朝は雨。ブラッキーは夜外出したきりだ。どこをほっついているのだろう。
●鶯が鳴いている。小鳥が裏庭の杏や白モクレンの木に来ている。雀のさえずりもうるさいくらいだ。どうやら、雨がやんでいるらしい。今日も、いい日になりますように。GGはあれからずっと寝ず。もうすぐカミサンが起きだす時刻だ。朝食を、一汁一菜ですませて寝ることにします。


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呼び声

2007-06-30 00:55:43 | Weblog
6月27日 水曜日
●雨が降った後で滑りやすくなっていた。カミサンに注意しながら、F山の急斜面を下った。こんな梅雨時にわざわざ散歩に出なければよかったのに、と彼女がぼやいている。まったくそのとおりだ。悪い癖だ。どうしても山頂から薄墨色にけぶった故郷の街を見下ろしたかったのだ。薄く霧のかかった風景は、墨絵のように美しかった。時おり、雲が動き日が射す。すると、青田が見えた。青田の中に家がある。家のまわりに青田が広がっていた。平穏な田園風景を鳥瞰することができた。ああ、わが故郷はこんなにも美しかったのか。
●欝蒼と茂った樹木からは雨が滴っていた。昼でも暗い。やっと麓についた。昔は田畑だった辺りは住宅地になっていた。近くに中学校が建てられている。家々では、洗濯物を干そうとしていた。わずかな日照もむだにしたくはない。梅雨の晴れ間の、洗濯だ。さきほどより、ずっと明るくなってきていた。
●だが、路地を少し入った辺りに薄暗い場所があった。
家と家に挟まれていて日が射さないからだろう。でも、気になった。その薄闇に誘われるようにして歩み入り、佇む。薄汚れたコンクリートだけが残った廃屋だ。むろん、家の形を示すようなものはない。基礎石や半ば腐れかけた柱などがごろごろしていた。闇がさらに深くなった。人声がする。泣き叫ぶ声。子供のすすり泣く声。だれかに、呼ばれているようだ。もうもうと煙突から煙が上がっている。骨を焼く臭い。いがらっぽい臭いがする。臭いのなかから、わたしに呼びかけるものがいる。子供の影がぼんやりと見える。
●わたしは、ぞっとして冷や汗をかいていた。動けない。金縛りにあっている。それがわかっているのに、動けないでいた。だれかがわたしを子供の頃の呼び名で呼んでいる。子供の影がわたしを取り巻いている。遊ぼうよ。アソボ。アソボ。
●「どうしたの。あなた。あなた。どうしたの」カミサンが呼びかけていた。わたしが、路地に入りこんだまま、出てこないので、迎えにきたのだという。「真っ青よ。なにがあったの」辺りにはなにもない。ただ古びたコンクリートの更地がぼんやりと広がっているだけだった。
●避病院の跡らしいですよ。昔、避病院のあつたところなので売れずにあるのだという。道端にいた若い主婦はそれがどういうことを意味しているのかしらないらしかつた。
●法定伝染病にかかったものを強制的に隔離するためにら建てられていた病院だった。わたしが子供の頃は食料事情も衛生状態も悪かった。梅雨時によく伝染病が流行った。わたしの友達もなんにんもこの病院に運ばれた。入院したものはだれももどってはこなかった。
●病院につくと、そのまま焼却炉になげこまれてしまうんだぞ。
●わたしの幼少の頃の、都市伝説だ。怪談だ。
●夜来の雨。なにも書くことがないので、去年の今頃体験したことを書いてみました。

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インディアンの雄叫び

2007-06-28 00:18:56 | Weblog
6月26日 火曜日
●PCを笈のごとく背負って街にでる。
待望の雨はまだ降り出さない。ときおり午後になってさつと一雨降るくらいだ。だから、街は暑い。PCを背負った背中に汗がじっとりとふきだす。ポロシャツの背が汗の塩で白くなる。いつまで、こうしてふたりで街を散策することができるだろうか。
●カミサンが6月16日のわたしのブログ「赤青田」に写真をいれてくれた。わたしは、下手な俳句もつけくわえた。ぜひ再度訪れてください。カミサンはわたしのブログにぞくぞくと写真を載せるとはりきっています。ご期待ください。
●側溝が音をたてて流れているのは、上流ですでに田植が済んだからだ。田植えのために、せき止められていた流れが自然に戻されたからだ。そんなことを考えながら街を歩く。どこかで、葬儀があるらしい。黒の喪服の人たちとすれちがった。
●家に戻った。カミサンは杏ジャムを作りだした。わたしが、杏落としに参加しないので、今年は収穫が少ない。もうしわけない。怪我でもしたらと思うと、どうしても木に登れない。わたしが、インディアンのように雄叫びをあげられないからと言って軽蔑しないでください。男らしい仕事をなにも引き受けられないでごめんなさい。
●そのかわりといってはなんですが、長編書き上げました。田舎住まいの、たそがれた物書きの作品なんかさ出版してくれるところがあるのだろうか。これからの営業のほうが、さらにしんどいことになるだろう。明日からはすでに書きあげている「80歳のアダムとイブ」の推敲にはいる。ごみ屋敷の老人のような書斎に閉じこもる。

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雨積もり

2007-06-26 21:40:02 | Weblog
6月25日 月曜日
●雨積もり。ということばは、ないらしい。ほんとうなのだろうか。だとすると、これはわたしの造語ということになる。わたしには、造語癖がある。でも、雨がふるかもしれないよ。雨が降る心積もりをして雨具を持参しなさい、とは子供たちにいった記憶はない。
「雨積もりをして傘をもっていきなさい」長いことわたしはそういってきた。ところが、カミサンがあるとき、「雨積もり」と随筆に書いた。そういうことばはないと編集部から指摘された。梅雨にはいると、いつもそのことを思い出す。なんとなくつうじてしまう、ことばだと思う。毎年いまごろ雨積もりということばとともに、まだ子供たちを育てていたころのことを、曇った空を見上げながら思う。いかにも梅雨時にふさわしい思い出だ。
●雨男だった。カミサンがまだ恋人だった頃。わたしは天候に左右される仕事をしていた。晴天の日には、家を離れられなかった。いきおい、デートは雨の日。雨の降る町をよくふたりして歩いた。後日、これもカミサンが「雨の日が好き。あなたとの思い出につらなるから」と書いてくれたほどだ。
●雨がまだ降り出さない。雨の思い出を二つ書いてみた。

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すべて世はこともなし

2007-06-25 13:24:59 | Weblog
6月24日日曜日
●おや、まだ雨が降りだしていないな。ということで、大きなリックを背負い日曜大工の店Kにカミサンとでかけた。ブラッキーの餌の買い置きをするためだ。雨が降りだすと外にでるのもいやになる。車がないからどこに行くのも歩きだ。カミサンはさいきん携帯を買った。シルバー用なので万歩計が付いている。歩いた歩数がわかる。たのしいものだ。犬に吠えられた。おやおや、あの愛すべきラブラドールの前を忘れてとおりすぎてしまうところだった。犬小屋から鎖をめいっぱい伸ばして歩道ちかくまででてきた。
「あらあら、ごめんね。こちらからあいさつするのわすれていたわ」
カミサンと歩いているとわたしもつい話に熱中する。昨日ここまで歩いてくるのに、かなり距離があったような気がする。Kまではもう近い。犬はカミサンにすっかりなついている。お手をしているのだから、驚きだ。
●「犬も飼いたいわ」カミサンはガラスケースの中でじゃれあっている子犬を見ている。
「アメリカンショートヘアーもかわいいな」
「武蔵君あげなければよかつた。あのこわたしの足にじゃれついていたのに」
梅雨の時期だった。夜の散歩をたのしんでいたわたしたちに捨て猫がすり寄ってきた。長いこと猫と共生しているので、猫の匂いがしているからだろう。一晩だけ家においた。名前までつけた。いまは、なんと呼ばれているのだろうか。
●忘れた。買い物を忘れた。猫がいい。犬が飼いたいと話に花が咲き店の外にでてから気づいた。さらにおまけがある。あわてて買った餌、犬の餌だった。犬が飼いたいという願いのあらわれだったのだろう。
●家にもどる。外出するのでたっぷりとあげたブラッキーの食器がからっぽだ。
おやおやおや。またも小さな驚き。門付けのように時々やってくる猫がきたのだ。買ってきたばかりの新しい餌を皿にあけてやるとわが家のブラッキーはがっがつとたべている。
●すべて世はこともなし。
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もうすぐ雨

2007-06-24 00:54:59 | Weblog
6月23日土曜日
●PCを笈のごとく背負って街にでる。
昔、シナリオ研究所の4期生だった頃「カメラ万年筆論」が華やかだった。よくは覚えていないが、カメラを万年筆のように使って自分の思想を表現しよう。そうした、主旨だったと思う。後で、インターネットで調べてみよう。いい時代になった。あやふやな記憶はすぐPCで再確認できる。記憶力の低下を嘆かなくてすむ。背中に万年筆とノートそして百科事典、などなどを持っていると思うとこころ強い。いやいや世界中の図書館が味方だ。思想とまではいかないが、目についたことや、そのつど頭をよぎった考えを気軽に書きとめておくことが出来る。小さな田舎町の人々の生活を記録していこう。GGは字義どおりノート型PCを背負って街にでて、スケッチをしよう。
●造花の花に水をくれている。鉢植えの造花のバラやユリの花に水を定期的に水をやっている家がある。すごくおもしろいと思った。古くは「たまごっち」。もろもろのゲーム感覚で動物や植物を育てている。あの感覚なのだろう。
●今のところ空梅雨。炎暑だ。街を行くひとがすくない。暑すぎる。この田舎町はわたしのためだけにある。お寺のこんもりとした桜の緑。その木陰でPCを開く。陽光をさえぎってくれるので涼しい。蝉にはまだ間がある。ぢ虫が鳴いている。
●通りの側溝の流れが豊だ。川の流れる音が暗渠のところどころにはめ込まれた鉄格子からたちのぼってくる。すこし生臭いニオイがするのさえうれしい。これが自然なのだ。
●いつもの家の、いつものラブラドールがすっかりわたを覚えてくれた。しっぽをふってあいさつをしてくれる。あれ、隣の家のバラは萎れているな。雨が降るだろうと水をやらなかったのかな。
●田舎町はもうじき雨が降りだすだろう。

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74歳の誕生日

2007-06-23 00:15:18 | Weblog
6月22日
●PCを笈のごとく背負って街にでる。巷は雨。わたしの心には書くことのできなかった小説への無念の涙があふれている。とくに、この15年は悲惨だった。わたしが、緑に囲まれた田舎住まいを楽しんでいるうちに、東京では平成不況、雑誌の廃刊があいついだ。知り合いの編集長が定年になった。発表の場をうしなった。そして、二度にわたるわたしの大病。よくぞ病魔を克服し健康をとりもどしたものだ。いまは、健康すぎるくらいだ。そこで、PCをヨドバシカメラで買った専用のリックにいれて街に出た。
●宇都宮駅のコンコース。赤とんぼが床に止まっていた。いや、止まった姿のまま干からびていた。人に踏まれてこなごなになっていないのがふしぎだった。わたしは、雑踏する人々の足元を見つめていた。もしや、あの季節はずれの赤とんぼがとびたちやしないかと期待して。
●カミサンがチサンホテルの「だいだい」に誘ってくれた。珍しいこともあるものだ。前回宇都宮に来た時食事をして、とてもおいしかった。リピーターというところだ。店の内装も和風の趣を取り入れて明るくおちつける。イスの布の色調もいい。わたしの頼んだランチ、金曜日の特別メニューのカレイの香味野菜オイスターソース煮? おいしかった。カミサンにもつまませた。恥ずかしそうに箸をのばした。「おいしいわ」そして、じっとわたしをみつめている。
「誕生日おめでとう」それで誘ってくれたのだ。
「たべもののことはなにもわからない。おいしいものをおいしいなと思ってたべるだけだ。ほんとうにおいしかつた。でもそれではブログ書くのに困る。このカレイのメニュー書き写しておいてよ」
カミサンはじっとわたしをみつめていた。わたしも沈黙。原稿が売れたらこの「だいだい」で夜の懐石料理でもカミサンに御馳走してあげよう。彼女の誕生日は12月だ。

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杏酒

2007-06-22 06:45:17 | Weblog
6月21日
●今日は晴れていた。明日からはいよいよ降り出すらしい。もうじき杏の収穫の時だ。わが家は裏庭に杏の木がある。結婚してまもなくの頃、カミサンと連れだって花市でよく樹木の苗を買った。花市は、2月にある。黒髪颪の吹く北関東の厳しい冬がもうじきおわろうとしている。ひとびとの心の中では春がはじまっている。そうした時期に露天商が街のメインストリートに店をならべる。寅さんじゃないが、お国ことばも引っ提げて全国からあつまってくる。              
●杏。白モクレン。キンモクセイ。沈丁花。そして黒竹。その杏が実をつけるようになってからすでに何十年もすぎている。恋人であったころ、カミサンは「わたし杏の里に住みたいの」と夢見ていた。里とはいかないが、杏の花を楽しむことはできる。わたしは、花より団子。カミサンの杏酒を期待しているのだが。ここ数年異変が起きた。
●脚立にのったり、塀の上にのって長い竿で杏の小枝をたたくのがこわくなつた。
杏を落とすことが億劫になったのだ。もし足をすべらせて落ちでもしたらたいへんだ。これからまだまだ書きたいことがいっぱいある。けがなどしていられない。
●杏酒は飲みたい。ことしはまたメルシャンの白ワインで漬けてもらいたいなぁ。メルシャンの500円台のワインで十分だ。おそらく、日ごとに、年ごとに強くなっていくカミサンが脚立にのる。わたしが脚立を下で支える。そんな構図が脳裏にある。
●むせかえるような緑の群葉の中にわが家はある。緑につつみこまれている。これも田舎住まいのうれしいことの一つだ。
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30年ぶりの那須

2007-06-21 14:08:35 | Weblog
6月20日
●娘夫婦に連れられて那須に出かけた。カミサンは童心にかえり、孫たちとしりとりやなぞなぞ遊びをしていた。さすが那須野が原。どこまでいっても緑の中だった。緑のトンネルがつづいた。
●那須フィッシュランドにいった。遊魚券を買ってマス釣りをした。孫たちが釣ったマスでお酒を飲んだ。うまかった。長生きはするものだ。
●南が丘牧場に寄った。娘は子供たちを馬にのせるのだという。
「ねえ、パパ覚えている。子供の頃、ここにつれてきてもらつたよね」
それで思い出した。
「馬がクシャミをした。それで泣き出してしまつた。あの、場所なのか」
30年も前のことだ。娘はよく覚えていた。
馬のクシャミに驚いて泣いた娘は今は、二児の母だ。
長生きはするものだ。生きれば生きるほど、思い出の数が増す。この日が孫たちにとつて未来のいい思い出になることを願った。
●那珂川の清流に釣り人を見た。
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