田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

パソコンの中のアダムとイブ

2008-03-31 22:03:43 | Weblog
3月31日 月曜日
パソコンの中のアダムとイブ (小説)

  神の手荒な爪先が追いすがる八十歳のイブ達よ、
  明日の朝あけ、君達は果たしてどこにいるのだろう?
               ボードレール『小さく萎れた老婆達』より
 
 陽光に一瞬目がくらんだ。
 盛夏。太陽がギラギラと街をあぶっている。
 コンクリートの舗道から熱気が反射する。その輻射熱でさらに蒸し暑い。
 村木正はぐっしょりと汗をかいていた。老いの身にはこの暑さは過酷だった。
バス停までの距離がみように遠く感じる。老齢のために体力がおちている。リックにつめこんであるワープロが過剰な負担を体に伝えてくる。体が弱っている。認めたくはないのに。……このていどの重量が過負荷となるようではやはり歳が足にきているのだ。
 寄る年の波がしだいに下腹部に打ち寄せ、容赦なく足に到達したということなのだろう。
この戦慄するべき老齢化の波が爪先からぬけていったら舗道に倒れ伏すことになるのだろうか。
 人生にはいろいろある。一過性だからほとんどのことが初体験。
なにが起こるかわかったものじゃない。
もっともそのスリルがたまらなく楽しいのだ。

 TWMUの付属病院放射線腫瘍科で下腹部に赤くマーキングした線が汗で流れおちてしまうかもしれない。放射線治療が効果があるかどうかということよりも、村木はせっかく技師がマークをいれた赤い線が、滴る汗で消えてしまったらどうしょうと不安にかられた。CTスキャンやエコーで膀胱や前立腺などの位置の見当をつけ、放射線をあてる箇所を特定する。それから腹部の中心から臍まで赤い印をつけた。臍のところへ上向きの矢印が描かれた。その矢印のある線が下腹部の剃毛したあたりに落ち込んだあたりから両サイドに赤い印がされていた。
 金曜日のジェソンにチェンソーで胴切りにされたような赤いマーキング。帰宅したときに、それをみて若い妻のキリコは複雑な表情をうかべた。
 鋭利な刃物できざまれたような赤い線が両の太股の外側にも伸びていた。これでモルグの台に仰向けになれば……死体と見紛うような、殺傷されたものと視認される。しかし、村木には背中に背負ったリックのワープロがもう備品切れで修理不能と宣告されたほうがショックだった。
 下校時だった。高校生がじゃれあいながら村木を追い越す。
 反対側の歩道沿いにスカイラークがある。女子学生がなだれこんでいく。
 暑い熱射を避けてアイスクリームをたべながら豊潤な青春のひとときを楽しむことだろう。アイスクリームと総称で呼ぶことはできる。それは幾種類にもえだわかれしている。個々の商品名を上げられない。ファミレスに入ったことはない。ハンバーガーなどたべたこともない。そんなことを告白したものなら、まるでカンブリア期からきた、あるいは異界からきた生物を見る視線がむけられることだろう。
 暑い。注意してストローハットをかぶってきたものの村木の顔には強い光が直射している。あまり強い白昼の陽光に頭がくらくらする。(ああ、むりして病気のからだなのに修理不能となったワープロなど受取りにこなければよかった。幾つになってもあさはかなことばかりしている)と、ひとりごちたところでどうしょうもない。
 バスがきた。バスがきた。走るにも走れない体をよろよろと進めてなんとかステップにもちあげることができた。
「待たせないでくださいよ」
 非情な運転手の声があびせられ、村木はうっと息がつまりそうになる。

                         to be continue


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餌やり老人

2008-03-30 13:33:34 | Weblog
3月30日 日曜日
餌やり老人(随筆)
 ヨーカドーの前の駐輪場に痩せた老人の背がみえる。老人はかがんで猫に餌をやっている。いつも見掛ける情景だ。
「本田さんですよね」
 おもいきって、声をかけてみた。
わたしがこわごわ声をかけた。間違ったらどうしょう。後ろからついてきている妻に「また思い違いをしている」とせめられそうだ。
 老人はやはり本田さんだった。猫に餌をやりながら、(細く裂いたイカの燻製をやっているのだが)わたしに応えてくれた。                    
「覚えてくれていてありがとう」
わたしのほうをかがんだままふりかえろうとした。猫がかすかに不満の鳴き声をあげた。右の手で本田さんの手の平にあったイカをとった。爪をだしているので本田さんの手に擦過傷がのこった。傷というほどおおげさなものではないが、それでも細く血が滲んだ。
わたしはふいに声をかけたことを詫びた。
「いやだいじょうぶです。この猫のおやも、すぐ爪をだすクセがありましてね、よくひっかかれましたよ」
 妻がいつも持っているバンドエードをだす。うれしそうに「ありがとう」といった。
老人なのに恥ずかしそうだった。ういういしい感じだ。
ああ、本田さんは一生独身でとおしているのだと思った。
わたしが25歳で故郷にもどり、同人誌を始めたときに参加してくれた。あのときすでに40歳はすぎていたはずだから、いまでは世にいうところの卒寿にちかいはずだ。わかいときに結核を患い婚期を逸してしまったといっていた。ともかくあの『現代』という同人誌を始めたときは、みんな独身だった。まだ幸いにも、老いた同人の訃報はきかずにすんでいる。
同人誌を廃刊してからでも、すでに30年ちかく経っている。いまではほとんど交流はないが、葬式のときだけはかけつけなければならないだろうと思っている。ともかくみんな年をとってしまったな、というのがわたしの感慨である。
出版社のB社に就職したSが全国雑誌協会の会長にまでなっている。
Kが国会議員になり。教職に就いた友だちたちは、校長までつとめて定年退職して悠々自適の年金暮らしをしている。
北関東の極みの小さな田舎町の同人誌ではあった。それでも、『文芸』や『文学界』の同人誌評でとりあげられた。その月のベストフアイブにのこるような作品をばんばんのせることができ、わたしも意気軒昂たるものがあった。
その『現代』に本田さんは旧制栃木中の仲間でプロ野球の選手として活躍した田名網について書いてくれた。
 わたしは、家にもどり懐かしい『現代』をとりだしてみた。
タイプ印刷で100部一万円で発行できた。むろん、当時としても格安だった。ところが、どのバックナンバーをみても本田さんの随筆がのっていないのだ。わたしはあわててしまった。まちがいなく、本田さんの作品を読んだはずだ。すごく感銘をうけたのを覚えている。
しかたないから、こんど会ったら聞いてみょう。本人なら、どの号にのったのか覚えているはずだ。わたしのバックナンバーは落丁があるにちがいない。ところが、周に3度はヨーカドーにいっているのに本田さんにはなかなか会えない。声をかけるまでは、周に一度くらいの割合で本田さんの猫に餌をやる姿をみかけていた。
 胸騒ぎがする。不吉なことを予測してしまう。
わたし自身もとしなのだな、と思う。すぐにマイナス思考におちこんでしまう。
                               未発表
次回からは小説になります。よろしくご愛読くださ。
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むかしをいまに

2008-03-29 13:44:28 | Weblog
3月29日 土曜日
むかしをいまに (随筆)
 赤い羽根をひろった。
 地下鉄丸ノ内線虎の門駅の階段を下りていた。あまりふいに腰をまげたので、危うく転倒するところだった。浅ましいことをするからだ。赤い羽根の募金をする小銭が惜しくて、無意識のうちに腰を曲げて落ちている羽根をひろったからだ。
 貧乏はするものではない。悲しかった。景気が良かった時には、町内の民生委員がまわってきて、ウン万円の寄付をして、お役所から感謝状を毎年もらっていたのに。
 尾羽うちからす。とはこういうことなのだろう。カナシイったらありゃしない。
 わたしはいい。こうして、じぶんを戯画して楽しむ余裕がある。妻はこのところすっかりおちこんでマジで悲嘆にくれている。いちばんの悩みは化粧品を購入するお金をどう工面するかということらしい。
 そこで、虎ノ門で下車することになったのだ。麻布十番の『フジヤ』化粧店がやめてしまった。虎ノ門の『佳』を紹介してもらった。何パーセントか割引してもらえるのが魅力らしい。妻のことだから化粧品はぎりぎりまで倹約して使う。いざとなってから「さあいきましょう」とうことになるのだ。
 地理不案内のためその店をさがして歩くのはたいへんだ。そう思って駅員にきいたのが、トラブルのはじまりだった。
 1番出口から。送ってもらった手書きの地図にはそう指示してあつた。駅員が不親切だった。いいかげんな教えかたしかしてくれなかった。おとなしい妻はわたしのところにきて腹をたてていた。わたしに当たられても困る。ケンモホロホロの応対をしたのは、駅員でわたしではない。
 けっきょく、20ぷんもかけて街中歩きまわったが、めざす『森ビル』はみつけだすことができなかった。わたしはじぶんがすっかり田舎者になっているようで寂かった。2時間かけて鹿沼から上京してきたのだ。今夜は娘の家で、かわいいさかりの孫娘たちに会える。早く会いたい。わたしは焦っていた。そそくさと、元にもどった。駅の1番出口を探す。そこから出直そう。ということになった。
 こんど尋ねた駅員さんは嘘みたいに親切だった。駅周辺の地図までくれた。ありがたくて目頭があつくなった。
「人によってちがうのよね。いい人にであわないと損なのよ」
 妻が感慨をこめていう。
 その駅へ戻った階段で羽をひろったのだった。
 『佳』はフジヤさんとおなじような、街の化粧品屋さんといった店だった。気さくに世間話をしながら品選びのできる妻の好みの店だった。楽しそうに妻がおしゃべりをはじめたのを機にわたしは店をでて歩きだした。なんとなくむかし歩いたことがあるような町並みだった。むろん、建物は高層化している。だが記憶ある街をあれこれ思い出していたら、こういう時がいちばん楽しいのだが、愛宕神社のまえにでた。そうか、愛宕神社界隈だったのだ。むかしN君に彼女ができて、ぜひ紹介したいというので会ったのがこの男坂の下の石碑のまえだった。いまも、石碑の文字はかわりがない。夕暮れ時なので八十何段かある急な石段は闇の洞窟への入り口のようだ。異界につうじているような薄闇の石段を妻とのぼることにした。曲垣平九郎手折りの梅も健在だった。
「あまり急な傾斜なので、あなたがつまずいたらたいへんだと、気がきでなかったわ」
 あまり心配したのでトイレにいきたくなったと妻がいう。たしかに一気にのぼるのは高齢者となったわたしにはかなりきつかった。血圧がたかいのでノルバックをのんでいる。息切れがとまらない。この先にNHK放送博物館がある。そこでトイレをかりたら。といえなかった。荒い息をはきながら指差すだけだった。わたしたちは勤めた経験がない。24時間完全密着型のカップルとして暮らしてきたので、それだけの身振りで意思は伝わる。妻がなかなかトイレからもどってこない。化粧をなおしているのだということはわかる。それにしてもながすぎる。売店の女の子にトイレの所在をきこうとしたところで妻は二階からもどってきた。帰りは女坂を下った。
「はじめからこちらの坂を上がればよかったのよ」
 いまは脳溢血で一度倒れ、それでも酒をやめられないNとの思い出については、妻には話さなかた。Nにあの時の彼女を探しあてて、もう一度会わせてやりたい。絵描きとして大成できず、屋根のペンキ塗りをしている彼が一番輝いていた時期の彼女だ。二人の悲恋についてはあまり細かいことは聞いていない。二人を会わせるのは酷かもしれない。もし彼女がいい生活をしていたらNはどう思うだろうか。坂を下り舗装された大通りにでてトンネルをくぐると、なんとそこに神社の境内までのエレベーターがあった。妻と顔を見合せわたしは、なにもいえず立ち尽くした。
                                 未発表。
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クラゲ

2008-03-28 22:48:04 | Weblog
3月28日 金曜日
クラゲ (随筆)
 クラゲが浮いていた。ふんわりと浮かんで、まるで水の表面に薄い皮ができたようだ。その半透明体のクラゲがゆらりゆらりと動いている。クラゲは水の面いっぱいに漂っていた。クラゲは<海月>ともかくが、まさに水面に浮いて揺れ動く白い満月のようでもあった。その動きが生々しくておもしろかった。フワフワとした動きには艶さえかんじた。まるで生きているように揺らいでいる。トイレットペーパーだった。妻が水洗で流し忘れたのだ。トイレの水に浮かんでいる紙のクラゲにわたしは妻の老を感じとっていた。「トイレ流し忘れているぞ」とテレビをみている妻に呼び掛けることは容易だった。だがさいきんでは、妻の物忘れの頻度がかなり高まっていたので、声をかけることは、憚られた。
 几帳面なひとほど老いてから物忘れがはやくやってくる。それを意識した時のショックは激しい。とどこかで読んだ記憶がある。
 わたしが風呂にはいると、きまって下着類は奇麗に洗濯したものとかえてくれる。脱衣籠にパンツ、丸首のシャツ、ステテコ(冬であったらモモヒキ)が、順番にかさねられていなかったことはない。それは見事にかかさず洗濯をする。塾で教壇に立つおりに締めるバンダナも、まだ汚れていないからといっても、そのつど洗濯機に放り込む。すぐにうす切れてしまうほどよく洗ってくれる。
 食後の食器類もかならずその場で洗う。こうした妻の負担を軽くしてあげようと
食器洗い機はもうかれこれ25年くらいまえから使っている。洗濯機も全自働で、乾燥機も別にある。
 若い時から妻は見事に忘れ物をしていた。見事にというのは、おたがいに若かったから物忘れにも愛嬌とかんじて「かわいいな」ということですんでいた。
 スーパーに自転車で買い物にいく。「ああ重かった。自転車でいけばよかったわ」と小柄な妻が両手にずっしりと重そうな白いビニール袋をさげてかえってくる。「あら、そうだったかしら」とケロッとしている。「またいくなら、ついでに牛肉かってきてよ。今夜はスキヤキでビールのみたいな」。「わかったわ」ところが帰りがはやすぎる。「あっ、わすれた」自転車をとりにいっただけで、悠然と帰宅したものだ。
「おれの顔だけは忘れないでな」そんなジョークで締めくくり、まいにち平穏に仲睦まじくすごしてきた。
 ところが、さいきんではどうもジョークもいえない心境にわたしは至っている。
 妻が若い時から物忘れがひどかったので気付くのがおそかった。娘たちにも、ときおり電話ではこぼしていた。「お母さんはむかしからよ。お父さんの心配し過ぎよ」という返事がいつも、もどってくるので、それもそうだなと思ってきた。
 おれの顔は、忘れないでよ、などとジョークをいってきたが「あなたいつからそんなに白髪になったの。お幾つですか」などと真面目な表情で聞かれると不安になってくる。「あなたいつからわたしのそばにいるのですか。だぁれ?」なんて聞かれたらどうしよう。そうした日が間近に迫っているようで心細い。隣家の老婆は嫁にきておそらく70年ちかくなるのだろうが、わたしの家はここではない。と毎日いいつづけているらしい。自分の実家の記憶はあるのに、嫁にきてからの記憶がぜんぶ消えてしまっているのだろう。それでも、毎夕、同じ時間に『夕焼け小焼けの赤とんぼ』と哀調ある調べをさいごまで歌っている。
 老いるとは寂しくも不安なものだ。とくに男よりも美意識の強い女性にとってはそうであるらしい。
 こうした痴呆への、関心と、わたしと妻のどちらかにそれが始まったらどうしょうという不安は、さいきんとみに知り合いの訃報に接するようになったからだ。そのなん%かは痴呆による死である。痴呆になったからすぐ死ぬというわけではない。家族がいやがって痴呆老人となった親を特別養護老人ホームに入れてしまうからである。お金はだすが、痴呆になった親の面倒をみるのはイヤだという子供がおおいい証拠である。わたしなどは、30年間病気の父母の世話をした。しかしあのころからそろそろ家族が年老いた父母の面倒をみるのを嫌がり始めていたような気がする。
 できることなら、子供たちに、負担をかけずポックリと死にたいという会話を公園のベンチでよく聞く。寂しいものだ。寂しいと同時に恐怖すら感じる。
 老人ホームでの生活。周りにだれもしっているひとがいない。清潔なべットに寝起きしているからしあわせだなどとだれがいうのだ。

 今朝もわがやのトイレにはクラゲが浮かんでいた。
                                 未発表。


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くたびれて

2008-03-28 03:29:44 | Weblog
3月28日 金曜日
くたびれて (随筆)
春の埃っぽい風が、いく日も吹いた。大気のなかに塵の微粒子がふくまれて、眼がちくちくする。そして、いつもの年のように小糠雨が人としれずふりだしていた。
 わが家の大谷石の塀の上で、藤の花が咲きだした。生まれつき不器用にして怠け者。藤棚などつくれるはずもない。鋸や金槌や釘など手にする気もないのに、日曜大工を推奨する店「カンセキ」に行くと、おかしなことだが、その気になる。既製品の藤棚は展示即売されている。だがそのうちに、独創的な藤棚作りに挑戦する、などといって妻をよろこばせている。
 花は石塀の上でゆったりと垂れ、咲くとともに長く大きくなってこそ風情がある。
 垂れ下がることのできない花房は、淡紫のままで朽ちてしまう。それがどうしたことか、庭に面した側に伸びた枝に、今年は一房だけ花が咲いた。
 芭蕉の「草臥て宿かる此や藤の花」に因み……。春たけなわ。濃い藤色にかわり、みごとに垂れ下がる大輪の花房をながめる。わが身を能のワキ僧とみなし、暮れいく狭い庭をいきつもどりつ……とぼとぼあるいて春愁の情にひたっているうちに……目がつかれた。めがねをはずし、目頭をおさえた。藤の花に目を転じた。視界がきえていた。
「失明したぞ」と、おもわず妻によびかけていた。一瞬脳裏にうかんだのは、行き暮れて民家に宿を乞うワキ僧のすがたではなかった。杖をついた座頭市だった。わが風流もこれだけのものかと慙き。
 白内障。東京女子医大の眼科でくだされた診断だった。右目はひどい。ものの形をみきわめることができなかった。目頭をおさえたときに、左目を無意識につぶってしまったので、ふいになにもみえなくなったと錯覚したのだった。
 庭木の花々の季節もすぎ、インパチエンスが咲きだした六月末に入院した。わたしは生涯かけて白い紙の升目に文字をならべていく作業をつづけてきた。それがワープロに、筆記具からキーをたたくことにかわっただけで、文字をつらねることは、かわりない。文字のひとつひとつは、わたしの血の一滴々々なのだという、極めつけ古い思いにとらわれている。だから、わたしにとって目がみえなくなるかもしれないということは、死の恐怖をともなうものであった。
 大袈裟すぎると妻にしかられたが、それがいつわらざる心情だった。病院という近代的な建造物。事務はコンピューター。電脳空間にはりめぐされたネットにとらわれた昆虫のように身動きもならず、規則正しい生活をしいられた。幽閉の時。手術までの不安な時がながれていく。いくらでも時間があるから、天井をみあげながら絶望的に不運な自分の作家としての来し方をおもったりして過ごした。
 右白内障超音波乳化吸引術及びレンズ挿入術を受けて退院したのは一週間後だった。帰りの車窓からみると緑に光る関東平野が展望できた。遥か彼方の林の群葉。利根川の緑の土堤。田植えもすみ青田波が光っている。稲のやわらかな葉のさきがとがって光の雫をたたえたような小波をたてている。
 美しかった。緑が眩しい。光がよみがえった。風景に立体感がもどってきた。
 茅舎では花はすぎてしまったが、葉脈の透いてみえる藤の若葉や石塀一面においしげった青ツタの葉がそよ吹く風にひるがえって、わたしを迎えてくれた。薔薇の棘のさきまでよくみえる。明るい。……書斎にすわった。視力も回復したことであり、モノ書きとしてのわたしも心をこめて文体をつづっていこう。ハタと庭の緑に目をすえた。
 ところが、口をついてでたのは……。「おい、退院後の注意書きがみあたらないぞ」と台所でいそいそと食事の用意をしている妻に呼び掛けた。女子医大だからノンベイはいないのだろう。お酒は一、二杯いいでしょうと書いてあった。これは猪口でと解すべきか。グラスかな?
 むろん前者であろう。医者のいうことも妻の警告もきくわけのないわたしに、なみなみとグラスにつがれた冷酒がわたされた。まず芳醇な匂いをかぐ。それからおそるおそるおちょぼこ口で一杯、二杯ていど啜った……というのはうそだ。
 光のよみがえった目が酔眼朦朧、妻がひさしぶりのわたしの帰還をよろこんでいのか、酒飲みの亭主にあきれはてているのか、みてとることはできなかった。
 老境。これを機に、くたびれたモノ書きに一条の光が差しますように、などと神妙なことはねがわない。百歳まで生きたら無制限に飲む。
 酔生夢死、酔いのうちに藤の花咲くわが家から旅立ちたい。

 
                     平成13年 随筆手帳39号より転載
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気分は流行作家

2008-03-27 09:51:13 | Weblog
3月27日 木曜日
気分は流行作家 (随筆)
 いつの頃から便所をトイレと呼ぶように、わが家ではなったのだろうか。
 おもいだせない。
 ぼくは神経質なので、いまでもむかしの便所の夢をみる。世に言う縦穴式。底のほうは暗く、そのつど地球の引力のお世話になるあれである。
 たまらなくていいものが、うずたかく累積しその上に屋上屋を架するといった行為をある朝しょうとするとできない。いっぱいなのだ。
 ぼくは、鹿沼市にながいこと住んでいる。なにかと迷惑をおけているのに申し訳ないが、行政がおそまつである。いくら頼んでも汲み取りにきてもらえないで困ったときの体験が、いまでも夢にでるのである。かれこれ、十五年も前のことである。
 いまでは、水洗になっているから、心配はない。むかしのことを、よく覚えていてあれこれ言われたくはないだろう。偏屈ものの三文文士など、おらが町には住んでもらいたくない。と叱られそうだ。
 水洗になったときはうれしかった。
 白い便座のなかを流れる水音が、深山幽谷を流れる谷川のせせらぎのように聞こえたものだった。
 鹿沼市の名誉のために書きくわえておけば、地方都市としては、下水道の完備は全国的にみてもはやいほうだった。
 ところで、わずか四坪ほどであるが、芯縄の仕事場をこわした。家業である「麻屋」をよした。おそらく五百年くらいつづけてきた家業で、同業者がほとんどいない商売なのだが、それでも赤字である。ご先祖様には許していただくとして、ともかく廃業した。ぼくだけでも、四十年やってきた仕事だ。廃業した当初はただぼんやりと仕事場に椅子をもちだして座っていた。仕事場のあとにトイレと浴室と洗たく場を増築した。
 トイレはいつもの悪い癖だ。先々のことまで考慮にいれた。「麻屋」をよしたことで、時間の余裕もだいぶできた。よし、これからおおいにがんばって、小説を書こう。月産二百枚くらいは楽にこなさなければ。中年パワーをみせてやる。となると、人気がでる。原稿依頼が殺到する。坐業がつづく。ついにジになる。紙をつかうにも痛む。痛みには、ぼくは弱い。年をとったら、いまよりももっとがまんできなくなるだろう。まあ、そんなことは起きないだろうが。いや、原稿依頼は起こったほうがいい。トイレは、TOTO製ウォッシュレットGⅢTCF420にした。
 おしり洗浄。ビデ。乾燥機能。などが具備している。
 水勢調節までついているので、七つもブッシボタンがある。 
 広さも猫のミューとムックがかけまわれるほどだ。
 妻は観葉植物の鉢をもちこんだ。ぼくはそのうちWプロと机をもちこみ便座に座って仕事をしてみようかな。
 風呂場の浴槽は、いままでの立棺をおもわせる木製の純日本式から、洋式にした。ながながと寝そべるようにして、あたたまることができる。
 風呂ぎらいだ。妻に強要されないかと、何日でも入浴しなかった。そのせぼくが、なんと日に二度もはいるしまつだ。
 それにしても、今年の夏の気候はおかしかった。仕事の内容もかわった。座ったままで過ごす時間がながくなった。そのためでもあろうか。ぎっくり腰になった。この痛みは、経験したひとでないとわからない。あまり理解されないほうがいい。できれば、こんな苦痛は経験しないに越したことはない。
 さつそく、トイレと浴室の恩恵にあずかった。家業をやめたバチがあたつたのかもしれない。運動不足。筋肉が弱った。そこへきてこの長雨である。家の中でごろごろしていた。それが、腰を痛める原因となったのだろう。クーラーも悪い。湿度が高く蒸し暑い。一日中かけっ放しにしておいた。
 和式のトイレだとかがむので苦痛だったはずだ。洋式にしたので便座にでんとふんぞりかえっていられた。前にかがまないかぎり、痛まない。おしり洗浄のボタンを押す。乾燥ボタンを押す。あとはよきにはからえ。と殿様気分でいられた。
 湯船にながながとねそべって、窓外の庭の杏や黒竹、白モクレンを眺めた。流行作家にでもなった気分で長編小説の構想をねる。ぼくとしては、痛みと同居ではあるが、めずらしくゆったりりとした時間を過ごせた。
 じっは雨垂作家、ぽつんぽつんとしか稿料ははいってこない。この水洗のようにどっと勢いいい流れ、奔流となって原稿依頼がこないものか。とさもしいことをねがっていたのが現実だ。
 来年も杏はなるかな。
 竹は株をふやすかな。
 モクレンは咲くかな。
 となりの洗たく場の妻に、大声で話しかけた。
 洗濯機の音に負けずに妻がなにか応えている。
                     昭和63年 全作家24号より転載。


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九年母

2008-03-26 15:40:55 | Weblog
3月26日 水曜日
九年母(随筆) 
「くよくよするなくねんぼ(九年母)、どうせ蜜柑にゃなりはせぬ」
 子供のころ母の背で聞いた歌である。
 諦観にねざした歌詞なのだろう。……母はむしろ哀感に満ちた歌として口ずさんでいた。
 鹿沼に越してきた父と母は、それまで住んでいた栃木とはちがい、いまでいうカルチャー・ショックに悩まされていた。
 栃木は関東平野にひらけた商業都市。関東の大阪ともいわれる活気に満ちた商人町。
 この町は建具職人の町。関東平野の極み、背後は日光連山に遮断された、どん詰まり。
 暗い街だ。
 大麻の売買を商売にしていた生粋の商人の家族には住みにくい町だった。栃木では、お金は貯めるもの。職人街では使うもの。
 その風潮はいまもかわらない。
 どちらがいいとか悪いということではない。生活意識の問題なのだろう。浜口内閣の金解禁のあおりをくって倒産。結婚以来の蓄財をきれいにはたいてしまった両親の無念をときおり思い起こす。
「くよくよするな九年母、どうせ蜜柑にゃなりはせぬ」と母が口ずさむ。木枯らしの伴奏がよく似合う。母の背できいた言葉は、すべて男体颪の吹きすさぶ風景の中であった。
 両親が鹿沼に越してきたときの年齢の倍は、私はすでに生きている。だが、同じように、時流にのれずにいる身にとっては、「くよくよするな……」という慈母の声が耳元に響きつづけているのである。
「正一ね、……九年母はね……蜜柑になりたかったんだよ。でもね、くねんぼうはくねんぼうなのだよ……。蜜柑にはなれないものね……」
 母は泣いていたのではないか、と想う。
 苦労がたたって病に伏して二十有余年。
 死ぬまぎわになって、医者になりたくて宇都宮の病院に看護婦として勤務したことがあったことを告白された。
 私はすべてを悟った思いだった。母の願いは医者になることであった。明治時代のことである。想像を絶する苦労があったであろう。
そして挫折。
見合い結婚。
「結婚してまもなくね、戸籍調べのお巡りさんがきたの。ご主人の名前は……そう聞かれてしらなかったの。おもいだせなくて、あんなに……はずかしかったのは……」
 そういう結婚もあったのだろう。
 それから、生まれ故郷を後にしての転居。
「くよくよするな……」という言葉になる。
 こうした母に育てられた。母には苦労をかけたくなかった。私のことでは後悔させるわけにはいかなかった。
 文学より母に孝養をつくすことのほうが大切だった。東京での生活を諦めた。この町にもどる車窓から利根川をみながら「どうせ蜜柑にゃなりはせぬ。どうせ蜜柑になりゃせぬ」と口ずさんだ。不思議とさわやかな感傷がわいた。涙が滂沱とほほをつたった。家業の麻屋をよして、小説家になる。などと嘯いて上京だった。
 故郷にもどってから生活はつらかった。なにしろ、老人医療が有料の時代である。医療費を稼ぐために夫婦で必死になって働いた。三十年がうたかたのごとく過ぎてしまった。
母はすまないね。すまないね。死んできまりがつくものなら、武士の娘だから自害の作法は教えられているのだけど、それではこの家の家系に傷がつくからね。とよく口癖のようにいっていた。
死ぬまで恵まれた生活のできなかった母だった。
 
 私の二人の娘たちは結婚した。息子は独立して埼玉にいる。私は仏壇の間に寝起きしている。外で木枯らしが吹きすさぶと、母の「くよくよするな九年母、どうせ蜜柑にゃなりはせぬ」という声が、細々とながれてくるような気がする。
 同人誌の仲間は、私が故郷で生活にあくせくしている間に、それぞれ精進して作家になっている。
「おかあさん。ぼくはまだ蜜柑になる夢をすてたわけではないんだ。どうだろうね……おかあさん、くよくよしているわけではないんだけど、蜜柑になる夢をみつづけていいかな」
 母の返事はない。

 注。検索したら、九年母は蜜柑より大きく、甘いとあった。母が育った明治時代はそうではなかったのだろう。

                     平成9年 随筆手帳35号より転載。

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ハンバーグ

2008-03-25 19:47:53 | Weblog
3月25日 火曜日
ハンバーグ (随筆)
●ひょんなことから、ささやかなレストランを経営することになった。厨房の仕事は、まったく外界から閉鎖された状況の中で、火と油と食材を使っておこなう無言劇に似ている。
調理人は自分だけが隔離された囚われ人のような孤立感とたたかいながら、いかに迅速に注文品を調理するかということに没頭する。
調理人は<味>をとおして客と会話をかわしているのだ。
●この春、娘の大学入試で東上線の朝霞台に行った。駅前のレストランに入った。一階は、喫茶専門で、二階には厨房もあるらしい。コーヒーを飲むはずだった。急きょハンバーグを食べてみることにした。ロココ風の階段をあがった。
●肉を焼くにおいがする。ピタピタとなにかたたくような音がする。やってるなと思った。挽肉と玉葱のみじん切り、卵、パン粉に調味料をまぜてこねあわせる。ひとつかみとって計量。手のひらで長方形に成型しているのだ。
●「手作りだからおいしいぞ」と、娘にいった。レストランをはじめる前だったら、この音をきいてもなんの感慨もおこさなかったろう。知識や経験がないと、それがなにをしている音か理解できなかったろう。
●いま、レストランの食材は、冷凍食品が圧倒的に多い。客をまたせずにすむ。均一品をすばやく食卓に提供できる。この便利さにはかなわない。いくら手作りの味を強調しても田舎町では認めてもらえない。
●だが、これではハンバークの作り方にしても、見習コックはこね具合も手のひらでのばすコツも覚えられない。
●年期のはいったコックの場合はどうか。機械で成型されている。冷凍品だ。寸分たがわぬ形状を恨めしく眺めながら解凍し、鉄パンにのせる。腕のふるいようがない。
●たまには、解凍がうまくいかず、凍ったままのハンバーグが出されたりする。解凍コック。いや、コックさんが悪いわけではない。速くだす。安くあげる。利益を重視する。商業原理が先だつ世の中になったからだ。
●ぼくらの店「ソラリス」では、仕込みは夜になる。田舎町なので9時になると客がとだえる。店長兼コックの川澄さんの大きな手でみるまにこねあげられ、手のひらで成型されていく挽肉の塊。ぼくも真似してみた。冬のことで、手が冷たさにかじかんだ。小判形にのばすときに、どうしても周りがわれてしまう。
●なかなかむずかしいものだ。中央をおしてくぼませる。縁がもりあがったようにする。なんど教えられても、上手くいかない。しかたなく、ダンゴに丸めなおす。中の空気をぬくように手のひらにピタピタとたたきつけることからはじめる。
●あまり肉が手についてしまう。サラダ油をつける。こんなことをくりかえしながら、いままでに、いくつハンバーグをつくったろうか。
●あくまでも、手作りの味を守りぬく方針だ。近所に競合店ができた。「ここはどうして注文したものがすぐでないのだ」と客にしかられる。悲しくなる。速くだす方法はある。そのためには、味が低下する。ほとんど冷凍品を使わなければならない。それはしたくない。
●レストランの食事がどこで食べてもおなじようになってきた。手作りを主張していたのでは人件費が高くつく。商売がそれではなりたたないからだ。
●お店がはねてから、よく店長と女房とぼくで花寿司にでかけた。ぼくはまだ、皿洗いとハンバーグこねくらいしかできない。座業で原稿書きばかりしている体には、厨房で働くことが健康法につながる。花寿司の主人は職人気質のひとで、気にくわないと客とも口をきかない。鹿沼の土地柄について悪口も平気でいう。それがたまらない魅力にもなっている。かみさんが、乳飲み子をかかえて奥から出てくる。商売のつらさなどについて、ぼくの女房とお喋りをはじめている。
●まったくぼくの知らない世界であった。飲食業にたずさわるひとたちの苦労がよくわかった。連帯を感じた。
●ところが。東京からG寿司が進出してきた。回転寿司だ。花寿司のすぐ前だ。従業員が8名もいるという。
●どうも花寿司さんがあぶないらしい。そんな噂が流れた。それまで、月に二回くらいしかいかなかったのに、毎週顔を出すようにした。ぼくらがいったくらいでは、どうということもなかったのだろうが、競合店が近所にできたときの不安は、ぼくが一番よく知っている。売り上げが減る。客がほかのみせに移る。寂しいものだ。
●「あんなのは、寿司じゃありませんゃ」
ぼくがきいた最後の言葉となった。花寿司は居抜で売りにでている。まだ買い手はつかない。今市のほうが奥さんの実家で、そちらに越したという。ぼくはときどき夜更けにハンバークこねで疲れた手をふりながら、花寿司の前まで散歩する。セロテープでとめられた「売り店」という紙が夜風にひるがえっている。パタパタと音をたてている。
●バタリー鶏舎のようだ。首をならべた客の前に皿のまわってくる回転寿司は今夜も満席である。
                      昭和58年 全作家14号より転載。
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冷蔵庫

2008-03-24 23:12:06 | Weblog
3月24日 月曜日
冷蔵庫 (随筆)
 秋雨がふりだした。
庭に運びだしておいた冷蔵庫がぬれていた。台所にあって機能をはたしているときとはちがう。電源をぬかれ、廃品――粗大ゴミとして庭の隅にぽつんと置いてある冷蔵庫にはうらさびたやるせない風情がある。
この冷蔵庫は父の死後購入したものだから、十五年もお世話になったことになる。
父の逝ったのは、夏の盛りだった。
葬式の様相は地域によって異なるだろう。わたしの住む町では、葬儀の準備から埋葬までの一切は、喪家とその血縁にあたるものは手も口もださず、すべてを組内の人にまかせる。埋葬がすんで墓地からもどると、喪主が「なにもありませんが、供養(食よう)とおもってめしあがってください」口上をのべる。
 仕上げの膳、がはこばれてくる。
 組内のひとたちの合力協助にたいする感謝の気持ちとしての膳である。喪主やその親族がこんどは接待役となる。
「仕上げの膳にだすビール、どうやって冷やすの」
 妻がうらみがましい眼差しで、わたしに訴えかけた。そのとき、わが家には冷蔵庫がなかったのである。
 貧しかったわけではない。老人医療費の負担が現在とは比べられないほど重かった。十日ごとに正確にやってくる支払いが、十万円くらいだったと記憶している。収入はあったが、医療費と病人に付き添ってくれている家政婦への支払をすませると……生活費はあまりのこらなかった。やはり貧しかったのだろう。
「お茶箱にドライアイスをつめて冷やそう」
 この着想はわたしのものだった。お茶箱は、衣類をつめても内側に錫箔がはってあるので、湿気をよせつけない。押入れにはいっていた茶箱をとりだす。衣類を空ける。夏のことで父の遺体が腐食しないように宇都宮からとりよせたドライアイスがまだ台所にあった。死体を冷やすドライアイスで、ビールを冷やすなどという奇想は常識のあるもののなすことではあるまい。
 ビールはかなり冷えた。
 かなり冷えたどころではなかった。凍ってしまい王冠の部分が破裂する瓶もでるほどであった。薄暗い台所でお茶箱からたちのぼるドライアイスの白煙をわたしと妻はただ黙ってみつめていた。
 葬儀はとどこおりなくすんだ。ただ妻だけは、小柄な体をさらに畏縮させていた。しょぼんとしていた。
 まだ冷蔵庫がなかったのですか。と裏のHさんにいわれたというのだ。
 冷蔵庫はその後、ほどなく買った。薄汚れた台所に純白の冷蔵庫が置かれただけでそのまわりが、なにかはれがましくなった。妻はよほどうれしかったのか冷蔵庫の扉といわず側面まで毎日たんねんに、からぶきしていた。
 その冷蔵庫がいま庭の片隅に置いてある。
「ながいあいだおつとめごくろうさんでした」
 と、わたしはおどけて仁義をきって、それを台所からはこびだしたのだった。
 おどけてはいたが、この十五年でわが家も社会もずいぶんとかわったものだと感懐ひとしおである。
 父の逝った年に生まれた次女は高校一年生、長女は大学を卒業して就職。六年生になった長男は祖父の顔を知らない。西早稲田の鶴巻町に長女と住んでいる。
 妻は鶴巻町と鹿沼のあいだを毎週往復して、すっかり教育ママになっている。
 冷蔵庫にも変遷があった。わが家で純白の東芝GR-80TCを買ったあとでカラーブームがおき、ピンクやライトグリーンのものが市場を制覇した。ふたたび白にいまはおちついているらしい。冷凍室もひろくなっている。
そして、新品の冷蔵庫はおなじ白でも、青味がかった光りをおびコーテングの技術革新をみることができる。
 そして、さらに流通革命である。秋葉原で購入した電気製品が関東一円、無料配達つきなのである。値段も地方の電気屋さんからもとめるのとは比較にならないほど割引してくれた。
 調子づいた妻は、東京のマンションとわが家のほうと二台いっぺんに、わたしにことわることもなく買ってしまった。
「家へは左扉。東京のほうは右扉なのよ」
 と、事後承諾ということである。ビールどうやって冷やすの、といった妻の困惑した顔に、はればれとしたいまの妻の顔がダブっている。妻の顔がかすんでみえるのは、中年になってわたしの涙腺がゆるみやすくなったためだろう。
 妻と肩を寄せ合って眺める庭の冷蔵庫はあいかわらず雨にうたれている。
 夕闇がせまっている。
 冷蔵庫のある周辺だけがぼうっと白くみえる。
 粗大ゴミの収集日までそこにありつづけるだろう。
                      昭和60年 全作家18号より転載。

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雪の夜

2008-03-23 14:03:45 | Weblog
3月23日 日曜日
雪の夜 (随筆)
 雪になった。
 降り積もっているのだろうか。
 まったく無音の世界である。これが雨であったら古いトタン屋根をうつ雨音に悩まされるのだが、雪にはなんの気配もない。なんの気配もなく、音が途絶えているから、かえって、ああ雪になったのだ、とわかるようなものである。そこがおもしろい。 
 わが家のトタン屋根は古い。60年は経っている。ウネトタンの、かなり厚い番手のものだそうだ。いまは既に製造していない厚さ のものだ。2年おきにコールタールを塗りにきてくれる職人が「こんな分厚い、ごついトタン屋根はいまいまどきありませんぜ」とくるたびに感嘆の吐息をもらす。
 消費は美徳という考えが一世を風靡した。厚すぎてながもちするトタンなど製造するはずがない。裏庭に増築した塾の屋根などもういたんでいる。
……母屋のほうでトタンをひっかく音がした。
つづいて、擦過音。
わが家の放蕩息子、夜遊びにでていた雄猫のムックがご帰還になったのだ。雪にすべったのだろう。「ニヤッ」というなきごえが、かすかに伝わってくる。そしてもとの静寂。
いや、ムックの帰宅の気配を感じ取った後だ。前にもまして田舎町の雪の夜の静けさが身にしみる。
寝床でねがえりをして……うとうとしてしまった。
熟年? になってから、寝床にもぐりこんでもすぐにはねつかれない。うとうとゆめうつつの状態がながくつづく。夜中になんどもめざめてしまう。
まくらもとに菊地秀行などの本をうずたかく積んでおく。夜半にめざめてしまつたときは、手をのばして最初にふれたものを読むことにしている。ところが、若手の作家の語り口はなかなかのものである。ついつい夜明けまで読んでしまう。
ムックのなきごえが……している。玄関の外だ。
まえからないていたのだろう。うとうとしていて気づかなかった。
二日も家を空けて、とおこってみてもはじまらない。恋のあいてをもとめて夜っぴてさまよっていたのだよな。かわいそうになってしまう。野良猫がこのあたりにもすくなくなった。
ポリ容器やビニールぶくろでごみをだすようになった。それにいまの家の建築様式では、台所にもしのびこめない。例えうまくしのびんでも、逃げるのに苦労する。おこりっぽくなっている若い主婦につかまったら、ねこの運命は!
恋をするにも雌ねこがいない。雄ねこムックが青春を生きるには、周囲の環境はあまりにきびしい。幾夜もさまよいあるくことになる。
恋人? をもとめテリトリーからでる危険もおかす。傷だらけになる。オシッコをひっかけてあるいているらしい。このマーキングの癖を家に帰ってもやらかす。尻尾をピピッとやって、ところかまわずオシッコをひっかける。
西早稲田から帰宅するワイフはくさいくさいと大騒ぎである。あまりこの臭気は気にしないようにしていたのに。ぼくにまで臭いが鼻についてしまう。いくらねこずきでもあまりありがたくない臭いだ。
ムックの呼び声はきこえていた。起きるのは億劫だった。ためらっていた。離れのガラス窓が開く。静かな音だ。
「ムック」と受験勉強でまだがんばっていた娘の声がする。音をたてないように静かに窓を開けた。ご近所に迷惑をかけまいとする心くばりがうれしい。
 ムックが台所に入ってくる気配がする。
「なんだ、パパも起きていたの」
 いつものように恋やつれ。疲労憔悴。それでもムックは体をすりよせてきた。おなかの肉がげっそりとおちている。
「だいじょうぶよね」と娘。
「ああ、ねこだからすこし古くなっていても……」
 銀食器に盛ったままになっていたキャット・フードのことをいっているのだ。ムックがからだをブルッとふるわせる。体毛についた雪がとけていた。あたりにとびちる。前足を交互にぐっとのばす。背中をなべ底のようにそらせる。一瞬開いた口はまさに獣のものだ。銀食器にちかよる。飢えていたのだろう。わき目もふらずたべはじめた。
 カーテンを開いてみる。闇に雪がまっていた。虚空からとめどもなく降りしきる雪に、もちの木やツバキの枝がすでにたわんでいた。見つめていると脳裏に明日の雪の景色がひろがる。
「あしたは、自転車にのれないわね」
 娘は娘でべつのことをかんがえていた。
「もう、ねるといいぞ」
 それで言葉はとぎれてしまう。
 雪はさらにつよくなった。窓のそとは吹雪いている。 
 たてつけのわるい雨戸が音をたてている。娘が大学にはいってしまうと、来年の雪を独りでのこされたぼくは、どんな気持ちでみることになるのだろうか。
                     昭和62年 全作家21号より転載。

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