3月30日 月曜日
俳句の周辺 「月刊万葉 1997, 8, 1」
梅雨寒や粗食の膳に妻とあり
また梅雨の季節がめぐってきた。子育てがすんでからというもの、毎年同じょうな日常をくりかえしている。
五月晴れの陽射しの強い日、掘りごたつの掛布団が暑苦しいというので、とってしまった。二階のベランダまで頭にのせて持ち上げるのぼくの役目だ。ともかくふつうの布団の倍も大きい。八人は入れる横幅が二メトールはある炬燵だ。華奢な妻にかわって、日向に干す。
「猫の毛がいっぱいついているわ」
「抜け毛の季節だからな」
こんな会話がはずむのも、毎年のことだ。
「すこし早く炬燵止めすぎたかしら」
「鬱っとおしい、なに食べる気がしない」
「でも、なにか食べるだけは……」
「なにも食べないですめば」
「そうはいかないわ」
ありあわせの食事となる。子どもたちも三人とも上京してもういない。二人だけの食卓は寂しいかぎりだ。箱根卯月の花がもうすっかり散ってしまった。日当たりの悪い庭なので、ようやく紫陽花の花が咲きだした。今日も鹿沼は雨。
夜桜や呼び鈴を押すさびしさよ
ずいぶんと昔の句だ。学が小学生。長女は就職。次女は大学生。妻はよく早稲田のマンションにでかけていった。桜の季節に、独り夜桜でも見ようとでかけたのはいいが、生来の怠け者。花より惰眠をむさぼりたくなる。途中で引き返してくる。
何気なく、玄関の呼び鈴を押していた。
かすかに、誰もいない家の中で音がしている。
なんども押した。桜の花びらが我が家の庭にさっと花吹雪となって、舞い込んできた。指先とまった。花弁が愛おしい。呼び鈴を押すことで、押しつぶすには忍びない。呼び鈴の余韻がコダマしている。一片の桜を手に載せて部屋に入る。
あのときは、この句を得意がっていたが、一茶に「南天よ炬燵やぐらよさびしさよ」という同じような手法の句があるのを知ったいまでは複雑な思いだ。
涙せよ寒林虚空煙消ゆ
涙滂沱寒林虚空煙うすし
青く冷え義母煙となりぬ寒林虚空
紅葉の葉義母の煙と溶けて舞う
こういう句を詠もうとする時である。独りで楽しみながら句作に励んでいる境涯が恨めしくなる。素人の悲しさ、師も句友もなく、どうにも俳句にならないのだ。手練れであったなら、どんな句づくりをするだろうか。
昨年の十二月一日に妻の母がなくなった。黒髪颪の吹きすさぶ寒い日だった。
夕暮れ義母は焼却炉におくりこまれた。小柄であった。死のまぎわには三十キロくらいに痩せて細っていた。
煙も薄く、風にとばされ、瞬く間に消えてしまった。妻とぼくはただ黙って空をみあげていた。妻の眼に涙が溢れていた。
●書棚を整理していたところ、黒田さんが出していた豆新聞「月刊万葉」がひらひらとおちてきた。わたしのエッセイがのっていたので再録してみました。
麻屋与志夫の小説は下記のカクヨムのサイトで読むことができます。どうぞご訪問ください。
カクヨムサイトはこちら
今日も遊びに来てくれてありがとうございます。
お帰りに下のバナーを押してくださると…活力になります。
皆さんの応援でがんばっています。
こちらから 「アサヤ塾の窓から」へ
俳句の周辺 「月刊万葉 1997, 8, 1」
梅雨寒や粗食の膳に妻とあり
また梅雨の季節がめぐってきた。子育てがすんでからというもの、毎年同じょうな日常をくりかえしている。
五月晴れの陽射しの強い日、掘りごたつの掛布団が暑苦しいというので、とってしまった。二階のベランダまで頭にのせて持ち上げるのぼくの役目だ。ともかくふつうの布団の倍も大きい。八人は入れる横幅が二メトールはある炬燵だ。華奢な妻にかわって、日向に干す。
「猫の毛がいっぱいついているわ」
「抜け毛の季節だからな」
こんな会話がはずむのも、毎年のことだ。
「すこし早く炬燵止めすぎたかしら」
「鬱っとおしい、なに食べる気がしない」
「でも、なにか食べるだけは……」
「なにも食べないですめば」
「そうはいかないわ」
ありあわせの食事となる。子どもたちも三人とも上京してもういない。二人だけの食卓は寂しいかぎりだ。箱根卯月の花がもうすっかり散ってしまった。日当たりの悪い庭なので、ようやく紫陽花の花が咲きだした。今日も鹿沼は雨。
夜桜や呼び鈴を押すさびしさよ
ずいぶんと昔の句だ。学が小学生。長女は就職。次女は大学生。妻はよく早稲田のマンションにでかけていった。桜の季節に、独り夜桜でも見ようとでかけたのはいいが、生来の怠け者。花より惰眠をむさぼりたくなる。途中で引き返してくる。
何気なく、玄関の呼び鈴を押していた。
かすかに、誰もいない家の中で音がしている。
なんども押した。桜の花びらが我が家の庭にさっと花吹雪となって、舞い込んできた。指先とまった。花弁が愛おしい。呼び鈴を押すことで、押しつぶすには忍びない。呼び鈴の余韻がコダマしている。一片の桜を手に載せて部屋に入る。
あのときは、この句を得意がっていたが、一茶に「南天よ炬燵やぐらよさびしさよ」という同じような手法の句があるのを知ったいまでは複雑な思いだ。
涙せよ寒林虚空煙消ゆ
涙滂沱寒林虚空煙うすし
青く冷え義母煙となりぬ寒林虚空
紅葉の葉義母の煙と溶けて舞う
こういう句を詠もうとする時である。独りで楽しみながら句作に励んでいる境涯が恨めしくなる。素人の悲しさ、師も句友もなく、どうにも俳句にならないのだ。手練れであったなら、どんな句づくりをするだろうか。
昨年の十二月一日に妻の母がなくなった。黒髪颪の吹きすさぶ寒い日だった。
夕暮れ義母は焼却炉におくりこまれた。小柄であった。死のまぎわには三十キロくらいに痩せて細っていた。
煙も薄く、風にとばされ、瞬く間に消えてしまった。妻とぼくはただ黙って空をみあげていた。妻の眼に涙が溢れていた。
●書棚を整理していたところ、黒田さんが出していた豆新聞「月刊万葉」がひらひらとおちてきた。わたしのエッセイがのっていたので再録してみました。
麻屋与志夫の小説は下記のカクヨムのサイトで読むことができます。どうぞご訪問ください。
カクヨムサイトはこちら
今日も遊びに来てくれてありがとうございます。
お帰りに下のバナーを押してくださると…活力になります。
皆さんの応援でがんばっています。
こちらから 「アサヤ塾の窓から」へ