田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

春の食卓 麻屋与志夫

2020-02-18 09:05:36 | ブログ
2月18日 火曜日

●レースのカーテンに濾されたやわらかな春のひざしが枕元にさしこんでいた。すこしねすごしたが、このほのぼのとした日の光をたのしんでいるとルナもおきだして、アーチをつくりながながとあくびをしている。のどかな春の日のはじまりだ。なにかいいことがありそうなうきうきしたきぶんになる。しあわせは、なにもおおげさなことでかんじるわけてはない。

●この春のひざしをあびているだけでじゅうぶんたのしい。

●ルナが部屋から部屋へとびまわっている。猫ちゃんにも、この春のひざしのあたたかさ、あかるがわかるのだろう。

●こうしたありふれた平凡なひとときをあじわうことができるのも、わたしが年老いたからだろう。

●昨夜はF・ポール・ウィルスンの「ナイトワールド」の上巻きを読んだ。なんど読み返しても面白い。「ザ・キープ」にはじまるこの大長編六部作の掉尾を飾る傑作だ。もういちど「城塞」から読み直そうかな。最近、心に残っている小説を再読している。

●朝食をすませて、ブログを書きだしたところ、ルナが前足をキーボードにのせる。ルナも作家の猫だ。小説を書きたいのかな。

●のどかな春の朝。裏の山ではカラスがあくびでもするような鳴き声をげています。

   

   
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「山川異域 風月同天」 わたしは言葉の力を信じる 麻屋与志夫

2020-02-15 09:57:31 | ブログ
2月15日 土曜日

●新型肺炎をめぐりニュースが入り乱れている。
中国の新聞で――。
日本からの支援物資の箱に「山川異域 風月同天(場所は違っても、同じ自然を共有している)」という漢詩の一節が書かれていたことを紹介し、「無数の人々の琴線に触れた」とたたえた。この詩は奈良時代に天武天皇の孫、長屋王が唐の僧、鑑真を日本に招く際に贈ったとされる。

●恐怖をことさら書き立てたり、伝播させるようなニーュスのなかにあってすがすがしい記事だ。

●わたしは物書きなので、言葉の力を信じている。言葉に絶対的な信頼を置いている。

●再三書いてきたが「止まらない栃木県」という自虐的な標語。
効果がありました。
言葉の力をまざまざと具現してくれたこのスローガンに乾杯。
どなたの作品なのでしょうね。

●ベニマルに行く途中、二か所ほどシグナルのない横断歩道をわたります。
止ってくれる車が増えています。
うれしくなって、妻はていねいな会釈。
わたしは戦時中の習慣で感謝の敬礼、右手をコメカミのあたりまで上げて、止まってくれたドライバーの皆さんに感謝しています。

●もう0.9なんて言うことはありませんよ。

●塾の新学期。
「志望校に合格しなかったら、授業料はお返しします」
「入塾一月で、成績が30点アップ」

●でも、この言葉も威力を発揮しています。

●とてもわたしには、書けないコピーです。

●言葉に対する信頼感はすごいものですね。

●書きたくても、書けない言葉。
言いたくても、言えない言葉。

●ことしも生徒募集の季節。
塾の新学期は3月からです。

●わたしは、ただ沈黙。

●わが「アサヤ塾」はカチカチ山の泥船のようなものなのでしょうか。
しずかに歳月の流れのなかで、ブクブクと沈んでいくのでしょうか。

●小さな田舎町の夫婦だけでやっている小さな塾の行く手には光がさしそうにありません。  


   
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黒板が白い涙をこぼしている 麻屋与志夫

2020-02-10 11:50:57 | ブログ
2月10日 月曜日

●朝、教室に入っておどろいた。寒い。あわてて寒暖計をみてさらに驚いた。寒暖計が狂っているのではないかと疑った。

●2℃しかなかった。黒板には太く大きな文字がびっしりと書いてある。消し忘れていた。中2の特訓をしてそのままになっていた。

●筆圧があるので、一度消したくらいでは、チョークの粉が残っている。

●チョークの粉の粒子がスッと黒板を流れ落ちた。

●黒板が白い涙をこぼして泣いているようにみえた。

●ゴメンナ。いたらない教師でごめんな。でも、大勢の生徒で華やいでいたときもあるのだから、あのころがなっかしいよな。黒板に話しかけても、返事は戻って来ない。

●学校の先生方が、定年で退職してから――でも、GGは26年も余計に黒板の前に立っている。まさに円熟の授業をしていると、わたし的には思っているののだが……。

●世間は、まさにCMの時代。(commercial message)

●街に新しい葬儀社ができた。チラシ片手に販路拡張員が戸別訪問している。販路拡張なんて言葉おかしいですよね。なんと呼べはいいのかな。お客さんは親族に死なれた家ですものね。

●GGはほとんどテレビをつけません。カミさんがCMを見て、「これいただくわ」症候群が再発したらどうしょう。

●テレビが恐ろしくなっています。

●ひとはCMで操られている。怖い時代になったものだ。

●塾選びが、口コミではなく、チラシのうたい文句できまるなんて、おかしいですよね。


   
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「塾で教室を新築できるんけ」 麻屋与志夫

2020-02-08 11:45:40 | ブログ
2月8日 土曜日

●今日は午後から中三と中二の特訓がある。妻は中三の数学の授業を二階でやることになった。 しばらく使ってない教室なので掃除をしている。

●「よくこんな汚い教室にきてくれるわね」
とため息をもらしている。もちろんキレイに越したことはないが――。
ついに教室を新築することはできなかった。

●土建屋さんの子が生徒で来ていた。
「塾で教室が建てられるの」素朴な質問をされた。
洋品屋さんの子にいわれた。
「塾で銭になるんけ」返事に窮した。

●べつだん、「赤ひげ先生」をきどっているわけではない。
金銭には淡泊すぎたので、老後こんなに貧窮するとは思ってもみなかった。
なぜか、六十で寿命、とおもっていたふしがある。
いまでも、終活などという言葉はキライだ。
いのちがけで、小説をかきつづけて、ソの途中でパタリと死ぬ。
それでいいではないか。

●ただ心のこりなのは、こんなに頑張っっているのに、鹿沼の教育水準が低迷しているのを傍観していることしかできないことだ。

●せめて、塾に在籍している生徒だけでも、がんばって志望校にはいってもらいたい。
そのための特訓だ。

●これから この街はどうなっていくのだろう。

●妻は断捨離派。清潔好き。
わたしは ゴミ屋敷老人予備軍。

●机上が乱雑としているのは、まったく気にならない。
教室もまたしかり。

●彼女は、二階でまだ掃除をつづけている。

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寒い朝。ひとりボッチで考えたこと―― 麻屋与志夫

2020-02-07 07:55:38 | ブログ
2月7日 金曜日

●まだ、「止まらない栃木県0.9」にこだわっています。
わたしはながいこと、半世紀を超える期間――東京と鹿沼の地理上の空間だけではなく、心も二都物語ではないが、いったりきたりしています。故郷では村八分にあい、死ぬような苦しみを味わいました。東京にいる時はその苦しみがいやされました。ところ変われば、しなかわる。

●ひとにはそれぞれ住む環境や教養その他、諸々の事情によって考え方がちがうものだ。
ということを学びました。
平べったく言えば、寛容の心をゆったりと長いことかけて涵養することを学びました。
いまでは村八分にあってよかったとさえ思えるようになりました。

●当時の苦境に救いの手をのべてくれたのは、わかいお母さんたちでした。
鹿沼で初めての進学塾を始めたわたしの考えに同調してくれました。
「子供に最適の教育環境をあたえたい。進んで勉強する子に育てたい」

●英語は敵国語だから勉強させる必要がない。
という古い世代のひとたちの反対をおしきって子供の教育に情熱をそそいでくれました。

●いまや、わたしも年老い、腰こそ曲がりませんが足の痛みに耐えながら教壇にたっています。
そして私自身が学ばせてもらたことは「寛容」の二文字でした。

●前置きがながくなりました。だから0.9。止らない車に、腹も立ちません。腹は立てずに横に置き。ということばを繰り返しながら街角に佇んでいます。

●いそがしく行き来する車をみているのも、楽しいものです。なにをそんなにいそいでいるのだろう。

●「急がずば 濡れざらましを 旅人の 後より 晴れる 野路の村雨」
座右の銘としている大好きな道歌を舌頭にころがしながら佇んでいます。

●でもでもですよ。カミさんに早くまた原稿料稼いでよ!!!  と、嘆かれています。

●別段、この件に関しては、おちついているわけではありません。
こればかりは、運命みたいなものですからね、カムバック出来るできないは「前方から」やってくる。そう思っています。

●0.9の確率でしょかね。




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「止まらない車」のつづき。0.9――文化水準は??? 麻屋与志夫

2020-02-06 14:08:24 | ブログ
2月6日 木曜日

●今朝のブログに珍しく反響があったので、そのつづきです。

●栃木県の反対の県は長野県です。
インターネットで調べてみました。
止まってくれた車には、手を挙げて挨拶しましょうと長野県の某町では、小学生に教えているとあった。やはりなあ。そうなのだ。教育の問題なのだとうれしくなった。

●マテドクラセド止まってくれない車がとまってくれた。
わたしたちは、感謝の気持ちを必ず手を挙げて表している。
妻など最敬礼をすることもある。
老人性の膝関節症をわずらっているので信号機のあるところまで歩くのが辛い。
この辛さは、老人になってみないとわからないだろう。
あいかわらず、止まらない車がおおすぎる。

●長野県は日本でも昔から教育熱心な県だ。
隣組ごとに読書会があるとわたしが若い時にはいわれていた。
それに出版関係者には長野県人が多いと聞いている。
やはりなぁ。
とおもった。
教育なのだ。

●現在、読書クラブ。新聞部。演劇部。文芸部。英会話クラブetc。
文化部のある中学校のある話はあまりきかなくなった。

●これも0.9なんてことありませんよね。

●これらの疑問に応えられるような話し合いの場をぜひぜひ、もってください。

●七重の膝を八重に折っておねがいします。というのはレトリック上のことで、わたしはGG。ひざを折って座ることもできません。


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止まらない。0.9は警察の責任ではない 麻屋与志夫

2020-02-06 07:02:17 | ブログ
2月6日 木曜日

●なるほど、予報どおりだ。今朝は寒波到来。あまりありがたくはない。予報がいつものように、大げさすぎて、外れればよかったのに。かじかむ手でキーボードに向かう。

●暖房のスイッチを押しておいた。そのうちあたたかくなるだろう。足元の寒さ対策としては、最近覚えたのだが、毛布を巻きつける。マーメイド、人魚のようだ。
●もっとも、マーメイドは映画「スプラッシュ」その他諸々のマーメイドがでる映画でも美女ということになっている。GGのマーメイドなんて見たことも聞いたこともない。

●このところ大手の葬儀社が町に進出してきた。チラシ片手に、宣伝員が街をめぐっている。どんなきれいごとを並べても「葬儀はうちであげてください」ということだ。これではまるで「早く死んで葬式はバンタン当社に、どうぞ、どうぞ、お任せを……」ともみ手をしているようなものではないか。GGであるわたしは、なにか長生きしいるのが悪いような気がしてしまう。

●街にでてもあいかわらず、0.9。止まらない栃木県。自虐ネタのPRもむなしい。これではなんのために老後は静かに故郷の田舎町で、とおもってきたのに、失敗だったなんて、言わせないでくださいね。

●ベニマルまで買い物に行くのも命がけだ。

●正月に遊びに来てくれたA君に聞いた話だが――。某大手のデベロッパーが鹿沼に大型団地はどうかと市場調査をしたところ、あまりの教育水準の低さに、これでは都会の人は呼べないと、あきらめたというのだ。恥ずかしい。

●0.9は横断歩道で止まらない車という問題だけではない。この問題を警察当局だけに丸投げして責任をかぶせるなどということは笑止の至りだ。

●そうだ。そうなのですよね。賛成してください。すべては教育の問題です。車の運転免許を取れる年齢になってからではもう遅い。大人に交通道徳の教育をしても、結果はあまりかんばしくないはずです。義務教育の現場での、学校の成績――、点数主義だけの問題ではなく、徹底したモラル教育がいまこそ必要なのではないでしょうか。と、しかつめらしいことばかり書きだしたので、妄言多謝。このへんでルナを起こしに行きますね。

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ルナが「へそ天」でわたしを、おもてなし 麻屋与志夫

2020-02-05 10:27:31 | ブログ
1月5日 水曜日

●KEYCOFFEE スペシャル ブレンドの香ばしいにおいが食卓にたゆたゆしている。
ひとくちすすっては一行書き、右手をのばし「へそ天」しているルナとたわむれる。

●写真が載せられないのがざんねんだ。「猫と亭主とわたし」妻のブログでご覧になってください。

●わが家に来てから一年とちょっとになるので、ルナがだいぶ慣れてきた。
八か月もペット売り場のケージのなかで生活していた。
だからルナは子供の時に覚えなければならない猫らしい、かわいらしい仕草をなかなかしなかった。
ところが、このところわたしがパソコンを打ていると「ちょっかい」をだす。手をのばしてくる。キーボードにのる。

●先日などはキーボードにのって「しぬた」とうちこんでしまった。
右足が「し」を押し、左足で「ぬた」と偶然押したのだ。
死ぬた。と連想してしまった。
妻が松戸まででかける朝だった。
縁起をかつぐわたしなので、「交通事故に、気をつけてよ」としつこいほど妻に声をかけた。
帰りの東武電車で人身事故があり、帰りがだいぶ遅れた。
でも、妻にはなにも異常は起きなかった。

●「こんどは、スリスリするの覚えてね」
妻がやさしくルナに声をかけている。
幼くして母親からひきはなされ八か月も孤独な生活、それも鉄格子のなかにとじこめられていたのだ。

●ルナはだから妻を母親とおもっているのだろう。
かたときも、妻のそばを離れない。
だから、妻が所用ができて、外出するとそわそわとしてさびしがる。

●今日は買い物に出かける。
「リールで犬みたいに連れて歩こうかしら」
妻の提案をききながして、わたしは二階に向う。


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春の朝。食卓の猫のヒゲ。 麻屋与志夫

2020-02-04 09:38:38 | ブログ
2月4日 火曜日

●節分が過ぎた。
立春という言葉をきいただけでこころがうきうきする。
言葉には不思議な力があるものだ。

●朝の食卓にながながとルナがよこになっている。
わたしたちも食事がすみお茶を飲みながらくつろいでいた。
ふとみると、猫の白くながいひげがゆれている。
ルナの細いひげをゆらしているのは春風のようなエアコンの微風だった。

●こういうときだ。ああ俳句が詠めたらいいのにな。
エアコンがゆらす猫ひげ春立ちぬ
猫のひげエアコンの風にゆれにけり
エアコンがゆらす猫ヒゲただ一本

●悲しい。
恥ずかしい。
俳句をたくみに創るともだちがなんにんかいた。
みんなあちらにいってしまった。
いきていたら、わたしの短詩形式の非才ぶりを詠嘆するだろう。
結社をもつていたかれらに師事したものを。
早世した、その他の分野でも芸術家として大成していたともだちのことが話題となって、妻と食卓で別れて書斎に籠った。

●先ずは、ブログを書いた。

●書斎の窓からは古賀志山がよく見える。
空に飛行機雲。
青空。
階段にかすかな足音。
ルナがなにをおもったのか、わたしの後を追いかけてきた。


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死は背後から音もなく迫ってくる。GGには天から降ってきた。 麻屋与志夫

2020-02-02 10:16:22 | ブログ
2月2日 日曜日

●徒然草に「死は背後から音もなく迫ってきているものだ」という言葉があったと記憶している。

●わたしの場合。死は天からふってきた。といっては、おおげさだが、アトローム血栓性脳梗塞におそわれた。

●昨年の六月末のことだった。それはテレビで妻と「ベンジャミン・バトンの数奇な運命」をみているときに起きた。「おれと同じくらいの年で、生まれたことになるのだな」とかたわらの妻にはなしかけようとした。唐突に、口からお茶がこぼれた。

●「どうしたの」と妻がきいている。声をだそうとするが声が出ない。がさがさした言葉にならない音がしている。

●「どうしたの。どうしたの?」という妻の声が尖る。甲高くひびく。

●わたしは、卓にのっているノートを引き寄せた。書いた。『お茶のめなかった。吐いた。声が出ない』

●それからさきのことは意識が途切れがちで、時間の経過があいまいになってしまった。

●上都賀病院に救急車で運ばれ、そこから壬生にある「独協医大病院」

●病名は上記のとおりだ。枕元のカードに書かれていた。担当医と看護師さんの名前もそれで知れた。

●東京にいるはずの子どもたちが枕元にそろっている。とぎれとぎれにではあるが、全員そろった家族の話し声も内容もわかる。声はでない。……がさつな音。あれから、どのくらい時間が経過しているのか。救急車で壬生まできたのは覚えているが、あとは記憶にない。意識が朦朧としている。せん妄状態。いやもっとこの状態を呼ぶのに適した医学用語があるのだろう。と考えたところで「しめた。思考能力の欠如はないぞ」と気づいた。

●翌朝。目覚めた。声がでる。枕元のスマホで妻を呼びだした。

●「声がでたぞ」遥かかなた。家にいる。妻が喜ぶ姿が目に浮かぶ。

●これで、死なずにすんだ。なんども意識が途絶えた。重症だったら。あのままあちらに旅立っていた。

●これでまた、小説が書ける。

●死は不意に襲ってくる。何の前触れもなく唐突に襲ってくる。兼好法師はそのことを言いたかったのだろう。


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