田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

13 赤い糸の少女

2019-06-03 07:29:50 | 超短編小説
13 赤い糸の少女

 老婆がこちらに向かって近寄ってくる。
 
 ほほえみをうかべた顔色は枯れ葉色にくすみ腰こそ曲がっていないがかなりの高齢者だ。
 さらにそばまできた。
 胸元に右手を上げ、かわいらしく手をふっている。
 
 あれっ、誰なのだろう。
 
 知っているひとなのだろう。
 うれしそうに手をふっている。
 すれちがった。
 すごくなつかしい香りがした。
 さわやかなバラの芳香。

「どなたですか」と訊いてみればよかった。
 最近、とみに物忘れがひどくなった。
 見栄をはらずに、立ち止まり声をかけるべきだった。
 
 いまからだって間に合う。振り返って追いかけるのだ。

「知らないおばあちゃんに挨拶された」
 連休も明日でおわりだ。あわただしく、帰り支度をしている娘家族。
「どなたですかって訊いてみればよかったのに」
「やだよ。痴呆老人みたいではずかしいよ」
「ねえ、おじいちゃん。痴呆……ってなんのこと」
「地方に住む老人のことさ」
 孫娘は納得したのだろうか。だまって母親を見上げている。
 母親のかげから、恥ずかしそうに手をふって東京にもどっていった。
 
 またひとりぼっちの夜がやってきた。娘家族四人がかえっていった。家の中ががらんとして急に部屋が広くなったようだ。網戸になっているので、風が吹き込んできた。純白のカーテンが揺れてふくらんだ。カーテンは風を抱き込むように、赤子をあやすように揺らいでいた。

 老婆の右手が胸のあたりで揺らいでいた。なにかすごくなつかしいきもちになってきた。振られている右手の小さな動きは少女の顔を思いださせた。前の東京オリンピックの開催がきまったころだ。神宮の森ではオリンピックに向けて各所で突貫工事がはじまっていた。東京タワーの基礎工事が終了してこれから空高く構築されるだろう鉄骨が運び込まれていた。
 麻布霞町にあった『シナリオ研究所』のフロントで二階に同居していた『劇団ひまわり』の少女が「シナリオのおにいちゃん、これあげる」といってハーシーのチョコレートをわたしてよこした。なんのためらいもなく、お礼をいっていただいた。
 少女は恥じらいながら胸のあたりで手を振って遠ざかっていった。

 原宿の雑踏をかきわけるようにして彼女が近寄ってきた。あれから十年近くたっていた。シナリオではものにならず官能小説を書いて口を糊していた。糊するとは、粥をすすることというが、八枚切りの食パン一枚を牛乳一合で『パンの牛乳かゆ』をつくっていた。たまには、栄養をかんがえて卵を一個おとすこともあった。黄な粉をスプーン一杯加えることもあった。そんなある日、彼女に再会したのだった。
「シナリオのお兄ちゃんのほうが、世に出る、ブレイクする可能性があるわ」
 彼女はその日のうちに決断した。ほんの端役しか恵んでくれない所属事務所を辞めた。同棲し、結婚した。娘が生まれた。あいかわらず生活はボンビーノ。耐え切れず田舎にもどった。家賃がかからなくなったので、いくらか楽になった。

 さらに十年が過ぎた。両親が病気になった。高齢者老人保健がまだなかった。医者の支払いのため困窮をきわめた。
 
 さらに十年。村八分にあった。その理不尽な仕打ちに耐え切れず妻は二人の子供をつれて東京にもどってしまった。少女にははじめからこうなる運命が見えていたのかもしれない。それでもわたしにあの時、チョコレートを渡さなくてはいられなかった。ありがとう。
 ひととひとを結びつける赤い糸があの手のひらひらから放射されていた。せっかくつながったのに、それが道半ばで切れてしまったのだ。
 すっかり疲弊していたわたしは、なにか妻にひどい言葉をあびせた。狷介な態度をあらためなかった。パーフェクトラブを思い描いていた妻にはショックだった。献身的につくしてくれた妻。たった一言の暴力的な言葉も、彼女にはゆるしがたいことだったのだろう。

「さようなら。もう二度と会うことはないわ」
 
 あの老婆は妻だった。どうして、あの時、瞬時にきづかなかったのだ。
 声をかければ、また赤い糸がつながったのに。

 別れ際の妻の嘆きの身ぶり。彼女は胸元でつつしみぶかく手を振っていた。どうしてだ。なぜだ。あのとき引き留めていたら――。離別しないで生きてこられたのに。毎日、妻の笑顔を見られたのに。
 
 わたしは、娘に電話した。孫娘がでた。
「おじいちやん。やっぱ地方の老人なのね。オバアチャンはもう亡くなっているのよ」

 わたしの人生が、わずか数枚の梗概にまとまってしまうのが、悲しかった。
 
 もう手をふって近寄ってくる人はいない。老いさらばえた路傍の石のような老人だ。



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