田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

日光お化け地蔵 麻屋与志夫

2024-01-28 08:21:13 | 純文学

                                  
6月19日 木曜日
                                
  鬱蒼と茂った杉木立の影になっていた。
 お化け地蔵は山裾にひっそりと並んでいる。青い苔が一面に生えた古仏は赤いヨダレかけをしていた。杉の梢越しに射しこむ秋の光が並んだ地蔵の膝のあたりにかろうじて照り映えていた。
あの頃とまったくかわっていなかった。思いでの憾満ヶ淵では、悠久の時間が流れていて、人の生きる時間などなにほどのこともなかった。
あの頃、東京オリンピックの時代といっていいかもしれない。沼尾潔はこのお化け地蔵をなんどか訪れていた。

「あかちゃんがうまれたら、赤いヨダレかけをこのいちばん端のお地蔵さんにかけるの」
「そういう風習があるんだ……」
「この土地にはないわ。わたしがはじめるの」
並び地蔵といわれるだけあって七十体くらいはあるのではないか。潔はそう思った。日光の老舗旅館の一人娘、安西玲子はお腹をさすりながら潔をみあげた。
「すくすくと育ようにと」
まだ、玲子はヨダレかけのことを話していた。

潔は妊娠の告知を玲子からうけて、それをどううけとめていいのか、わからないでいた。
東京をオリンピックの通訳としてたまたま訪れた日光。ホテルはすでに満室でことわられた。しかたなく、安西旅館に博報堂のカメラマンの佐々木、案内してきたNew York timesの記者と泊まることになった。そこで潔は運命の女に玲子と出会った。
日本の風呂の入りかたを説明しているとき、たまたま玲子がお茶を入れてくれていて、同席していた。当時としても古風な五右衛門風呂だった。日本のこの種の風呂は下から沸かすから、上は水、二段になっていることがある。下が熱くて上が冷たい。よくかきまぜる必要がある。二段になっている、という説明がおもしろかったらしい。
「お風呂が二階建になっているというような表現は、考えてもみなかった」
と、いたく玲子は感動した。それが玲子とのはじめての会話だった。
 佐々木もジョージも二社一寺、東照宮などの日光ではなく裏日光観光案内を潔に期待していた。
「それなら、お化け地蔵がいいわね」
 きらきらする目でみられて潔はとまどっていた。
「生きと帰りではいくら数え直しても数があわないのよ。それで、お化け地蔵というの」 
色白の古風な瓜実形の顔をしていた。かたちのいい唇は薄く紅をはいたようだった。長い髪をうしろでかるくまいてまとめていた。あの髪を解いたら腰のあたりまでくるのではないかと潔は思った。
 憾満ヶ淵の南岸にあるお化け地蔵は鄙びた野趣をたたえた坐像で、七十体ちかくひっそりと並んでいた。佐々木もジョージもひどくよろこんだ。勇む心を抑えるようにひっきりなしにシャッターをきっていた。大谷川の激しい川音がしていた。不動明王の真言の一節のように聞こえることから憾満ヶ淵と名づけられたとい川音だった。
潔はなにもすることがない。英文の日光案内で陽明門のことなどを読んでいた。
「すこし、散歩しません……」
誘ったのは玲子だった。すごくひかえめな声で、恥ずかしくてしょうがないのだが、思い切って……というような調子だった。
 大日堂まで歩いた。大谷川の川音が絶えずふたりの周りでしていた。
「わたしをだいてください」
 あまりに唐突な願いに潔はとまどった。まだ会ったばかりの玲子だった。しかし、運命の女にやっと出会うことができたと胸をときめかしていたのだから断ることはしなかつた。それどころか、いつきに情炎が燃え上がった。そのまま草むらのなかに倒れ込んだ。
「はじめてなの。はじめてなの。やさしくして」
 玲子はかすかにうめくようにうったえかけてきた。そして、まちがいなく処女だった。

 妊娠した。どんなことがあっても赤ちゃんを生むという手紙をもらったのは神宮の森の銀杏の葉がおちつくしたころだった。オリンピック競技場の熱気もうそのように冷えて行き、冬が訪れようとしていた。
 わたしはほんとうにうれしかった。父のきめたひとと結婚して、この宿を継ぐ。そうした定められた宿命に逆らってみたかつたのです。
あなたが、潔さんがわが家の玄関に入ってきたときわたしも運命を感じました。この人なら、わたしをここからつれだしてくれる。わたしの運命をかえてくれる。わたしはこの人とならいつ死んでもいい。
そんな思いで、必死であなたにおすがりしたのです。さぞやはすっぱな女と軽蔑なさったでしょうね。
でもいいのです。なんと思われても、わたしのおなかにはあなたの命が息づいています。

 あれから、44年もたっているのだ。潔はたまたま、インターネットで下野新聞を読んでいたところ、安西玲子の訃報を知ったのだった。『日光市稲荷町の老舗安西旅館の安西玲子(62)さんが亡くなりました。五右衛門風呂で有名な日本古来の旅館の風情を守りぬいた経営者としても有名でした』と記事は結んでいた。

潔は安西旅館の見える坂の下にたたずんでいた。旅館の大きな玄関は昔のままだった。ガラス戸の両側に黒い筆文字で安西旅館とある。なにもかわっていなかった。会葬することは憚られた。陰ながら野辺送りをするために東京からかけつけたのだった。香や線香のにおい。読経の寂しい声。黒い喪服の人。玄関前に設えた焼香の段飾りの周囲には別れの悲しみが漂っていた。潔は手を合わせて黙祷していると不意に声をかけられた。
「沼尾さんですか? 沼尾潔さんですよね。」
 潔はとまどいながらも、頷いていた。
「玲子の娘の玲奈です」
 と名乗った。
「母にはそういうところがありました。未来を見通すような力があったのだと思います。父が早く死んでからというもの、よくあなたのことを話していました。そんなに好きな人がいるなら、なぜ結婚しなかったの。いまからでも会いにいったらとずいぶんすすめました。あの人にはもうしわけないことをしてしまったから。いつも同じ返事がもどってきました」
 夫に死なれてから玲子は長くさびしい人生を一人娘とともに過ごしてきたのだった。どうして知らせてくれなかったのだ。どうしてわたしを頼ってくれなかったのだ。わたしはそれほど頼りがいのない薄情な男として玲子の記憶にあったのか。
「潔さんがきたら、これを渡してくださいな。そう言われて預かっていたものがあります」
 なにをいまさらわたしに託すというのだ。もう遅い。もう一度、もういちどだけでいい玲子と会いたかった。
「それはいまどこに……? なにを預かったのですか」
 潔は勢いづいてたずねた。玲子はわたしにさいごになにを手渡しかったのだろう。
「赤い、ヨダレかけです」
「それはいまどこに」
「わたしが、持ってきています。もし沼尾さんがあらわれなかったら、納棺のときに、母の胸にかけてやろうと思っていました」
「もうしわけありませんが、見せていただけますか」
 玲奈は一瞬ためらった。母との秘密を名前を確かめただけで、見ず知らずの男に打ち明けたのを後悔しているふうでもあった。ためらっている。探るような眼差しを潔にむけている。
「まちがいなく、沼尾潔さんでしょうね」
「お母さんは、右の胸のあたりに大きなほくろがありました」
 はっと、おどろいた風だった。疑った非礼を詫びながら玲奈は喪服の懐に手をさしいれた。懐紙につつんだ赤いヨダレかけをとりだした。
「わたしには、これがどういうことなのか、だいたいのことは見当がつきます」
 名残惜しそうに、それでも玲奈は潔に懐紙ごとそれを渡してよこした。

「玲子が家出した。おまえとしめしあわせての家出だろう」
 玲子の父親から青山の潔の下宿に電話がかかってきた。 
 玲子は憾満ヶ淵の霊廟閣にいた。
「朝からずっとここにいたの。死ぬ前にもういちどだけ潔さんにあいたいと仏様におねがいしていたの」
 玲子は潔にしがみついてきた。愛情をともなったものではなかつた。愛し合う男と女の抱擁ではなかった。なにか、もっとさしせまったものがあった。潔は家の娘をキズものにして、どうしてくれる。玲子の父親にののしられたことを思いおこしていた。
 玲子は潔がなぜ青山の下宿これほど早く、そしてここにきたのかも問わなかった。そんなことには、頓着ないようすだった。上目づかいに潔を見る目は焦点をむすんでいなかった。
「死んで。わたしといっしょに死んで」
 大谷川の激流に身をなげようとしている。男体山から噴出した溶岩を削る川音も高い流れだった。
潔は必死で玲子をだきとめた。玲子の体はこごえていた。死人のように冷たかった。
「冷静になるんだ。おちつけ玲子。それより、なにがあったのだ」
「流産してしまったの。赤ちゃんがもうわたしのおなかにいないの」
 そこではじめて潔は玲子の下腹部がひっそりとしているのに気づいた。家を出て、東京で所帯をもち、潔と子どもを育てることをあれほど楽しみにしていたのに。そのふたりの愛の証である胎児がいない。
赤ちゃんがいない。子どもとしての体をもつにいらないまま、消えてしまった。
「わたしもう生きていられない。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。死にたいの。わたしといっしょに死んで。死んで」
「おちつくんだ。死ぬことはいつでもできる。玲子が死にたいのなら心中してもいい。でも、悲しいことだが流産しただけで、玲子を死なすわけにはいかない。わたしたちには、まだこれから長い人生が用意されているのだ。それを精一杯生きていきたいとは思わないか」
 玲子はわたしのいうことに耳を傾けだした。
わたしは玲子の手をひいて岩伝いに憾満ヶ淵から離れた。川音が遠のいた。
「ねえ、このまま東京へつれていって。もう父のいる家に帰りたくない」
 どうしてあの時、玲子の願いを、かなえてやらなかったのだろうか。
玲子の父に、人でなしと罵られたことを、気にしていたのだろうか。
オリンピックも終わり、臨時の通訳としての仕事もなくなり途方にくれていた。潔は小説を書きだしていた。生活に自信がもてなくなっていた。いまのようにアルバイトをして、それだけでフリターとして、あるいは派遣としても生活がなりたつような時代ではなかった。
でもそんなことは、いいわけにすぎない。わたしが、臆病だったのだ。ふたりで、東京で同棲するだけの勇気がなかったのだ。
潔はあれからずっと悔やんできたが、もうどうすることもできない。人生の一過性が悔やまれて、恨めしくて、それでもどうしょうもない。過去をとりもどして、もういちどやりなおすことはできないのだ。
玲子は死んでしまった。生まれてきた場所も時も違うが、死ぬのは一緒だと誓い合っていたのに。
あの時、死んでしまっていたほうがよかったのかもしれない。死にたいという玲子をむりに説得して家に送り届けるようなことはしないほうがよかったのかもしれない。
そうすれば、この歳になって涙をこぼしながら憾満ヶ淵に歩みよらなくてすんだのだ。慈雲寺の山門が見えてきた。お化け地蔵はあの山門をくぐればすぐのはずだ。

 玲子から詫び状がとどいた。なにもあやまるようなことはなかったのに。詫びたいのは潔のほうだった。玲子をつれだすことができず、家に帰らせたことをいまでも悔やんでいる。
 ごめんなさいね。いつも、迷惑ばかりかけて、こんなわたしを許してください。
わたしは父のいうとおりこの旅館を継ぐことにしました。もう潔さんと会うこともないでしょう。
あなたとのことは、生涯でただいちどの恋、賭けでもありました。このひとなら、わたしをここからつれだしてくれる。約束された結婚そして宿屋の女将としての暮らしから解放してくれると思ったのです。
でもわたしはまちがつていました。ここでの生活を、家族と共に全うしたいと思います。わたしは、負けたのです。わたしは負けた。悲しいけれどなぜ反対できなかったのか、泣けてきます。流産ではなく、堕したのです。
ごめんなさい。未婚の母になることなど許さない。父の叱責と命令には逆らえませんでした。
さいごにもういちどごめんなさい。わたしはあなたに、潔さんほんとうにもうしわけないことをしてしまいました。

 潔はあれほど玲子がとりみだし、自殺までしようとした原因を知った。
 そういう時代だったのだ。家業を守ることが至上命令として成り立っていた。
シングルマザーなどという言葉がまだない時代だったのだ。まして地方ではまだまだ戦前の古風な考え方がまかりとおっている時代だったのだ。
潔は返事を書いた。
 わたしはいま小説家になろうとしています。作家になってみせます。そうすれば、どこにいても、玲子さんあなたにはわたしの所在がわかるくらいの作家になりたいと思います。そうしたら、ぜひもういちどだけでも、会ってください。会いにきてくれ。そうならなかったら、もう二度と会うことはないでしょう。あなたは、あなたの道をすすんでください。わたしはわたしの道をいきます。さようなら。
それが、玲子にとって、どんなにつらく、どんなに残酷なしうちか、わかいわたしは分らなかった。わたしは、ようやく、歩みだしたじぶんの道を行くのに夢中だったのだ。
 わたしは、玲子に再び会うことはなかった。でも、それから六年くらいたって、日光を再訪したことがあった。友だちの友だちに頼まれ東照宮を見たいとしいうアメリカからの観光客を案内したことがあった。わたしは、安西旅館と表示のみえる玄関を坂道の下に立って見上げていた。
「お母さん、はやくはやく」
 四歳くらいの女の子が、玄関から飛び出してきた。
「お母さんはやくうー」
 娘は急かせていた。わたしは玲子の娘だと思った。玲子の幸せそうな顔を想像してから、あわててその場を離れた。
 これでいい。これでよかったのだ。と潔はじぶんを納得させた。
 あの時の娘が、玲奈なのだろう。いま会ってきた玲子によく似た娘だった。
 あれでよかったのだろうか。                           
あれしかわたしたちの生きる道はなかったのだろうか。
わたしが玲子のもとに入り婿となるという選択肢だってあったはずだ。
わたしは、あれからずっと小説を書き続けている。賞を獲得するほどの実力もないまま、雑文を書き生きてきた。
 こんなことなら、旅館のおやじとして過ごしてもよかったのではないか。謝らなければならないのは、わたしのほうだ。山門をくぐった。潔は憾満ヶ淵に向ってとぼとぼと歩いていた。
 生まれてこなかったわしと玲子の子どもに会いたい。
あの世で三人で暮らしたい。小説家になりたいために犠牲にしてきたものの大きさを、潔は痛感していた。
 こんなことなら、玲子、あなたの言うことを聞いて憾満ヶ淵から大谷川に入水していればよかった。
そうすればなにもかも思うようにいかなかった過去を悔いて生きているあわれな老人にならないですんだのだ。
 潔は赤いヨダレかけをとりだした。手がふるえていた。よく見ると裏側に『強』と縫い取りがしてあった。玲子が生まれてくる子を男の子と期待してつけた名前なのだろう。潔はじぶんの名とみように語呂があっているような気がした。
 玲子が望んでいたようにいちばん手前のお化け地蔵の胸にそれをかけた。
                                     完

2008 、6、19発表の旧作を再録しました。新しい読者の方は未読とおもわれます。どうぞ、お愉しみ下さい。

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下痢35  麻屋与志夫

2019-12-01 11:25:23 | 純文学
35

 後ろからポンと肩をたたかれた。
 ――お先。
 彼女がぼくを追いこした。
 
 ――大阪から追いかけてきたの?
 ――東京からよ。
 
 門前に妻が二人の娘とぼくを待っていた。
 
 妻が手をふっている。
 
 妻とぼくを結ぶ直線上を彼女は小走りに進む。
 
 彼女が妻と重なった。
                                      未完。





作者注。
 「下痢」という小説の題としてはあまり芳しくない拙作ご愛読ありがとうございました。
冒頭で述べましたが、老人医療が二割負担になりそうですね。これは老人医療制度のない時代の物語です。あまり直接的に、リアリズムで書いてはあの苦しい時代をおもいだしてしまうので、こうした作品になったのでしょう。初出は同人誌「現代」です。1976年です。大幅に改訂しました。文章が支離滅裂。精神的な苦労のあとがみられました。
 時系列に従った語り口ではなくてごめんなさい。
 直腸癌で亡くなった父の闘病、ぼくら夫婦の生活苦との戦いを書いたものです。貧困のどん底生活。でも誤解されると困るので、書いておきます。その当時の平均的サラリーの二倍も医療と家政婦の支払いを成し遂げていたのですよ。苦しかったです。
 どうにか、この歳まで生きてきましたが、医療費が二割り負担になったらどうしましょう。もう死んでいくしかありません。悲しい話です。



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下痢34 麻屋与志夫

2019-11-30 20:23:36 | 純文学
34

 どうして、帰るのだろう。
 やっと抜けだした家に。
 三人の姉妹は嫁にいき家には父と母しかいない。
 母はすでに糖尿病。
 どうして、もどるのだろう。
 ぼくは彼女のいうように脆弱な男なのだろう。
 情にモロイ性格なのだ。
 どこに向けていいのか、わからない怒りの矛先。
 ――本気なのね。
 彼女は追いすがってきた。
 K大の学生が何人かぼくらをふりかえった。
 赤いダブダブのセェターの彼女は、深紅の幻獣に姿を変えていた。
 ぼくは逃げようとしている訳ではなかった。
 彼女は距離を縮めようと必死で追いかけてくる。
 追いすがってくる彼女との間隔は離れるばかりだ。
 ぼくは立ち止まった。
 誰もいない。
 ぼくは公衆電話のボックスの中にいる。
 乾いた姉の声が、父の病気を、家族の緊迫した状況を説明している。
 こんどこそ、ぼくは、来週、帰るからと返事している。
 ――明日帰ってきなさい。
 ぼくは、ボックスから出ようとした。
 
 扉に指を挟まれた。

「痛い」

 その声でぼくは、現実に呼びもどされた。
 彼女がなにか探るような眼差しでこちらを見ている。
 トマトジュースはほとんど空になっている。
 ――まだ痛むのね?
 ――出ようか。



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下痢33  麻屋与志夫

2019-11-30 05:23:35 | 純文学
33

 街の騒音がとおのく。
 逆上していた。
 公衆電話ボックスの中で……だんじて故郷Kの家にはもどらないと受話器に声をたたきつけていた。
 昨夜から降りつづいていた雨に洗われ青山の高層ビル街が視野から遠のいていく。
 受話器からは上の姉の声が父が病気で倒れたことを告げていた。
 いちどはすてた、ぬけだしたはずの家、血族共同体からの呼びかけがそこにはあった。
 父と母。三人の女きょうだい。
 困り果てた顔が瞼に浮かんでいた。
 
 ようやく原稿が売れるようになった。
 物書きとしてなんとがやっていけうだった。
 それなのに。
 また邪魔がはいった。
 でも、これはいままでのちょっとしたトラブルではない。
 ぼくの運命を変えるような異変だ。
 
 ――それで結局……K市にもどることにしたのね。ひとことも、わたしに相談しないで。
  
 泣いたり。
 なだめたり。
 すかしたり。
 おもねたりする姉たちの説得にはかなわなかった。
 そこに、親子の情愛がからんでくる。

 ――あなたと同棲してあげてもいいとおもっていたのに。
 彼女はひとりで喋りつづけていた。
 あまり上機嫌ではない。
 ぼくは黙ったまま、彼女を眺めていた。
 ――ねえ……ウソデショウ?
 彼女はいたずらっぽく笑う。
 ――わたしをためそうっていうの。わるい冗談はよして。あんなに嫌がっていた田舎ですもの。帰る訳ないわよね。
 ぼくは黙っていた。
 彼女はじっと、ぼくの顔を見ていた。
 こんどこそ、泣きそうな声になった。
 ――本気なのね。



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下痢32  麻屋与志夫

2019-11-29 14:47:30 | 純文学
32

 ――あなたは自分を痛めつけるのがすきみたい。
 彼女がささやく。
 いたずらっぽく、男を透かして見る眼差しをしている。
 だれが追加したのだろう。
 ぼくらの卓にはトマトジュースがある。
 彼女のグラスでは赤い濃液は半分に減っている。
 いつのまに飲んだのだろうか。
 ぼんやりとしていると、彼女が訊いてきた。
 ――でも……どうして、グラスなんか割ったの?
 質問のおおい女だ。
 ぼくにもわからない。
 動機はわからない。
 理由も動機もわからないまま、ぼくはいつも苦役に満ちた世界に引きこまれてしまうのだ。
 直腸癌の父と糖尿の母の看病をするハメになっときだって、逃げようすればよかったのに。
 
 ――Kがうらやましかつたのだろうか。
 だが、ぼくは声を低めてこたえていた。
 売れっ子の作家になっている彼が羨ましかったのかもしれない。
 妬ましかったのか。
 そんなことはない。
 嫉妬は相手を自分の水準までひきおろす。
 ぼくはKの成功を……よろこんでいる。
 ぼくはただ惨めだった。



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下痢 31  麻屋与志夫

2019-11-29 09:39:48 | 純文学
31
 
 待っているはずのKと彼の妻がいない。
 
 卓には水滴が(グラスを割ったときにとびちったのだろう)光っている。
 グラスの破片をかたずけるときウエトレスがおそらく拭くのを忘れたのだろう。
 回転するミラーボールの光が水泡の上部にあたり、虹色に光っている。
 喫茶店なのになぜミラーボールがあるのか。
 むだな疑問。
 場末の安キャバーレーのような照明効果には別に反発はない。

 外は、あきらかに午前十時。
 先ほどまでの朝のラッシュが、渦巻きふくれあがてって流れる人の波が途絶えた。
 窓ガラスの枠の中で街が静まりかえっている。
 逆巻く海がふいに凪いだように、都会にも静謐の訪れる時間帯があるのだろう。
 
 血は止まらない。
 ぼってりと流れでるほどではない。
 赤い斑点が白い布に広がる。
 痛みは薄らいだ。
 血のシミ。
 汚れ。
 それらの赤い色調をみる。
 自分の置かれている場所が宙ぶらりんだ。
 
 存在そのものがすごく曖昧だ。
 
 不安になる。




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下痢30  麻屋与志夫

2019-11-28 13:41:37 | 純文学
30

 ぼくはいつの間にか、グラスを割ったらしい。指先から血がでていた。
 白いハンカチーフが巻かれ、そこにも深紅のしみが広がっていた。
 自動扉が開いた。コートの襟を立てた女たちが、街にでていく。
 街路樹の葉が緑に芽吹くにはまだしばらく待たなくてはならない。
 冬の朝風に揺られて細枝が乾いた音を立てていた。
 ぼくは風にののって、ふたたび御蔵跡の通りにもどろうとした。
 こんどは、うまくいかなかった。
 ひとたび、くだけた、イメージの破片をふたたび元の形をあたえることはできない。
 再構築できるわけがない。
 洗面台に淡く赤い血が一滴垂れ……ぼくの指先からの出血はなかなか止まらない。
 指の腹でそっと触れてみると傷口に小さなグラスの破片がらしいものが確かにある。
 親指と人差し指の爪をあわせてぬきとろうするのだが……むなしい。
 爪に血がついたたけだ。ぼくはいらいらして彼女に針をかりてきてくれるように頼む。
 やっと、えぐりだした微細なグラスの破片。
 針の先ほどの大きさで……、それがグラスの破片であるといった証拠はなにもない。
 出血はますますひどくる。
 彼女はハンカチを細く紐状にさき、かるくより合わせ、ロープにし、ぼくの腕にまきつける。
 ぼくの胸のポケットから万年筆をぬき、ロープと皮膚の間に差し込む。
 ギュッとしめる。白いロープが肉にくいこむ。
 ぼんやりと彼女の手慣れた動作を見ている。
 ――Kさんご夫妻が待っているわ。行きましょうか。
 ぼくらはまだ洗面所にいた。
 ――いきましょう。外へでましょう。



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下痢29  麻屋与志夫

2019-11-27 10:33:29 | 純文学
29

 ぼくは席をたって街にでる。いや、街にはでない。
 彼女がついてくる、保証はない。いつもの南の繁華街。「大劇」前に古びて油のしみ込んだ軍手が片方だけ落ちている。靴が踏みつけていく。

 冬の朝。

 白息やこの木より蛇落ちきしと 宇佐美魚目。
 
 氷はさみで立方体の氷をさげた男が喫茶店に入っていく。いや、入ってきた。
 記憶の隅にある街。
 深い沈黙。
 黒い毛糸の塊のような着ぶくれした巨女たちが街路のおおきな身ぶりで歩いている。
 ぼくは不透明な幕に隔てられている。彼女たちの声はきこえているはずなのに。きこえない。
 道順を思い浮かべるまでなく「御蔵跡」の履き物問屋街に立っている。
 ちゃんと、カバンはもっている。
 請求書がぼくをみちびいてくれたのだろう。
 ともかく集金をしなければならない。

 どうや。もうかりまっか。
 いや。さっぱりですわ。
 もうかりまっか。あかーん。
 どうや、儲かりまっか? 
 あきませんな。さっぱりですわ。
 そうだっか。そらあきませんわな。
 あきないいうたら、かねだっせ。
 かねがないことには、うごきがとれんわな。
 かねほしい、かねほしいいうたかて、かねのほうから、あるいてきてくれることはないわな……まあ、……やっぱ、努力でっしゃろ。かねがすべてやもんな。

 古びて薄暗い軒並み。
 傘屋。下駄屋。鼻緒屋。
 華やいだ色彩のある和装履きの店。
 けばけばしい原色のヘップ、サンダルの卸問屋。
 これらの店みせがまぎれもなく御蔵跡の街をつくりあげているのだ。
 ここは日本一の履物屋街なのだ。

 まいどおおきに。ごめんやす。素人売りはいたしかねます。
 知らんちゅうことは、ホンマにこわいこっちゃ。
 むちゃくちゃいいはるからな。

 ――また、お会いできて、うれしいわ。
 彼女が笑っている。後ろからふいに、肩をたたかれた。
 ――あれ、おれのカンが、やはりくるったのかな。
 彼女をぼくの妻と誤解していたKは困惑した表情をしている。



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下痢28 麻屋与志夫

2019-11-26 11:11:31 | 純文学
28

 ぼくがたえず父のことを身近に感じるのは、この火傷のせいだろう。
 火傷はぼくの膝にあるだけではない。
 ぼくの心の中にも刻印されている。
 埋葬がすんで「お清め」ということで今度は喪主側で組内のひとを接待することになった。
 家に帰ったぼくは、一刻もはやく横になりたかったが、宴会がまっていた。
 仏間とその隣の居間との間のフスマをとりはらった。
 組内の人たちが、席について談笑している。
 こちらの悲しみなど無視していた。
 ビールが凍っていると、組内の男たちがひそひそはなしている。
 これじゃ、飲めなかんべな、という声が反対側の席でする。
 ぼくはあわてて、部屋をでて、台所の暗くカビくさい片隅にいってみた。

 妻がお茶箱にかがんで、おおきなせりだしたお腹でうずくまっていた。

 今朝までぼくの本が詰めこんであった、内側にアルミ箔のはってあるお茶箱はまさにその構造のためクーラーのかわりを果たした。父の死体の腐乱を避けるためU市まで行って贖ってきたドライアイスが詰めこまれていていた。
 ビール瓶の王冠だけが、かすかな天井から落ちてくる採光のもとで光っていて。
 ドライアイスの上げる白煙がゆらゆらと立ちのぼっていた。
 ビンが破裂するのではないかと、緊迫した予兆に慄き台所へかけつけたぼくをその白い霧は揶揄しているようだった。
 ビンが破裂したら妻がケガをする。
 気をつけないとドライアイスでヤケドをするといってしまってから妻をひきよせてみると、すでに指に赤い火ぶくれができているのだった。
 いまどき冷蔵庫がないと、裏の人たちに陰口をきかれたのが悲しい、悲しかったが……あたしが泣いているのはそのためではないの。二番目の、Tに住んでいるお姉さんに、いまこんなときに、おおきなお腹しているなんて、生まれてくる子は……きっとろくな子ではないわ。そういうの昔から畜生腹っていうのよ。……といわれたからよ。わたしたちはもう若くはないのよ。七年もお母さんとお父さんの看病で、子どもを産まずにがんばってきたのよ。両親の看病でわたしたちの結婚生活をすりへらしてきたのに――。二人目のこどもを望んでは罪なの、受胎をあきらめろというの。
 落ちた涙がドライアイスに触れてシュッというような音をたてた。
 これ以上冷やすと、ビンが破裂したてしまうからと……言って王冠を指でつまんで、まるで鉗子でひきだすような動作で、一本いっぽんていねいに台所にならべた。
 彼女のからだのふるえはやむことがなく、本が入っていた立方体の箱からはかげろうのような霧が立ちのぼり、妻の背後で絶えることはなかった。
 部屋のほうでビールはまだかと催促するだみ声がきこえてきた。



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下痢27 麻屋与志夫

2019-11-25 11:01:18 | 純文学
27

 後ろからふいに肩をたたかれた。
 彼女がほほ笑んでいる。
 フロワーを近づいてくるのに気づかなかった。
 服装が昨日とはかわっている。
 それを彼女に訊いて確認する暇はない。
 たしかに妻によく似た女てはあるが、それを言いだす気分ではない。
 彼女はぼくのとなりの席につく。
 三人は一斉に手ぶりをいれて話しだす。
 Kと彼女の話はうまくかみあっている。
 共通の話題。
 共通の記憶。
 場所。経験。
 
 ぼくはグラスの底についてした水滴で、黒いテーブルの上に「時間」と書いてみる。
 窓の外を行く人がにわかに増えて、通勤時間になったことがわかる。
 冬には全くそぐわない大きな葉をつけた熱帯植物の造花のように硬く動かない葉ごもりをとおして、それらの人びとの話し声や顔の表情までもよく見える。
 いや、話し声は聞こえるはずがない。
 その声はぼくらのものだ。
 だが、ぼくは三人の声をはるな隔たりをもってとらえている。
 貝殻をイメージさせる白い皿。
 あいかわらず水滴のついたグラス。
 レモンの香りの残っている透明な液体。
 
 白い……いや、あれは素焼き色をした小さな壺だった。むしろ銅色にちかい。けっして、白ではないことは確かだ。記憶のなかでは、どうしてすべてのモノが白に向かって色あせていくのか。透いて見える。白く。ぼくはいつも小さな骨壺を心の中にあれからというもの持ち歩いている。ぼくは骨壺の底で円形の火傷を膝に赤く刻印されたときから、心の均衡をかき、日常生活のゆがみ、あるいは白じらしさから、抜けだせないでいる。膝をひらくと半月形の火傷はいまでも消えていない。



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