田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

裏見の滝 2

2007-10-31 20:19:48 | Weblog
10月31日 水曜日 晴れ
●裏見の滝を拝んできた感動からまだ冷めない。                 

●滝が近づく。木道がしっとりとぬれてきた。手すりもぬれていた。滝の落下音がひびき、おおきくなり、木道も手すりもぐっしょりと水分をふくみぶわっとふくらんでいた。事実、橋の欄干は指がめりこむほど水でふやけている。
「こわいようだわ。橋が落ちないかしら」
「落ちるほどひとが渡っていない。落ちて死ねばそれも運命」
荒沢川の激流が眼下にあった。かなり深い。水流も渦を巻いて、巨岩にのしかかっている。カミサンには強がったが、腰がひけた。

●橋の上ですれたがう人はいなかった。ここまで来て、裏見の滝を見ようとする人は数組だった。木の階段になった。満席でバスから降りるのに苦労したのが信じられない。閑散としたものだ。でも、この心寂びしい自然には観光客は似合わないかもしれない。
わたしは、不遜にもそう思った。煌びやかな華やかさはない。それでもひっそりとじぶんだけで、独り占めにしたいような静謐が、神々しさがそこにはただよっていた。

●滝を見上げることのできる展望台。木造なのがありがたかった。わたしの好きな青あおとした苔が生えていた。苔にふれていると原始に生きているような気がしてきた。しっとりとした水気、やわらかな肌触り、なんともいえずおちついてくるのだった。

●滝の落ち口あたりは、紅葉が観られた。緑の葉もあった。その調和がいい。そそり立つ岩壁。緑の苔の密生。滝の白い水吹雪。その風景の中にカミサンがいてシャッターを切っている。

●この寂滅とした自然の中で、徒歩でここまでこられたことに感謝した。

●思わず、裏見の滝を拝んでいた。


日光/裏見の滝

2007-10-30 19:57:33 | Weblog
10月30日 part2 火曜日 晴れ
●わが家の紅葉をみていたら無性に日光へ行きたくなった。今月の初めに訪れたときは、まだ紅葉には間があった。思い立つともうがまんできない。カミサンを誘う。こんなことができるのも、日光の隣町で田舎住まいをしているからだ。

●あまり一般の観光客の訪れない裏日光に興味のあるわたしは、文字どおり裏の文字のつく「裏見の滝」を今回の訪問先に決めた。

●東武日光駅前から「湯元」行きのバスにのった。車が混雑しているので、20分ほどかかった。観光シーズンなので車内は満席。身動き出来ないほど混んでいた。ところが、「裏見の滝入口」で降りたのはわたしたちだけだった。降りた向こう側に標識がみえる。2、5キロ先に裏見の滝があることがわかった。上り坂だから一時間はかかるだろう。

●滝に向って歩いているのはわたしたちだけだった。なんだいか車がわたしたちをおいこしていった。道の左はかなり深い谷川になっていた。川音がひびいていた。紅葉がすばらしかった

●山際の木道が急に木製の階段となりその先に目指す滝はあった。わたしは華厳の滝を見た時よりも感動した。規模においては、華厳の滝と比較することはできないが、芭蕉翁の「しばらくは滝にこもるや夏の初」で知られているためか文学的感銘を受けた。滝のしぶきをあびているとなにか確かに「行」をしているような気分になった。

●21039歩ほど歩いた。

いい小説が書けますように

2007-10-30 07:20:08 | Weblog
10月30日 火曜日 晴れ
●爽やかな秋の朝だ。いつものように、早くから原稿に向かう。毎日かかさず何か書く。何か考える。昨日よりは何か、どこか進歩した。進化したなどと考えて、じぶんを励ます。褒めてやる。でないと、落ち込んでしまう。落ちるのは……抜け毛と紅葉した葉だけでいい。などとオヤジギャグを口ずさみながら窓外をみる。

●あらぁ、わが家の小さな庭にも晩秋の気配がただよっていた。杏が、モクレンが、藤が黄葉をしはじめている。紅葉はまだだ。

●12チャンネルでNYのハーロウインの仮装が話題になっていた。季節は冬へとなだれこんでいる。頭が寒いのでニットの帽子をかぶらなければならない季節。すきだ。寒いほうが頭は冴える。いい小説が書けますようにとだれにともなく祈った。


鴨かな?

2007-10-29 20:12:21 | Weblog
10月29日 part2 月曜日 晴れ
●宇都宮にでかけた。当てにしていたお店は11時開店。少し時間があるのでJR駅の東側を散歩した。奈坪川にかかっている「ふくろくじゅばし」で写真を撮った。もちろん、カミサンが。川に鴨が泳いでいた。鴨ですよね。ともかくアヒルと鴨とオシドリの区別がつかないボンクラだ。間違っていたらごめんなさい。

●ケヤキが色づいていた。カエデもそろそろ黄葉がはじまりそうだ。いや、高い梢の葉は黄色くなっていた。犬をつれて散歩している人たちとすれちがった。優雅なものだ。
犬もかわいいな。猫とでは散歩できないもの。

●ヨドバシカメラによった。フロッピーやそのたもろもろの物を買った。レジの前で、平気でお金がない話をしてカミサンにいやがられた。なんとか支払は済ませたが、物価が高くなっているのを痛感した。

●16、784歩。少し疲れた。

インディアン・サマー

2007-10-29 19:28:35 | Weblog
10月29日 月曜日 晴れ
●二階の書斎でWプロを使って原稿をタイピングしているうちにうとうとしてしまった。HAL(慢性的な応募作品落選組なので、ハルウララから採ったブラックユーモア的、わがPCのニックネーム)にはどうもまだなじめない。しかたないか。HALとのつきあいはまだ半年余りだ。ついつい、Wプロに頼ってしまう。                   

●昨日につづき、背を伸ばしてイナバウアーをしたついでにベッドでついうとうと。

●室温が28度にもなっていた。三方がガラス窓になっているからだ。インディアン・サマー。アメリカのロックバンドの名前ではありません。小春日和のことといったらよろしいのでしようか。20年も長持ちしてくれている東芝のRupoのことを考えながら惰眠を貪った。 

●Rupoはその間五台も買い替えている。三台はまだ使っている。ほかの二台はともかく五行しか文章がディスプレイできなかった時代のしろものだ。故障したので使わなくなったのではない。Rupoの名誉のために書いておく。                                

●あの頃は原稿も面白いほど売れた。書いた原稿が雑誌に載るのがあたりまえだと思っていた。Rupoはいちどもトラブルをおこさなかった。それでノート型パソコンを買う時には同じ東芝のdynabook TX/67ABBにした。ゲン(superstitious)を担いでいるのだからHALちゃんよろしくねねねねねとおもっているうちに……ついまたうとうとしてしまった。

●所用ができた。帰って来てからまた書きます。


掃除日和

2007-10-28 21:57:02 | Weblog
10月28日 日曜日 快晴
●昨日の雨がうそのように晴れ上がった朝をむかえた。
「いいお天気ね。昨日晴れていれば上野公園を歩けたのに、残念だわ」
「くやまない。くやまない。過去にこだわると、きりがないから……」
悔恨だらけの半生を歩いてきたわたしだから言えるとことばだ。いつも明日のことしか考えないようにしている。過去に拘泥する余り今を見失っているようでは困るのだ。これから書かなければならないことがあり過ぎる。

●カミサンはマスクをして家の中の掃除にとりかかった。わたしもブラッキーも掃除機の唸り声が苦手なので逃げだす。ブラッキーのほうが徹底している。どこをほっつきあるいているのか終日家に寄りつかなかった。わたしは、二階の書斎にワープロをもって退散した。カミサンは広すぎる家を呪いながらそれでも二部屋掃除した。床がおちかかっていたり、襖が猫の爪とぎで裂かれているがともかく15部屋もあるのだから華奢なカミサンにはたいへんな負担だ。家の中に塾の教室が二つもある。わたしが手伝えばいいのだろが、ものぐさ男ときている。よく親父にも「ものぐさいのは、くそ(下品でゴメン)くさいのより悪い」と叱られた。いつも反省して、思うのだが、カミサンがいなければまちがいなく「ごみ家敷老人」になるだろう。

●二階は暖かだった。うとうとするような陽気だった。でも階下でカミサンが掃除機の唸りをあげて獅子奮迅の活躍をしているのに怠惰に過ごすわけにはいかない。5枚ほど書いた。まだまだこんな筆力ではだめだ。立ち上がって、背筋を伸ばすために、イナバウアー。よろけてベッドにどすん。そのままねこんでしまった。

●夕刻カミサンとFへ買い出し。店内改装がすんで気持ち良く買い物ができた。

●掃除がすんで清々しくなった掘りごたつの部屋でHALに向ってブログを書く。ブラッキーがいつしかわたしのとなりにきてすわっていた。


シャガール展を観る

2007-10-27 17:33:15 | Weblog
10月27日 土曜日 雨
●雨の中を上野の森美術館にでかけた。色彩のファンタジー「シャガール展」を鑑賞した。確かに色彩の美しさにはこころうたれた。造形もさることながら、白、赤、黄色、青、緑の原色ともいえる色彩には感動した。とくに赤がよかつた。奥田玄宗の紅葉の赤を観た時以来の感銘を受けた。

●館内の喫茶店でカミサンとお茶した。カミサンは日本茶セット。わたしはコーヒーとクッキー。シャガールに興奮して大声で話をしていたので周りの人にはめいわくだったろう。反省しています。ごめんなさい。

●12月11日までやっているから、今度は孫娘をつれて来たいものだ。子供の時から絵を観る楽しみを教えてあげたい。気付いてい見たら昼食をとるのを忘れていた。

●二階の書斎で原稿を書いていた。
「ほら、ブラッキー。外をみてごらん。雨だ、雨が降っている。外に出るのは諦めてよ」
窓から闇に向ってじっと視線をなげかけていた。納得したらしくおとなしくなった。
わたしは、ブラッキーをそって床に置いた。しばらくはおとなしくしていた。疲れてうとうとしていると、ブラッキーがうるさくないている。こんどは、わたしが窓の外を見た。いつしか雨がやんでいた。
「早く帰っておいで。おかしなものたべるなよ」
そんなこといっても、猫にはわからない。よろこびいさんで、夜の狩にでかけた。ねがわくば、ネズミなどをくわえてきませんように。書斎の床を半死半生のネズミがはいずりまわるのはあまり気持ちのいいものではない。わたしの部屋だからいいようなものの、カミサンの寝室だったらすさまじい悲鳴をあげられるだろう。猫のほうがおどろいて逃げだすような悲鳴だ。

●わたしは二時間ほど前までいた都会の光を思っていた。ここには、この田舎住まいの周辺にはまだ闇がある。夜の闇をのそのそと、それでいて敏捷にブラッキーがあるいているさまを想像していた。ひとは、都会では夜の闇を征服してしまった。夜があることを、暗い夜のあることを忘れている。忘れようとしているのかもしれない。すさまじい勢いで、建築されていく高層ビル群を見るとそう思う。ビル群の照明を見ているとそこに生き生きと動いているひとたちがわたしからは遠いものに感じてしまうのはどうしてなのだろう。夜が更けていく。


感傷の秋

2007-10-26 08:13:07 | Weblog
10月26日 金曜日 雨
●不吉なことばかり考えているうちに日付がかわってしまった。だいたい破滅的な妄想に苛まれるなんてわたしらしくない。やはり毎日が忙しく、過去を顧みるゆとりもない。そんな生活がわたしにはあっているようだ。精神的にも健康でありたい。

●あさから秋の終りの雨がトタン屋根をぬらしていた。おおきなモクレンの葉がぼってりと雨をすってたれさがっていた。杏、花梨、そして草花も雨にうたれてひっそりとさびしそうだ。廃園のおもむきがただよっていた。

●昨日の妄想がウソのように元気になった。風邪も一日で回復した。うれしい。思うに、わたしくらいの年齢になると、あの時こうしておけばよかった。ああしておけばよかった。あの友達とはもっと会っておくべきだった。もっと親切にしてやればよかった。と反省することはいくらでもある。とくに、Nが知らぬ間に他界していたことがこころに残っていたのだろう。慎んで彼の冥福をいのり、わたしは小説を書くことにもどった。

●田舎住まいなので、努力はしたが中央にはでられず、芸術家としては憤死したともだちがおおぜいる。かれらの無念をこころに今日も小説を書こう。しみじみそう思った。
秋だ。


妄想

2007-10-26 00:18:23 | Weblog
10月25日 木曜日 晴れ
●風を引いてしまった。大事をとってパソコン教室は休んだ。体力がおちているのか、劇的な風の引きかたをする。寒気がしたと思うと、クシャミがでて、鼻水がでてというようにたちまち風のあらゆる症状がでてしまう。なさけない。

●原稿がやっと書けるようになったのだ。風邪など引いていられない。日暮れて道遠し、というが、やりたいことが多すぎる。統合性失調症じゃないかと疑うほどやりたいことがある。年齢を考えてもあまり時間は残されていないのだ。書きかけの小説だって、何本あるのだろう。こわくなるから正確にかぞえないことにしている。そこえきて、いまだに食うために働かなくてはならならない。

●でも、ものは考えよう。だから年よりはるかに若いのだ。老成できない性格なのだろう。まあいっか。精進することだ。

●精進といえば、カミサンが天ぷらあげをしていて腕に火傷をした。そのうち、わたしが精進揚げくらいできるようにしなければと思っている。ふたりで元気なうちはいいが、カミサンが病気にでもなったらたいへんだ。男のための料理教室が都会では繁盛しているらしい。基本的な炊事くらいは覚えたい。やることが、またふえた。

●風邪で昼間から寝ていたので、妄想がわいてきて不気味だった。



山茶花は枯れたが

2007-10-25 14:01:48 | Weblog
10月24日 水曜日 晴れ
●庭のサザンカが枯れてしまった。どうしてなのか? 理由はわからない。真夏日がおおすぎたためなのだろうか。わからない。花梨もあまり実をつけなかった。不作だ。
花梨の実でノド飴を毎年作ってきたのに、今年はどうなることやら……。オバァチャンのノド飴をたのしみにしている孫がいるのに残念だ。

●サザンカの花言葉は、理想。あるいは、理想の恋。そのサザンカが枯れてしまうなんて悲しいことだ。

●母の看病を30数年もしたので、とてもじぶんの理想などということは口にもだせなかった。その間父も患ったから凄惨な生活がつづいた。長女が生まれてから10年間ほどの記憶がまったくない。

●あの時のことを考えると今は幸せすぎてこわいくらいだ。天国にいる両親がわたしたち家族を見守ってくれているおかげだ。感謝している。仏間でご先祖さまの位牌とむきあって毎日原稿を書いている。 

●いまが一番理想的な生活を送っている。あまり幸せだからなにか欠けているものがあったほうがいいということなのだろうか。小説がなかなか売れない。これは、これでじぶんの才能にかかわることだから、精進あるのみだろう。

●病人がいることを承知で結婚してくれたカミサン。もの書きとしては、不遇であり、理想にはほど遠いが、理想の恋は成就できたとおもっている。そして過去形ではなく、いまもカミサンに恋をしている。と、しらっといえる。

●サザンカは枯れてしまった。わたしたちの恋はいまも緑に育っている。

●写真はカリンです。今年の収穫はこれだけです。平年の20分の一くらいだ。