田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

どなたなの? 「朱の記憶」最終章/麻屋与志夫

2011-07-31 03:02:19 | Weblog
11

「Mの展覧会をみにいこう。あの絵に会える気がする。Mの回顧展にいきたい」
「あなた口をきかないで。いますぐ救急車がくるから」
妻はわたしのながした血を見ておろおろしていた。
わたしの邪魔をしてきた人狼を倒したよろこびで。
わたしは、はればれとした気分になっていた。 
咬むことは、日常の咀嚼行為のように癖になるものらしい。
それに、あまりにすみやかなわたしの太股の傷の回復が気にかかる。
もしまた咬む機会があればわたしの細胞は。
ますます若返っていくかもしれない。

Mの回顧展を観にいけば、すべてがわかる。
夏の日の水神の森に出合えれば、すべてが氷解する。

インプラントの歯茎の奥が疼いている。
人狼と戦うことは。
わたしが先祖から受け継いだ。
血のなせる宿命らしい。
口啌を血でみたすことは快楽。
快楽なのだ。

「もう、気づくのがおそいのよ」

わたしの内部で、いや背後で懐かしい声がしている。
聞きなれた声がわたしに語りかけている。
わたしはMの絵を見ながら背後の声に導かれていた。
ふりかえって、彼女の顔を見たい。
背後にはほのぼのとした気配。

夜の種族の命運を賭けて闇の世界で人狼と戦う。
人狼の血を啜る。                    
わたしは朱を恐怖していたわけではない。
憧憬していのだ。
Mは天才画家の直感でそれを感知した。
K子とわたしの像を赤で縁どっていたのだ。
それにしてもこのジジイになにができるというのか。
一族の血はいまになってわたしになにをさせようとしているのか。
わたしは感慨をこめて「夏の日の水神の森」を見た。
いままでとはちがった絵になっていた。
朱色がなんと心地好く映じることか。

順路通りに几帳面に全部作品を見終わった妻が。
わたしの前に立っていた。
めずらしくきつい顔をしている。
戦後六十年。
三岸節子の絵画に癒され。
その美に共感して。
生き抜いて来た。
ひとびと群れのなかから。
妻は現れた。

「あなたの後ろの方。
入り口であなたに招待券くださった方でしょう。
わたしにかくしてもわかるわよ。
紹介してくださる」

丁寧過ぎることばは妻が緊張しているからだ。
わたしとK子は、同時にふりかえった。
そして肩を寄せあって並んだ。

「わたしの母だ」

妻は見事にソフアに倒れ込んだ。
むりもない。
いま見てきたばかりの――。
「夏の日の水神の森」の。
少女のような女性がそこには。
老いもせずに。
存在していたのだから……。
人狼とはかぎらないのかもしれない。
わたしも……血に飢えている。  
わたしは妻の向こうのひとたちを見た。
周囲のひとたちは老人だった。
襟や喉もとが皺の集積なので安堵した。    

もし、処女のごとく。
なよなよとした白い喉と襟足をしていたら……。
                                    完


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目覚める「朱の記憶」/麻屋与志夫

2011-07-30 00:20:15 | Weblog
10

わたしは生まれたときのまま全裸で人狼とにらみあっていた。
「……縮んではいない。
さすがだ、吸美姫のベビイだけはあると褒めておこう」
「吸美姫。そのコドモ? わたしが……」
「しらなかったのか。
ここは、おれたちの町だ。
むかしから。お前らは邪魔なのだ。
おれたちの真の姿を見ることのできる。
吸美族のきさまらはよそ者なのだ」

人狼にはかれらの真の姿を喝破する。
わたしたちの存在が疎ましかったのだ。

「狼のくせに九尾の狐が怖かったのだろう」
いままで、わたしたちの同族の男子がなんにんも殺されてきたことか。
嬰児が狼の顎の中に消えていく場面が。
既視感となって。
パノラマ現象となって。
脳裏に白光をともなって閃いた。
その恨みがふいにわたしの内部で爆発した。
遺伝子のなかに組み込まれていた情報が機能しはじめていた。
わたしの股間にたれさがった男根に人狼のひと噛みがおそった。
わたしは股のあいだにそれを挟んで攻撃をかわした。
相打ちいがいにこの危機を乗り越える手はない。
しかし、局所では困る。
死を招きかねない。
本能的にさとっていた。
腿の肉をしたたか食いちぎられた。
人狼は口の中でわたしの肉を咀嚼している。
旨そうに音をたてて……。
そこに隙が生じた。
わたしは鉤爪になることもなかった。
未知の力がからだに満ちみちてくることもなかった。
ただ、妻が、父とわたしの二っの棺おけを見ずにすむように戦う。
いままでかずかぎりなく人狼の犠牲にされたてきた。
この町のひとのためにも戦う。

「ボウヤ。
人狼の喉仏を食いちぎるのよ。
ボウヤ。
わたしのボウヤ。
できる。
勝てるよ。
負けないで」

「わたしの人生をことごとくダメにしてきた。
わたしの邪魔ばかりしてきた。
許さん。わたしと住めなかった、母の恨み。
同族の恨み。復讐してやる」
「ほざけ。老いぼれ」
人狼の両眼が真紅に輝いた。
わたしはまだ完全に獣化しきっていない人狼の顎のしたに。
頭をいれ上におしあげた。
犬歯の攻撃を防御した。
鉤爪が襲ってくる。
両手をおおきく広げて人狼の足を十字に固定した。
目の前に人狼の喉仏があった。
わたしは太股の劇痛にたえた。
人狼の喉に食らいついた。
乱杭歯が生えてきたわけではない。
人狼の喉の骨をくいちぎったのはインプラントの歯だった。
だがその歯根のさらに奥深く疼きがあった。    
歯茎が疼いていた。
朱色はもはや、忌避すべき色ではなかった。
快楽とともに受容するものだった。
人狼におそわれる恐怖。
朱の記憶の中でおびえて生きてきた。
だがおそわれるより、おそうほうがスリルがある。
咬まれるより、咬む。
咬むよろこびに目覚めた。

血だらけのわたしを発見したのは元工員のひとたちだった。
そしてわたしが倒れていたのは。
奇しくも母がわたしの命を人狼から奪い返した場所だった。
工場跡地の中庭だった。
月がさえわたっていた。
因縁だ。
因縁だ。
旦那の通夜に襲われた。


                               

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いまそこにいる人狼「朱の記憶」/麻屋与志夫

2011-07-29 17:24:08 | Weblog
9

蔵まで箱膳をとりにいった妻が戻ってこない。
半生を病床で過ごした父が九十六歳で黄泉の世界に旅立った。
通夜だった。
むかしの稼業だった麻綱(ロープ )製造業にかかわってくれたひとたちが。
集まってくれた。
みんな、年老いていた。
わたしが変質者におそわれたことが話題になっている。

わたしはふいに不安になった。
そとには月が皓々と照りかがやいている。
わたしはサンダルをつっかけるのももどかしかった。
勝手口からとびだした。
蔵は開いている。
妻はいない。
膳がちらばっている。
くぐもった声がする。
「狼がでた。狼がきたわ」幼くして聞いた母の声がわたしの内部でした。
「そうなのか。お母さん」わたしは、息をきらしていた。
妻の名をきれぎれに呼んだ。

返事はない。
石組の釣瓶井戸をまわった。
わたしは焦っていた。
冷や汗が背中にふきだした。
動悸がたかなった。
どうして、いま頃になって。
わたしが襲われるのならわかるが、どうして妻が。
妻が人狼に食い殺されているのではないか。
……と、おののいていた。
どうしていまごろになって現れたのだ。
まちがいない。
人狼がおそってきたのだ。
あれ荒んだ廃屋同然の工場の中庭に人影がした。

「狼男だな!!」
がっしりとした体躯にジーンズ。
はためにはただのマッチヨとしか映らない。
だが腰のあたりに異様なグラデーションがある。
そこを九十度に曲げて迫ってくる気配がある。
「ほう。おれが狼にみえるおまえは……」
人狼が驚いたようにふりかえった。

「そうか、ボウヤの成れの果てか。ジジイになったものだ」

唾を吐きながらくぐもった声をだした。
妻は失神こそしていたが無事だった。

「おまえの匂いはボウヤ、覚えているぞ。
一度嗅いだ匂いは忘れない。
いさましいママと……この地は離れたと思っていたのにな」

父の通夜が母屋でしめやかにとりおこなわれていた。
かすかに読経が聞こえてくる。
みんなで、車座になりおおきな数珠を回しているのだ。
わたしを故郷に呼び寄せた父の病は長期にわたりわたしを苦しめた。
わたしの人生を目茶苦茶なものにしてしまった。

空には満月がのぼっていた。

腐肉でもあさる気か。狼よりハエエナみたいなヤツだ」

帰省してからの半世紀。
不運だった故郷での恨みをこめて人狼にたたきつけた。
絶えず、わたしの人生の節目に邪魔をしてきたのはコイツらの一族なのだ。
そして、わたしは常に孤立無縁だった。

「なんの。これが三度目の正直というやつさ。
それにしても、ひとの老いるのははやいものだ。
老臭ふんぷんたるものがあるな」

満月にむかって狼が吠えた。
顎が月にむかってがっしりとのびだした。
両腿が細く鋼の強さ、ふくらはぎの筋肉が上につりあがる。
漆黒の剛毛に全身がおおわれていく。
背骨が微妙に湾曲する。
ひとから狼へと獣化しつつある。
さっと前足の鉤爪でひとなでされた。
ただそれだけで、ベルトがはじけとんだ。
わたしは下半身をむきだしにされた。
そして、胸への攻撃もさけられなかった。
胸部の肉が浅く長くはぎ取られた。
血がふいた。
蘇芳色の鮮血だ。
老いぼれのどこにこんな赤い血がながれているのか。
と、驚くほどしたたってきた。
わたしは赤い血をみても、朱色をみても平気だった。
わたしはいつの間にか、朱の桎梏から解きはなされていた。            
朱の呪縛が消えていた。
この期におよんで、むしろうっとりと自分のながした血をみていた。
朱にたいする恐怖は快楽へと反転していた。



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人狼からの生還「朱の記憶」/麻屋与志夫

2011-07-28 11:39:40 | Weblog
8

そうした、ある冬の夜。
山には食べものがすくなくなった。
町におりてきた飢えた狼に、わたしはくわえられていた。
庭には雪が降っていた。
ロープ工場の職工たちがわたしの悲鳴をきいた。
得物を手に、駈けつけた。
わたしを救出してくれた。
そのものはまだメタモーフォズを解けずにいた。
人狼のままでいた。
そのものは、殴打された。
追い払われた。

「まあ、割礼されたと思えば……」
なにもしらない父は母をなだめていたという。
生まれてすぐの記憶などあるはずがない。
ひと伝にきいたことなのだろう。
ひと伝にきいたそのときの記憶を大人になってから蘇らせた。
膨張させてきたのだ。

血の記憶は母によるものではなかった。
わたしが母にもよろこばれていなかった。妄想だったのだろう。
 
狼におそわれて包皮をくいちぎられた記憶。
割礼の儀式のイメージとダブッタのだ。
刺すような痛みと血の記憶だけが幼い頭にやきついたのだ。
生まれて三日目のことだったという。

それいらいわたしは赤い色を見るとおののいた。
ひどいときは嘔吐した。失神した。

「ボウヤの味が忘れられなくてな。
こんどこそまるまる食い尽くしてやる」       
人狼は嬰児をその性器から食いはじめる。
人が家畜の部位によってうまいまずい。
というのとおなじことだ。
人狼はそんなことをいったかもしれない。
 
すこしおおきくなってから、二度目の襲撃があった。
狼。
顎には白く鋭利な歯列。
世界は赤く燃え立ち、わたしは恐怖にうちふるえていた。
なすすべもなかった。
狼はまさに悪魔。
獣性をむきだしにして、残忍なよだれをたらたらとたらしていた。
月の光に屋根が青白くぬれたように見える。
波型屋根のロープ工場に上にこうこうと望月がさえわたっていた。
黒く濃密な剛毛におおわれた。
まさに悪魔は。
飽食への期待に。
満月に向かって唸り声をあげた。
その一瞬のスキをうかがっていたものがいた。
二度目におそわれたときの、記憶だ。
このときだ。
颶風となって人狼に体当たりをくわせたものがいた。
もしそれが母だったら、いや、まちがいなく母だった。
母がこなかったらどうなっていたろうか? 
すさまじい吠え声。
わたしを救出にきたものも白い歯をむきだしにした。
狼とにらみあっていた。
「逃げて」母がいった。
「逃がすか。おれの獲物だ。おれの餌をうばうきか」
もうひとつの咆哮。
殴打音。
悲鳴。
わたしはよちよちと部屋に逃げかえった。
もし母だったら……。
母はあの時の戦いが原因でいなくなってしまったのだ。
家の中はがらんとしていた。
異常に気づき住み込みの職工たちがかけつけてくれた。
庭の奥で母が人狼と戦っていた。
そうおもいたい。
母の姿はそのときを境にわたしの記憶からきえてしまった。
家からきえてしまったのだから。
なにもかもが曖昧模糊となってしまった。  
顔が血だらけ。
白い乱杭歯をむきだし狼に戦いを挑み。
わたしを救出してくれたのは母であった。
そう思いたい。
狼のその再度の襲撃のときは。
わたしはどうやら歩けるようになっていた。
母はそうした血だらけのおぞましい姿を。
ひとにみられたと思い……蒸発してしまったのだ。


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狼がでた!! 「朱の記憶」/麻屋与志夫

2011-07-27 17:10:18 | Weblog
7

「ながかった」
それが内部にある声なのか。
わたしがこれから書こうとしている小説のなかの会話なのか。
わからない。
リアルな世界に想像の世界が――小説の世界が入りこんできた。

「ながかった」

わたしの町の人狼伝説を書きだしていた。
たえずこれまで邪魔されてきたが。
人狼がわたしにおよぼしている害意だとすれば。
すべての不可解なことが解けてくる。       

夕暮れの茜色。
巨大な鯨の胴を真っ二つに割いたような赤黒い雲。
茜色などというロマンチックな色彩ではなかった。   

わたしはこの色を恐れてきた。
わたしたちの種族では男の子は歓迎されなかった。
男が生来の能力に目覚めることは、小さな部族に危機をまねくだけだ。
男が血を吸う種族全体のもつ能力に目覚めることは忌み嫌われていた。
そんなことが起きれば、部族に滅亡をもたらすかもしれないのだ。
女だけがマインドバンパイアとして生きてきた。
人と交わることもできた。

「わたしたちの部族は男を産んだときはね、
母親みずからが赤ちゃんに割礼を施すのよ。
嬰児に割礼を施して男に種族の本能に目覚めさせないようにするの。
割礼が本能を抑えるなんてまったくの迷信よね。
たぶんかわいそうにそのときの朱の記憶、
血の色を痛みとともに覚えたのね。
かわいそうに、初めて流した血の色を覚えているのだわ」          

どこかでタニス・リーの小説だったろうか。
あまりにも、わたしの立場と似ている一節を読んだ。
これが、この一節がわたしの受容しなければならない現実なのか。
誰かにいわれたことばなのか。
小説の中でのことなのか分明ではない。
どこで読んだのか。
記憶にない。
誰かに聞いたことばだというのか? 
いまとなっては曖昧となった記憶だ。

あるいは、わたしの書いたものかもしれない。
気にいった文があると。
コラジューのように。
じぶんの小説のなかにちりばめるという手法をとっている。
どのていどまでが許され。
どこからは剽窃といわれるのだろうか。
わからない。
わたしの小説の中の一節だとしても。
それがわたしがまちがいなく書いたものだという確証はない。

わたしは母に疎まれた子だとながいこと苦しんできた。

「狼がでた。狼がきたわ」
冬。
満月の夜。
母はよくそういって怯えていた。



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九尾狐の末裔「朱の記憶」/麻屋与志夫

2011-07-27 05:57:11 | Weblog
6

「わたしは絵描きになろうとはしなかった。
物書きになろうと努めてきた。
そのおかげでつきとめた。
虎でも馬でもなかった」
わたしはK子のブラックジョークにノッタ。
オヤジギャグを背中あわせに座っているK子にとばした。
「狼だった」
のりのりのセリフ。

「そう。
わかったのね。
そこまでわかればあと一息ね。
うれしいわ」
夢の中での会話のようだった。
こうして夢にまで見てきたK子と会っていること事態が。
あまりにもシュールだ。
わたしは、黙ってしまった。
頭がモヤモヤする。
なにか思い浮かびそうだ。
あと一息。
今少し……。
それからさきへはなかなかすすめなかった。
わたしの生まれにかかわる陰惨な秘密には到達できないでいた。      

最高のアートフィリア(美術偏愛)とは。
じぶんの好きな絵の中に点景人物として。
おのが姿を象嵌してしまうものだ。
ダリの赤。ダリの「特異なものたち」の赤。
……赤。奥田玄宗の紅葉の赤。
単に色彩だけではない。精神性までも表現した赤はいたるところにあった。
だがMの赤のような、なまめかしくもあやしい赤は……なかった。
人間の存在そのものにまで遡行していくような赤。
そうした赤で描かれたわたしの裸身像をもとめて。
ながいこと美術館や展覧会の会場を巡って来た。

それもこれでようやく終わりだ。
Mの回顧展覧会。
あれから画家が六十年ちかく、九十四歳まで生きた。

展示作品94。
「さいたさいたさくらがさいた」。
彼女が生涯おいもとめたやわらかな淡い赤。
大磯の白い桜の花がゆれていた。

作品95。
「花」。
彼女の作品にはいつもどこかに赤の影が見えていた。

Mはあのとき画家としての直感から。
わたしが怯えていた赤の記号(シニィ )の意味を読み取っていたのかもしれない。
どうして、わたしが赤にこだわり、赤に恐怖を感じるのか。

わたしはいま、Mの赤によって癒されていた。
わたしの朱の記憶が一瞬もえあがりそして沈静していくのを感じた。
わたしの中心にあった痛みと恐怖がうすらいでいった。
こんな絵の鑑賞のしかたは邪道なのだろう。

わたしの脳裏に色濃くわきたっていた恐怖の朱の色。
母の唇。
血をすったような真紅の唇。
くちびるからしたたる赤い滴。
赤ではあまりに毒々しい。
赤を朱として思いだすことでわたしは恐怖を和らげようとしていたのだ。

奇妙に白すぎる歯。

絵を描くことは断念した。
本の世界を渉猟した。
わたしの街が玉藻の前。
九尾の狐を追いつめ滅ぼした旧犬飼村と隣接していることを知った。
そして玉藻が血を吸う夜の種族であることを。
美を吸って、美しいものをめでて生きる吸美族の出身であることを。
探りだしていた。

「おそれることはないのよ」
どこからともなく頭にひびいてくる。
声はささやきかけた。
「わたしはずっとここにいる。
ながいことボウヤを見守ってきた」
しかしだれも見えない。
人影は広い病室のどこにもない。
わたしは腿の肉が再生する早さに疑問をもっていた。
「ここよ。ここ」
おどろいたことに、声は中にいた。
声は頭。外からひびいてくるのではなかった。
声はわたしの中でわらった。
「ながかったわね。
いつボウヤが覚醒してわたしの声がきこえるようになるかと……」
すこし鼻声になった。
「まちくたびれて、あきらめかけていた。
もう、ボウヤはこのまま平凡な男のまま死んでいくのかとあきらめていた」

わたしはそのつもりだった。

「あなたはうまれて三日目に悪魔につれていかれそうになった。
わたしのほんの、寸時の油断のために。
隙をつくったわたしがわるかったの」
そんな声無き声を聞くことができるようになっていた。



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「赤の虎馬」朱の記憶/麻屋与志夫

2011-07-26 10:09:58 | Weblog
5

小学校の三年生になった。
この学年から国民学校では水彩絵を描くことになっていた。
わたしは満を持してその絵の時間に臨んだ。
戦時中にもかかわらず。
わたしが生まれてすぐに母は。
学校で必要となる勉強道具を備えておいてくれた。
水彩絵の具もそろっていた。
それも二十四色。
母にはわたしとながくは暮らせないという予知があったのだろうか。

「これはなんだぁ。おまえ……狂っているぞ」
美術教師がかんだかい声でわたしのほほをうった。
その痛みに泣きだしたいのを必死でこらえた。
わたしは画用紙を赤の濃淡だけでうめた。
あれほど恐れていた赤なのに――。
赤い血のような色をぬった。
恐怖で筆先は震えていた。
赤はわたしにとって恐怖の色。
戦慄の色。
忌むべき色だった。
それなのに、どうして……。
「赤の色をなすっただけだろう。こんな絵があるか、バカもの」

母はわたしが絵描きになることを希望していた。
わたしはそう思っていた。
わたしが、有名な絵描きになれば母がどこからともなく現れる。
血のような色を使えば、わたしの絵だと母にはわかってもらえる。
赤い絵を描きつづければいつか母に再会できるのだ。
幼い時からそう思いこんでいた。
わたしには静かな生活をさせたかったらしい。
美しいものにとりかこまれた生活は母の望みだったはずだ。
母と静かに絵を描いて暮らすのが夢だった。
それなのに……。

「だいいち黒で周りを囲み……
中に赤い絵の具をぬりたくっただけだ。
なにを描こうとしていたんだ。
え、なにを描くつもりだった」
「周りを黒でふちどりして、その中を赤く染めた。ぬりえか。これは」
「ぬりえ。ぬりえ。ぬりえ」とみんなが囃立てた。

「そんなことがあったの。赤にたいしてトウマがあるのね」
と理解を示すM。
わたしとK子は黄昏てきた水神の森でモデルをつとめていた。
絵筆をふるいながらMがやさしい表情でわたしたちを見ていた。

色彩こそすべてだ。
カンディンスキーがコンポジションと呼んだ作品群を。
小学校の絵の先生は知る由もなかった。
あのとき美術教師の。
あの一言がなかったら。
わたしの人生はかわったものになっていた。
赤い色彩こそわたしのすべてだった。
目に映る風景ではなく、心に映る色彩だけがわたしのすべてだった。

「あなたの虎馬みつけだせた」
わたしの背後の六十年後のK子がたのしそうにいった。
虎馬。
とらうま。
トラウマ。
Trauma。


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「夏の日の水神の森」朱の記憶/麻屋与志夫

2011-07-26 00:59:36 | Weblog
4

「二人で並んですわったら、
Mさんにまだあなたたちつづいていたの?
……なんてからかわれそうね」

わたしはK子にきいた。
「でもどうしてこの絵がここにあるんだ」
わたしはひそかに期待していた。
もういちどでいい。

「夏の日の水神の森」を観たい。

あれほどながいこと慚愧の念とともに――。
再度鑑賞できることを願いつづけてきた絵。
わたしの青春そのものを結晶させた絵。
会えるとは思っていなかった。

「Mが日動画廊から買いもどしておいたのよ」
とK子が応えた。 

父のロープ工場は倒産。
わたしは学費をひねりだすためにこの絵を日動画廊にもちこんだのだった。
Mとわたしたちの出会いを証明するような絵。
戦後初のMの展覧会が日動画廊で開催れたのを知ったのは。
ずっとあとになってからだった。
わたしの英会話の恩師。
GHQの通訳だった愛波与平先生が。
鹿沼を選挙区とする湯沢代議士としりあいだった。
その国会議員が日動画廊の顧客。
三題話めいた因縁だった。

その縁故で当時としては破格の価額で買い取ってもらった。
それいらい、観ることのできなかった。
想い出深い絵だ。

「ぼくは赤い色彩を見ると戦慄するのです」
わたしはMに静かに語りだしていた。
わたしの失神の原因をきかれての答えだった。
原初の記憶といってもいいだろう。
赤の記憶は床の間の掛け軸に描かれた「モズ」だった。
嘴に真っ赤な肉片をくわえていた。
わたしは幼いころから赤に異様な反応を示していた。
あれがはじまりではなかったろうか。

「モズの絵をおろして。他の絵に掛けかえて」
ようやく、ことばを紡ぎだせるような年になったわたしは哀願した。
声をひきつらせて号泣した。
モズのするどい嘴におそわれるようで怖かった。

「そんなことできません。
わがままいわないで。
見たくないものは見なければいいの。
目をつぶって見なければいでしょう」
「赤がこわいんだよ」
「お父さんが掛けたものをかってに変えることはできないのよ」
「やだよ」
「ききわけて」
「やだよ」
「だめなのよ」
母は父の不在のときは掛け軸の前に二双の屏風を置いてくれた。
水墨の山水画。
墨の黒は好きだった。
すごく気分が落ち着いた記憶がわずかに残っている。

母が留守だった。
いつものように赤を嫌って泣いた。
ききつけて部屋にはいってきた父がわたしを布団ごと丸めて庭になげだした。
雪がふっていた。
雪がわたしの涙をひややかなものにしていた。
あるいは、あれは肉片などではなくモミジの葉であったのかもしれない。
紅葉したカエデの細い枝先でモズが天空にむかって鳴いていたのかもしれない。
わたしは雪におおわれていた。
母の帰りがおそければ凍死していた。
わたしは父の愛をしらないで育った。



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朱の記憶/麻屋与志夫

2011-07-25 15:42:37 | Weblog
3

パレットにしぼりだされた絵の具の色。
――わたしは眩暈をおぼえた。
それどころか失神してしまっていた。
グラッと大地がひっくりかえった。
からだの芯にひびいてくる恐怖。
おののきながらわたしは気を失っていた。

わたしは名前を呼ばれていた。
母の声のような、たえてひさしくきいていない優しい呼び掛けだった。
頭の中にはまだ赤い粘性の絵の具が渦をまいていた。
わたしのからだは痙攣していた。
幼児への退行現象でもおきたのか。
わたしは赤子のようにK子の胸に顔をふせて、ふるえていた。

「夏の日の水神の森」

その絵はあった。
静物と風景画のおおいMの作品群の中にあって。
その絵にはめずらしく少年と少女が描かれていた。
それも、点景人物というより、人物そのものが主題だった。
そう、わたしとK子を描いてくれたものだった。
あの、赤――バアミリオン。
わたしが失神するほどの衝撃をうけた赤い色彩。

わたしとK子のまわりには。
赤い線が昆布かワカメのようにゆらぎながら。
上にのぼっている。
わたしの赤への過剰な反応が画家の感性を刺激したのだろう。
これは若者の精気。
わかさのフレイヤー。
あるいは精液などと評論家がしたり顔で解説している。
かれらはこの絵が成ったモチベエションをしらないのだから無理もない。

わたしはこの絵が展示されているかもしれない。
という、仄かな期待はもっていた。
むしろ、予感といってもいいかもしれない。

はるばる鹿沼からきた甲斐があった。

その絵を正面から見られる場所に正方形のソファがあった。
むろん人垣に邪魔されてときどき垣間見ることしかできない。
それでじゅうぶんだった。  
立っていたらあのときのように倒れてしまうかもしれない。
生涯二度ともう巡り合えないだろうとあきらめていた絵だ。
かつてはわたしの手もとにあった絵だ。
夏のあの日をカンバスに閉じ込めた絵。

「やっぱりきたわね。おひさしぶり」
わたしは正方形のソアァにすわっている。
背後から声が流れて来た。
はるかな年月のかなたから蘇って来た声。
やはりK子だ。
K子だった。
……ながいこと失われていた懐かしい声だった。
「でもひさしぶりだなんて、なんねんぶりだと思うのですか」
「ふりかえらなくていいわよ。
ふりかえらないで。
六十年はたっている……もうわかってもいいのに?
まだ、わからないの?
わたしにとってはつい昨日のことよ」

わたしは背中合わせに彼女のぬくもりをかんじていた。              
 
失神から覚めたわたしは。
あのとき。
あの水神の森で。
彼女にだきしめられていた。

「あら、あなたたちそういう関係だったの」
若かりし頃の女流画家のMがわらった。



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朱の記憶/麻屋与志夫

2011-07-24 08:20:39 | Weblog
2 

日本橋を渡りMの回顧展に向かうころから、胸騒ぎがしていた。
なにか起こるかもしれない未来の予感。
過ぎこしかたがよみがえるかもしれない不安。
未来への予感。
いまわしい過去が蘇生するかもしれない不安。
わたしは、ふたつの悩みをかかえていた。

銀座方向からきて、橋を渡りきる。
左側に日本橋川に沿ってゆったりとした半月型の建物がある。
鈍色の粘つくような水の流れに沿っているための弧。
旧帝国繊維の本社である。

わたしはわざわざその建物の正面玄関までいってみた。
玄関といっても長い建物の手前に入口があるだけだった。
そしていまは大栄不動産株式会社の名が定礎にきざまれていた。
妻は不審そうに……。
わたしの唐突な行為を……。
橋を渡り切った地点に佇んで、凝視しているだけだった。

「いまここで別れたらもう会えないわ」

あのとき、K子は日本橋の中央の里程元標のところまでわたしを送ってきた。
わたしは、せっかく勉学のため上京したのに。
病弱な父の看病のために帰省を強いられていた。
日本橋の本社に栄転するまで、K子は鹿沼工場で事務員をしていた。
わたしの家は町の西の隅でロープ工場を経営していた。
繊維関係の同業だった。
亜麻を主原料として。
消防用のホースをはじめ麻布やズック。
などを製造している大企業には及びもつかない。
それでもなにかと用事をつくっては。
父の代理を装って東側の台地の裾。
黒川の向こうまで長い時間かけてでかけていった。
あの頃からすでに病弱な父は外出しなかった。
あまり距離があるので、隣町まで歩いたような錯覚がした。
それでも、K子に会いにいった。
細面で色白の顔に黒い瞳が光っていた。
白い歯が清潔に光かっていた。
すごく健康的なのになにかの拍子にさっと憂いが顔をかすめる。
するとわたしはなにかまずいことをいったのかと不安になる。
彼女と会っているとわたしはいつもどきどきしていた。
「どうしたの」
とすこし首をかしげてわたしをのぞきこむときの。
優しい慈愛にみちた表情。
母のいないわたしは年上の彼女に母の面影をもとめていたのかもしれない。

そうした、終戦後のある午後。
名古屋の大原製綱の社長の添え書きのある名刺をもってMが尋ねて来た。
「亜麻布を世話してあげてください」と名刺には書いてあった。

地方でなくても女流画家はめずらしかった。
カンバスは亜麻布。
ともかく帝国繊維の工場がある。
製造元があるのだからいくらでも入手できた。
「信じられない。あるところにはあるものね。それもこんな大きな布が、格安で。信じられない」
よろこびのことばを連発した。
Mはしまいに感きわまって涙をこぼしていた。
このひとは東京でわたしの想像もつかない苦労をしているのだ。
お礼にわたしを描いてくれるという。
わたしは旧制中学の三年生。
恋しりそめしとしごろだった。
ひとりでは恥ずかしいのでK子をさそった。
ひそかに恋こがれていた年上の女性だ。
幼くして別れた母の顔は、おぼろげにしか覚えていない。

日本初の水力発電の機械が配置されていた。
発電機は稼働していなかった。
その事実は半ば伝説と化していた。
名前だけは「水神さん」としてのこっていた。
発電所の跡の建物の前にひろがるグランドには青いたそがれの気配が漂っていた。
鬱蒼と茂った木々のかなたに日光山系がみえがくれしていた。

そこで、はじめてバアミリオンの真紅の赤を見た。
 


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