田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

下痢26  麻屋与志夫

2019-11-24 05:44:21 | 純文学
26

 ――七十三だったはずだ。八年間も注射のしつづけだったので、しまいには針をつきたてるところがなくなって、手の甲にしていた。
 ――そんなにひどいものなのか。
 ――言葉で表現するのがむずかしい。記録しておこうと、書き留めても、そのつどリアリティのない言葉をつらねることになってしまう。だいたい、直腸癌の末期患者の介護記録なんて残す価値があるのだろうか。
 モーニングサービスでついているトーストをパクつき、ぼくだけコーヒーではなくレモンスカッシュ……のスライス、をとりだして口に入れる。
 御蔵跡の履物屋、お得意さんをめぐり吸いすぎたタバコで荒れた口腔いっぱいに爽やかな匂いがひろがる。
 朝のきりこむような感触。
 ――あいかわらずレモンをさきにつまむくせ、なおらないのだな。
 するりと、彼の言葉から逃れてぼくは訊き返す。
 ――仕事はおもしろい?
 ――おもしろくないわけないだろう。すきで選らんだ道だ。
 ――偏業の因縁。
 ぴったりと呼吸が合って、過去にいくたびか口にした言葉が同時にふたりの声でつぶやかれる。
 彼の口元。かれの唇の動き。
 
 街の騒音がふいに遠のき、ぼくは公衆電話ボックスの中で逆上して、断じて故郷鹿沼にはもどらないとわめきだした。わめいているのだが、声はよそよそしく耳にひびき、しまいにはしょぼくれ、よそよそしくなり、姉に説得されてしまう。受話器をもった手がふるえていた。父の発病(一滴の真っ赤な血がはるか隔たった空間で純白の便座に付着していた)――を知らされたのだった。絶望の底へ引きもどされる。ようやく逃げだした故郷なのに、北関東の北端、どんずまりの街、鋳型にはめ込まれたような生活圏に下降してしまう。ぼくはふたび、東京にもどって、小説を書く生活にはもどってこられないだろ。不安にふるえていた。悲しみ、悔しさぼくはボックスの底に坐りこんでしまった。

 微笑。
 彼の微笑がぼくを現実に引きもどす。
 ――オマエさん、だいぶ肩幅がひろくなつた感じだな。
 ――労働したからな。
 あれから、八年たっている。……ぼくは眼をつぶる。
 幻影は消えている。
 饒舌な彼の声だけが昆虫の羽音のようにひびき、ぼくはしきりとうなづき、あいづちを打っいる。



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