南京事件に関する不合理な点を上げていくと、切りがありません。
この機会に、他の事実も氏の遺書から紹介します。次の指摘も大きな問題提起ですが、世間は何の注意も払いませんでした。
「戦火が南京に及んだ12月12日、多くの外国人記者はパネー号に乗り、南京を脱出した。」「南京に残った記者は、次の5人である。」
1. ダーディン ( ニューヨーク・タイムズ )
2. マクダニエル ( AP通信 )
3. アーチポールド ( シカゴ・ディリーニュース )
4. スミス ( ロイター通信とブリティシュニュース代理人 )
5. アーサー ( パラマウントニュース映画 )
虐殺があったとされる期間にこれらの記者が書いた記事は、日中兵士の戦闘や、衝突事件など、ほとんどが小さな一段ものの雑記事でした。
「当時、中国のニュースを独占していた、ロイター、AP、UP、アブスなどといった大通信社の記者が、」「南京や上海に常駐していながら、アウシュビッツに匹敵するような、中国人の大量虐殺事件を、見過ごしていたなどということは、とうてい考えられない。」
事件に関する特大ニュースも社説も無かった事実を指摘し、氏は、南京事件の捏造を訴えています。小規模な戦闘行為や、殺人事件があったとしても、裁判で語られるような大量殺人は無かったと、氏が語ります。しかしここで私は、「両論併記」を考え東京日日新聞の記者と、早大教授の主張を紹介します。二人は、南京虐殺を肯定しています。
1. 鈴木次郎 東京日日新聞 ( 東京裁判が終わった後、南京での虐殺を見たと名乗り出た 。)
「光華門に通じる道路の両側に、えんえんと続く散兵壕とみられる中は、無数の焼けただれた死体で埋められ、」「道路に敷かれた沢山の丸太の下にも死体があり、腕、足の飛び出している有様は、まさにこの世の、地獄絵図である。」
2. 洞(ほら)富雄 早稲田大学教授 ( 自身の目撃した意見でなく、虐殺肯定派の証言に基づく主張。)
「12月13日の、城内掃蕩後の惨状は、目を覆いたくなる体のものであった。」「南京の一部の城門近くで見られた、中国人の遺棄死体の状況はそんな、生易しいものでは無かった。」
「日本軍はいく日もの間、通路の死体さえ、片づけようとしなかった。いや、なかなか片づかなかったのだ。」
「それほど、おびただしい死体の数だった。」「そうした累々たる遺骸の上を、あるいは、山と積まれた遺骸の上を、軍用車が、情け容赦なく、踏みにじって通っていた。」
今回まで日本人の証言の中から、南京戦に参加した下記軍人の意見を意図的に省略しました。事件当事者は不利なことを話さないと考え、ブログの公平さを考えそうしました。
鈴木記者と洞教授の意見を読み、決めたルールを破り、土屋中隊長と西坂兵卒の証言を紹介することにしました。相反する証言なので驚かれるかもしれませんが、いずれかが嘘をついています。息子たちと、訪問された方々は、どうか自分で判断してください。
1. 大西一(はじめ)大尉 上海派遣軍参謀
2. 岡田尚(たかし) 松井司令官付き陸軍通訳官
3. 岡田酉次少佐 上海派遣軍特務部員
4. 谷勇大佐 第十軍参謀
5. 吉永朴(すなお)少佐 第十軍作戦参謀
6. 金子倫介大尉 第十軍参謀
7. 土屋正治 歩兵第十九連隊 第四中隊長
8. 西坂中(あたる) 歩兵第三六連隊 兵卒
〈 土屋正治 〉 ( 歩兵第十九連隊 第四中隊長 )
〈 西坂中 (あたる) 〉 ( 歩兵第三六連隊 兵卒 )
「光華門の城壁の一角を占領したが、たび重なる敵の襲撃を受けて、死傷者が続出し、悲惨な戦闘を続け、12日の夜を迎えた。」「ところが夜中に、敵の射撃がピタリと止まった。」「どうも、様子がおかしい。」「よくある、支那軍の退却パターンである。」
「次の日城壁をよじ登って、夜明けの南京市内を見れば、各所に黒煙が上がるのみ、敵兵は、一人もいない。」「実に森閑たる、街の風景である。」「場内には、敵死体もなければ、ほとんど破壊の跡もなかった。」「問題は、城門の外や、城壁上である。」
「部隊は直ちに戦場掃除に取りかかり、敵味方とも遺体を集め、友軍のものは荼毘に付し、敵の屍体は、ねんごろに埋葬した。」「福井県には門徒が多いので、兵隊の中で読経できる者を集めて、その夜は一晩中読経し、恩讐を超えて、読経したことを覚えている。」
余計なコメントをせず、今回はここで終わりとします。