ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

これからやるべきこと ( お迎えは、万人平等 )

2011-06-12 09:31:03 | 徒然の記

 小学校、中学校、高校、大学、そして会社勤めを38年、振り返ると、自分の足跡はこんなに呆気ないものだった。

 定年退職後、かっての会社と無関係な場所で職を得、月に何度か都内で働いているが、責任も権限も無い単純作業で、周りから「派遣のおじさん」などと呼ばれ、名前すら不要になってしまった。

 定年を迎えるまでは、休まないこと、遅刻をしないこと、弱音を吐かないこと、仕事に手抜きをしないことと・・・・誰に言われた訳でなく、そういうものと信じ暮らして来た。

 世間の誰もがやっていることだから、大した話ではないのだが、それでもやっぱり張りつめた気持ちで、頑張っていたのだと、「派遣のおじさん」になり初めて知った。

 おじさんの勤務は毎月ランダムで、通勤のラッシュとも無縁な時間帯になり、取ろうと思えば、連続一週間の休みだって取れる。せき立てる上司はもちろんのこと、気配りすべき部下もいない。一抹の淋しさはあるものの、取り立てていうほどの責任もない、気楽な立場。それが今の自分。

 ああ、もう走らなくていいんだと、駆け続けたランナーが、足を止め、安堵する時の気持ちとでも言えば良いのだろうか。新聞でもテレビでも、時間を気にせず安心して見られ、パソコンにだって、こうして何時間でも、自由に向かうことができる。やりたいことがあれば何でもやれ、気が向かなければ何もしなくていい。放縦とも言える、この無制限の自由を律するものがあるとすれば、それは自分の意志だけだ。

 以前と同じ日本で、同じ時代の日常なのに、それはまるで、異次元の世界みたいな新しい発見でもある。

 金のかからない趣味を探し、その時々の時間を有効に使えば、それで充分。健康に留意し無理をせず、知足安分で慎ましくすれば、年金暮らしもまた楽しというところか。肩の力を抜き、せかせかした心を落ち着かせ、自民党とか民主党とか、躍起になり考えることだって、控えて良いのかも知れない。

 そうするともう、あとに残るものと言えば、万人のもとへ訪れる、死への準備ということになる。若い頃は未来が果てしないものに思え、何かしなくてはと、焦燥に駆られることが一度ならずあったが、ここまで来ると、人生の終わりが何となく感じられる。

 いよいよその時がやって来るかと、かすかな不安と奇妙な期待と、そして何かしら厳粛な静謐が生まれてくる。子供たちに負担や迷惑をかけず、長患いせず、痴呆にもならず、せめて辞世の句でも残せたらと、相変わらず欲張りなことを考えてしまうが、これこそが私の「これからやるべきこと」であるに違いない。

 いやいや、「やるべき」などと堅苦しいものでなく、死は季節の移ろいや潮の満ち干と同じ、必然の現象に過ぎない。

 年寄りたちがよく口にしていた、「お迎え」というものなのだろうが、貴賤貧富の区別無く、すべての人間に訪れてくれる「お迎え」は、まさに人間平等の最たるもの。ふんぞり返っていた奴も、贅沢三昧していた輩も、鼻持ちならない性悪の極道も、綺麗サッパリ終わらせられる。

 なんとも、有り難いことではないか。

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