ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日本の神々の謎 - 4 ( 邪馬台国と、大和朝廷の関係 )

2018-10-25 22:33:11 | 徒然の記

 武光氏の著書を読む以前から、私には素朴な疑問がありました。

 それは、卑弥呼の邪馬台国と、大和朝廷の関係です。「西暦238年、卑弥呼」と、高校生の頃、受験のため機械的に覚えていましたが、両者の関係が未だに判然としません。ネットで検索しますと、驚くべき情報を得ました。どこまでが正しい説明なのかわかりませんので、とりあえず紹介します。

 「邪馬台国の卑弥呼が死んだのは、西暦240~249年だ。」「そして、日本の歴史が明らかになるのは、592年以降(飛鳥時代)である。」

 「では、249年~592年の間、日本で何が起こっていたのか? じつはこの間、確かなことは何もわかっていない。266年~413年に、中国の文献から、倭の記述が消えてしまうからだ。」

 日本にはまだ文字がなく、中国の文献からしか、動静を知ることができませんでした。当時の中国が周辺国を夷狄と蔑み、世界の中心は自分の国だと、誇った気持ちが分かります。中国が関心を失えば、日本の記述がなくなり、歴史から消える事態になります。

 当時の中国は現在のアメリカより、ずっと大国であり文明国でした。

 「そのためこの間は、〈空白の4世紀〉と言われている。ただ中国『二十四史』を丹念に読めば、少なからず倭の記述がある。そしてその中に、この時代を明らかにする鍵が含まれているのだ。」

 わずかな記述を、後世の学者や市井の歴史好事家が読み、邪馬台国の議論が生まれました。九州にあったのか、奈良地方に存在したのかと、今でも論争が続けられています。今回私が得た情報は九州説で、次のように説明しています。

 「邪馬台国の場所は、九州北部に間違いないだろう。」「さらに、卑弥呼が死んだ後も、邪馬台国または、邪馬台国を継承した九州政権が存続し、中国に朝貢したことも、確かである。」「また同じ頃(西暦300年)奈良盆地に、大規模な前方後円墳が出現する。」

 「前方後円墳は大和朝廷の象徴なので、」「この頃、奈良に大和朝廷(ヤマト王権)が興ったことは間違いない。そしてこの王権が飛鳥時代に継承され、今の皇室につながっている。」

 「ということで日本の政権が、遅くとも7世紀までに、邪馬台国を継承する九州政権から、大和朝廷(ヤマト王権)に移ったことは確かだが、それがいつ、どのような形で起こったか分からない。それどころか、邪馬台国と大和朝廷(ヤマト王権)の関係もはっきりしない。」

 邪馬台国を継承する九州政権を、「邪馬台王統」と呼び、奈良に起こった大和政権を、「大和朝廷」と呼んでいます。ここで語られている王朝は、この二つしかありません。

 わざわざこの九州説を強調するのは、第一回目のブログで紹介した、安達巌氏と山崎謙氏を思い出すからです。

 両氏は大和朝廷に対峙するものとして、出雲王朝を取り上げていました。偶然にも二人は、古代の日本を二分していたのは、大和朝廷と出雲王朝だと説明します。出雲の神様の分布は、山陰地方だけでなく、奈良、京都、長野県の諏訪にまで広がり、大きな勢力だったと説明します。二人の頭の中には、邪馬台国が存在していません。

 「 古代史はパーツを失ったジグソーパズルだ。」「百人居れば百通りの説があってよいと考えます。」

 私のブログにコメントをくれた方の、話の実例ががそのままここにあります。

 武光誠氏は出雲王朝を、大和朝廷に対峙する巨大勢力として語りませんが、邪馬台国の叙述をしていない点では、安達・山﨑氏と同じ範疇の学者になります。「幻の邪馬台国」「古代史の神秘」と言われるのは、こうした事実から来るのでしょうが、私には「未完の古代史」となるだけで、神秘やロマンは感じません。

 そういう意味では、邪馬台国抜きで語られる神話は、最初から大きな虚構の上に築かれた一大叙事詩、という解釈が妥当な気がします。それでも神話に対する私の敬意は不変で、その理由は前のブログで述べた通りです。

 「いわば当時の神話は、明治憲法と同様の役割ではなかったかと、理解いたします。いずれの場合も、国の統一を図り安定と発展を願い、天皇を国の中心に据えたという、為政者たちの知恵が共通しています。」

  学者や知識人中には「神話の不合理」を批判し、「近代精神」にそぐわない作り話と片づける人間がいます。こういう学者は大抵西洋崇拝者が多く、日本は何でも前近代的と決めつけます。
 
 先月取り上げた橋川文三氏にも、その傾向がありました。氏は、ルソーを高く評価し、ルソーの説くナショナリズムが本物で、日本では吉田松陰がやっとそのレベルにあったと、奇妙な説明をした大学教授でした。
 
  「ルソーの思想の重要性は、いかに誇張しても誇張しすぎることはない。」「ルソーの与えた理論的土台の上にのみ、19世紀のナショナリズムは、築かれることができた。」「ルソーの理念は、人々がこれまで、馴染み深い環境や習慣に向けていた、感情や忠誠心を、より抽象的な実体、すなわち政治的共同体に移さねばならない、というところにあった。」

 「一般意思は、ルソーの国家哲学の、根本概念である。それは主権者の意思であり、国家の一体性を形成するものである。」

 橋川氏はルソーを手放しで誉めましたが、「一般意志」も「主権者の意思」も、現実には存在しない虚構の概念です。ルソーは、国家哲学を組み立てる上で、こうした虚構の概念を考え出しました。

 そうだとすれば、神話という国家哲学のため、古代人が考案した虚構も同じ見方ができるはずです。千年以上も昔の神話ですから、今日の学問レベルで比較すること自体が間違っています。

 太安万侶や舎人親王に、頼まれた訳でありませんが、橋川氏のような西洋かぶれの学者に対して、子孫の一人としてご先祖様のために反論したくなります。

 書評はやっと70ページで、三分の一も進んでいません。天照大神、月読尊、素戔嗚尊と、神話はこれから本論に入ります。

 「天照大神と天岩戸 ( あまのいわと ) 」、「素戔嗚尊の八岐大蛇 ( やまたのおろち ) 退治」、「大国主命と白兎、」、「武甕槌神 ( たけみかづちのかみ ) と国譲り」、と続きますが、それらをすべて割愛し、明日は武光氏の「後書き」を紹介し、総まとめといたします。

 こういう読み方が正かったたのか、どうか、今も分かり兼ねますが、私は既に、神話の価値と、日本史での位置づけにつき結論を述べてしまいましたので、これ以上書評を続ける意味がなくなってしまいました。

 姿勢を正し、本は最後まで読みます。

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日本の神々の謎 - 3 ( 天神 (あまつかみ) と国神 (くにつかみ) )

2018-10-25 12:23:21 | 徒然の記

 純粋な学問として取り組むか、それとも皇室の歴史として拝読するかの違いにより、神話の位置づけや性格が異なります。

 戦前は、平泉澄 ( きよし ) 氏に代表される皇国史観が絶対でしたから、武光氏の著作は、不敬罪に問われたのかもしれません。私のように、学徒として歴史に向かう人間には、客観的な叙述が参考になりますが、その分、皇室崇拝という気持ちからは、遠ざかっていくのかもしれません。

 「古代の大和朝廷の信仰は、難しい言葉で言えば、首長霊信仰に基づくものであった。ある集団の指導者を首長と言い、首長霊信仰とは、世襲の首長の祖先を、その集団をまとめる神として祀るものである。」「皇室が、皇祖神とされる天照大神を崇めるのは、その代表的な例だ。」

 「6世紀の皇室は、自家の首長霊である天照大神を重んじたが、朝廷を構成する豪族は、それと関わりなく自家の首長霊を祭った。大伴氏にとって大切な神は、天忍日命 ( あまのおしひのみこと ) であり、忌部氏が祭る神は、太玉命 ( ふとたまのみこと ) であった。彼らは、天照大神を信仰していなかった。」

 6世紀の日本とは、どういう時代であったのか。別途調べてみました。

 「6世紀の日本は、古墳時代の後期にあたる。」

 「ただし、泊瀬部大王(はつせべのおおきみ)(後の崇峻天皇 ) が暗殺され、異母姉の額田部皇女 (ぬかたべのひめみこ) 、後の推古天皇が立てられた。」

 「崇峻天皇5年 ( 592年 ) 以降、または厩戸王 (うまやどのおう)(後の聖徳太子)が摂政になった、推古天皇元年(593年)以降は、飛鳥時代に区分される場合もある。」

 この時代から、およそ100年後に『古事記』と『日本書紀』が作られたと知りますと、苦労して編纂された歴史書の背景が、朧げに分かってきます。あちこち寄り道し、果たしてこのような読書方法で良いのか、自信はないのですが、自分が納得するやり方はこれしか知りません。

 「7世紀後半に、中央集権化がすすむと、天皇家は天照大神を、国全体の守神 ( まもりがみ ) として位置づけようとした。大宝律令という法により、豪族たちも天照大神を祭る朝廷の祭祀に、強制的に参加させられるようになった。日本神話は、この動きの中で、整えられたのである。」

 つまり豪族たちの神は、天照大神の元にある神となり、天皇家の支配を正当づける形で、神話にまとめられたということです。大阪にある住吉三神や、北九州にある宗像三神など土着の神様が、煩雑さも厭わず、詳しく書かれている理由は、ここにあるのでしょうか。

  武光氏のような専門家は、当然のこととして説明をしませんが、私のような門外漢には、もう一つ大切な予備知識があります。それは、天神 (あまつかみ) と国神 (くにつかみ) の違いです。これはネットの情報で、探しました。 

 「天神は、高天原 (たかまがはら) にいる神々、または高天原から天降った神々の総称である。」

 「それに対して、国神 (くにつかみ ) は、地に現れた神々の総称とされている。ただし、高天原から天降った素戔嗚尊 ( すさのおのみこと ) や、その子孫である大国主 ( おおくにぬし ) などは、国神とされている。」

 「日本神話において、国神が瓊瓊杵尊 ( ににぎのみこと ) を筆頭とする天神に対し、国土(葦原中国)(あしはらのなかつくに) の移譲を、受け入れたことが、国譲 ( くにゆずり ) として、描かれている。」

 「大和朝廷によって、平定された地域の人々が信仰していた神が国神になり、大和朝廷の皇族や、有力な氏族が信仰していた神が、天神になったものと考えられる。」

  神話には分からない部分が沢山ありますが、その一つに、氏が答えてくれています。学問的にどうなのか知りませんが、私には納得の出来る説明でした。

 「伊弉諾尊と伊弉冉尊は、国土を創造した神であり、天照大神の親とされる。」「この二神が神話の上で、そのように重視されるにもかかわらず、天皇家が二神を祭った形跡が見られない。」

 「大和朝廷の歴史をみていくと、天皇は、四、五世紀に三輪山の大物主神を、主に祭り、六世紀以降、天照大神を重んじていたことが分かる。」「だから天照大神以前の神は神話上の抽象的な神で、祭られる神でなかったとみるのがよい。」

 氏の説明によりますと、夫婦の創世神が国を生む話は、南方の国に多くあり、南方から移住してきた航海民が、この神を祀るのだと言います。日本で言えば、淡路島の周辺に、夫婦の神にまつわる伝説が分布しているとのことです。

 摂津、和泉、播磨、紀伊、阿波も、航海民の多い所で、彼らの神が、伊弉諾尊と伊弉冉尊として、神話に取り込まれたと述べています。その根拠として、氏は次のように言います。

 「淡路島には、伊佐奈木 ( いざなぎ ) 大社がある。それは朝廷から、一品 ( いっぽん ) という、最高の神階を与えられている。」

 天照大神の神話を権威あるものとするため、創世神を取り入れたことに対する、お礼の意味があったのでしょうか。一筋縄でいかない豪族たちの中で、天皇の権威を抜きんでたものとするため、太安万侶や舎人親王がいかに知恵を絞り、苦心を重ねたのかが伺われます。

 明治維新の頃、伊藤博文や井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らが、欧米列強に侵略されないよう、日本を近代化国家とするため、明治憲法の制定に、心血を注いだ姿が重なってきます。

 いわば当時の神話は、明治憲法と同様の役割ではなかったかと、私は理解します。いずれの場合も、国の統一を図り、安定と発展を願い、天皇を国の中心に据えたという、為政者たちの知恵が共通しています。

 これを思うと、マッカーサーが配下の人間たちに、わずか一月かそこらで現憲法を作らせ、天皇の位置づけを勝手に決めたことは言語道断な話です。幕僚たちが優秀だったとはいえ、日本の歴史も知らず、まして敵国として、快く思わない日本の憲法を作らせるなど、あってはならない話です。

 武光氏の著書は、まだやっと70ページですが、神話はやはり、私に平成の現在を考えさせます。自民党の保守政治家たちは何をしているのかと、神話の神々というより、神話を編纂した天皇や為政者たちが嘆いているような気がしてきました。

 今の学者たちも、考えを改めなくてなりません。小賢しく神話の矛盾を指摘したり、荒唐無稽さを笑ったり、そんな未熟な姿勢で、ご先祖の辛苦を見過ごしてどうするのでしょう。唯一無比の国体、天皇こそが世界一と、そんな頑迷固陋な意見はどうでも良い話で、学者たちの使命は、ご先祖の真意を後世に繋ぐことです。そうなれば、マッカーサーが作った憲法は、作り直さなくてならないという結論になるはずです。

 市井の一個人でさえ、神話の一端に触れただけで、これだけを理解したのですから、現在の反日左翼の憲法学者が、いかに日本の歴史を理解していないかが分かります。現憲法を不磨の大典と崇める憲法学者たちは、古事記も日本書紀も読まない、偽物の憲法学者に違いありません。

 息子たちに、神話を読めとは勧めませんが、神話を編纂したご先祖の辛苦だけは、心に刻んで欲しいと願います。ここが分かっていない政治家や学者は、尊敬する必要はありませんと、これも是非心に刻んで欲しいものです。

コメント (2)
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