音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■Debussy の 「 子供の領分 」 は、どこの出版社の何版を使うべきか■

2012-07-05 21:44:02 | ■私のアナリーゼ講座■

■Debussy の 「 子供の領分 」 は、どこの出版社の何版を使うべきか■
             ~ Golliwogg's cake walk から分かること ~
                                     2012.7.5    中村洋子

 

 

★6月 28日(木)に、金沢県立音楽堂で開催しました、

「 Golliwogg's cake walk 」 アナリーゼ講座から、一週間過ぎました。

その間、参加者の皆さまから、どのような楽譜を使うべきか、

というお尋ねを、たくさん、いただきました。


★幸い、「 Children's Corner 子供の領分 」 の最後の 1曲、

「 Golliwogg's cake walk 」 のみは、

≪ Wiener Urtext Edition + Faksimile ≫ に、

Debussy の自筆譜が添付されています。

第1級の資料です。

何はさておき、これを基に、勉強すべきです。


★この自筆譜の素晴らしさの一例を、挙げますと、

J.S. Bach バッハ  ( 1685~1750 ) の自筆譜と同様に、

まずは、楽曲の構造に即した 「 レイアウト 」 で、書かれています。

「 レイアウト 」 というのは、 1段に何小節を配置し、

1ページを、何段とするか、ということです。

一見、単純なことですが、ほとんどの実用譜は、

この 「 構造の分かるレイアウト 」 を、完全に無視しています。

また、ディナミークの記譜された位置も、作曲家の重要なメッセージですが、

それも、極めてぞんざいに、扱われているのが、現状です。


★例えば、 7小節目の右手 「 p 」 の始まる位置ですが、

ドビュッシーは、1拍目の 8分休符の上に、明確に 「  p 」 を記しています。

たとえ、右手が休符 ( 音が出ていない ) であっても、

ドビュッシーは、明確に、音が出されていない右手の音空間を、

 「 p 」 で弾くべきである、と主張しているのです

 

 


★別の例として、

15小節目と 16小節目を区切る小節線の真上に、 「 」 を、記しています。

さらに、同様に、 37小節目と 38小節目を区切る小節線の上に、

 「 」 を、置いています。

皆さまがお持ちの楽譜は、どのようになっているでしょうか?


この二つの、小節線上の 「 」 が意味するところは、

1拍目の音を打鍵する瞬間より前から、 「 」 を意識して、

 「」 を準備すべきである、ということです。

そのように意識しますと、演奏が大変に容易になってきます。


★自筆譜を読み込む、ということは、作曲家の考えに、

できるだけ近づき、曲の意図を読み取り、

演奏を正しい意味で、容易にすることです。


★学者の、衒学的な仕事としてではなく、

知識を、ひけらかす物知り博士のための考証でもなく、

作曲家が望んだ演奏に、可能な限り近づくための営為です。

 

 


★もう一つの例。

28、 29小節目の左手は、大半の実用譜が、符尾を上に向け、

斜め右上がりの符鉤で、つないでいます。

それは、ごく通常のありきたりの記譜です。


★しかし、ドビュッシーは、そのようには、書いていません。

28小節目 1拍目 「 g b 」 の二和音については、符尾を上向きにし、

次に奏される 「 b1 」 の符尾は、下向きにしています。

そして、その二つを、横真一文字の符鉤で、連結させています。 

これは、 Bach をはじめとする、大作曲家がよく用いる、

深い意味のある、記譜なのです。


★これらドビュッシーの意図を、忠実に反映させている実用譜は、

見つかりません

しかし、いくつかの良心的な楽譜を揃え、

Preface や Remarques に書かれている、編集者の根拠を分析し、

その上で、皆さまは、「 自分の版 」 を、作っていくしかありません。


★いくつかの、良心的な版を、ご紹介いたします。

「 Children's Corner  子供の領分 」  全曲の、実用譜としましては、

≪ Wiener Urtext Edition   Stegemann/Béroff 

 ヴィーン原典版 ベロフ/フィンガリング ≫ を、お薦めいたします。

ベロフのフィンガリングは、Fingering 本来の意味、つまり、

「 曲の構造を示す 」 ことを、目的としており、

Edwin Fischer エドウィン・フィッシャー (1886 ~ 1960) や

Bartók Béla  バルトーク (1881~1945) の校訂した Bach 作品の、

Fingering と同じものを、目指しています。


★また、Durand 版 「 Complete Works of Debussy , 

 Series Ⅰ, Volume 2. Roy Howat 校訂 

 ドビュッシー全集シリーズⅠ、第2巻 ロイ・ホワット校訂 」 も、

お手元に、置く必要があります ( 私は2006年版を所持 ) 。

しかし、日本で昔から Durand 版として輸入されてきた、

「 Edition Originale 」 と記されている 「 Children' Corner 」 は、

Roy Howat 校訂 以前のものです。

いまや、あまり参照すべきではないでしょう。

 

 


★その理由は、例えば、 31、 32小節の 「 più P 」  を見ますと明らかです。

ドビュッシー自筆譜は、この部分を、実に絶妙な書き方をしています。

まず、31小節が終わる少し前から、 “ più ” を描き始め、

31小節が終わるところで、 “ più ” を書き終えます。

そして、 32小節第 1拍目の音が奏される、直前のところから、

 “ P ” を始めています。

しかも、“ P ” の記号は、斜めに大きく傾いており、

 “ P  ” 記号の左端は、

31、 32小節を区切る小節線に、接しています。


なんと、音楽的で分かりやすい記譜でしょうか。

これを見て演奏すれば、ドビュッシーから直接、

レッスンを受けているような、気持ちになります。

本当に、弾き易いと、思います。


Durand  「 Edition Originale 」 では、 “ più ”  を 32小節の初めから、

書き始めており、当然のことながら、

P ”  は、左手二つ目の音符 「 c 」 のところ、

つまり、小節線よりかなり離れた遠いところに、位置しています。

これでは、ドビュッシー自筆譜のニュアンスは、消滅してしまいます。


新しい Durand  「 Roy Howat 校訂 」 では、

自筆譜通りに、 “ più ” を、 31小節から書き始め、

32小節に、ほんの少し入りこんだ所で、終わっています。

続く “ P ” は、32小節最初の音符の真下に、位置します。

P ” 記号の左端が、小節線に接する、

自筆譜の絶妙なニュアンスは、失われていますが、

それでも、かなり、忠実な楽譜といえます。


★その他、 Bärenreiter  ベーレンライター  ( 私は2006年版を所持 ) も、

参考に、なります。

脚注が、詳細に書かれています。

 

 


上記の楽譜は、ピアノを指導される方は、最低限、

すべて、揃えておくべきでしょう。

数十年前の、ぼろぼろになった楽譜を一冊だけ、というのは、

自慢すべきことではなく、滑稽です。

ピアノの先生がたは、楽譜に無頓着で、自筆譜や、

新しいヨーロッパの版に、興味をもたない方が、多いようです。

これは、恥ずべきことと思います。

 

私は、今回、この 「 Golliwogg's cake walk 」 講座のために、

一応、日本人校訂の、人気ある楽譜を、

いくつか、目を通しました。

大変に有名な、 「 校註 」 本には、ペダルの指示が煩雑に、

書き込まれていました。


★「 una corda ウナコルダ 」 すら、たくさん見られます。

una corda を多用しますと、自分の指で音色を変化させるという、

最も基本的で、大切な訓練が、おろそかになってしまいます。

上達を、妨げます。

 

 


ドビュッシーは、「 Golliwogg's cake walk 」 の自筆譜に、

一切、ぺダルの指示を記していません。

Debussy は1912年、「 Children's Corner 」 の自演を、

piano roll に録音し、後世に残しています。

この録音は大変に有名で、その名演が語り継がれており、

現在でも、CDで聴くことが、可能です。

この自作自演で、ドビュッシーは、当然ながら、

ペダルを、使っています。

大変に、素晴らしいペダリングですが、

「 una corda 」 による音色変化は、

私は、聴き取ることができませんでした。

「 ぺダリングは、演奏者が自分で考えてすべきもの 」

というのが、ドビュッシーの考えだったと、思います。

これまでご紹介しました海外の版でも、

ぺダルの指示を、記載しているものはありません。


★あまりに多くの指示や、指使いが書き込まれている楽譜は、

一見、親切そうに見えますが、自分で音楽を分析し、

創り上げる力を、養うことができません。

“ 教えてもらった通りの、演奏しかできない ” 、

“ 教えてもらわないと、弾けない ” 、という惨めな結果になります。

真の音楽家は、育ちにくくなります。

日本で、戦後これだけ ピアノ人口 がありながら、

本当の maestro が、生まれていない理由とも、

関連しているかもしれません。

 

 

 

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