そこそこの放送作家・堀田延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこのブログ。
人生そこそこでいいじゃない



僕的には、10年に一度の傑作、いやある意味(怪獣ゴジラの映画を1作目以来初めてちゃんと成立させたという意味で)50年に一度の傑作だとすら思っている。
日本映画史に残る傑作である。
初代「ゴジラ(1954年)」や「七人の侍」「東京物語」「犬神家の一族」に匹敵する名作。
そう信じる理屈を以下に雑文で述べていく。
少なくとも僕が、庵野秀明監督(とこの「シン・ゴジラ」という映画を完成させた製作者たち)にとんでもないジェラシーを感じているということは理解して欲しい。
この「シン・ゴジラ」を観てジェラシーを感じないクリエイターは、全員ニセモノだと思う。
そのぐらい「シン・ゴジラ」は突き抜けている。
うらやましくて仕方ないのだ。
尖ったもので当てたのだ。

人間ドラマの排除。
先に述べたように、いわゆる「ドラマ」を全く描いていない。
脚本家教室や演出論を論じた書籍などで、マストとされる「ドラマ」。
それを完全に排除している。
なのに感情移入出来るという奇跡。
日本という実体のない概念そのものに感情移入させるという構造。
手法として全くもって新しい。
ゆえに日本人以外には(本当の意味では)理解できない映画になっている。
だからこそ、僕はこの「シン・ゴジラ」を日本映画史に残る傑作だと断じるのだ。

リアリズムの徹底。
映画におけるリアリズムとはなにか。
映画という虚構の中でリアリズムを追求したとき、庵野秀明監督は、語るべき物語の器はすこぶる現実に即したもの、そしてその中に登場する人物はおしなべて虚構の人物という答えを用意した。
328人も登場する役者たち。
ワンシーンにしか登場しない役者たち、その物量を積み重ねることによって、庵野秀明監督は「個々の役者の記号化=個性の排除」を徹底している。
つまり、全ての登場人物は、リアルを物語るための単なる歯車にすぎない。
だから、観客はリアルなものとしてこの物語を受け入れる。
例えば、劇中に何度も出てくるテレビ局のアナウンサーやレポーターを見てみよう。
リアリズムを演出するために、たいていの映画やドラマがここに、実際我々が暮らすこの現実世界で顔を知られている有名アナウンサーや有名レポーターを実名で出演させる。
それ自体とても簡単だし、それをリアルの表現手法だとして全世界の表現者たちが当たり前のように多用してきた。
だが「シン・ゴジラ」には、現実世界で見たことのあるアナウンサーやレポーターは1人も出ない。
フジテレビのカトパンは出て来ない。
芸能レポーターの東海林のり子や阿部祐二は出て来ない。
そうではなく、アナやレポーターにも虚構の人物を(あえて)使う。
全ての登場人物を虚構でまとめ上げることで、全体としてのリアリティを担保する。
これも庵野秀明が(もしかしたら直感的に)選択したリアリズムの表現手法である。

読めないテロップ。
多用されるテロップは尺が短すぎて読み切れない。
だが、読む必要はない。
出すことが大事なのだ。
そこに書かれているのは、完璧なまでに正式な情報だ。
自衛隊が保有する兵器の正式名称、政治家たちの正式な肩書き、戦闘がおこなわれる地域の正式な地名、etc…
あえてそれらを読めない尺で文字表記するのは、正確な情報を文字で出し続けることによるリアリズム表現である。
正しい情報を文字で出し続けることによって、庵野秀明監督はゴジラという虚構の出現すらリアルの領域に引きずり込むのだ。

死を描かない。
普通の映画だと「うわぁぁぁぁぁっ!」とか言って死ぬ市政の民が必ず描かれる。
だが「シン・ゴジラ」には一切そういった描写がない。
死自体はたくさん起こっているのに、死を直接的に描かないことによって逆にリアリズムを表現している。
考えみれば、我々現代人は普段の生活の中、死の瞬間を目にすることはまずない。
事件が事故が起こっても、死者の「数」や「顔写真」だけを知り、死の瞬間まで映像で見ることはない。
だからこそ、庵野秀明は今回の映画で直接的な死の描写を一切排除している。。
だからこそ劇中で起こる災悪がリアルに見えるのだ。

とにかくスゴイ映画だ。
日本人の中にはこの映画を「嫌い」だと感じる人もいるだろう。
そんなのは当たり前で、100人中100人が絶賛するエンタメなど世の中には存在しない。
だが「シン・ゴジラ」が、かなり多くの日本人の心を揺さぶり、日本人に生まれた現実をプラスに感じさせてくれるポジティブな読後感を味あわせてくれる良作に仕上がっているという感想は決してウソではなかろう。
少なくとも多くの人々を(日本人を)、興奮させ、感動させ、日本人であることの誇りと宿命と背負った過去を感じさせてくれる映画がこの2016年の世界に生まれたことは大いに祝福していいと思うのだ。

あとひとつ。
あとで思い出して泣けるという映画はあまりない。
泣けるのだ、「シン・ゴジラ」。
劇中で描かれた日本があまりにも美しすぎて。

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「シン・ゴジラ」の関連作として観賞。
その感想。

すごい!
いやぁすごい!
こんなにハチャメチャで破綻していてトンデモ展開だらけなのに全体としてとても面白い映画は珍しい。
星は3つ半。★★★1/2

無茶苦茶なのにスタイリッシュ。
沢田研二と菅原文太と池上季実子の魅力で観ていられる不思議な映画。
大いに気に入った。
「新幹線大爆破」がわずかなトンデモ展開で一気にしらけるのとは違い、突き抜けたトンデモ展開を積み重ねていくとそれはそれで気持ちよくなっていくという新たな発見。
さすが何かの雑誌のアンケートで「面白かった邦画歴代第3位」に選ばれているだけのことはある。
ところどころ無茶苦茶なのに許せてしまうこの感覚はなんなんだろう?
不思議だ。
確かに池上季実子演じるDJは、「シン・ゴジラ」での石原さとみに重なる。
最後の沢田研二と菅原文太の決戦の舞台は科学技術館屋上だ。
そういった「シン・ゴジラ」とのつながりもご愛嬌。

以下ネタバレ含む。





映画のラストなんて、どうやら東京のど真ん中で原爆が爆発して終了(笑)。
そんな終わりかよ!
格好いいと言わずにどうするのか?
スゲーな、この頃の日本映画。
作家性だよね、作家性。
大事なのは作家性なのだよ、最終的には。
どれだけヒットしようが作家性がなかったらそれはただの消耗品に過ぎないのだ。

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