そこそこの放送作家・堀田延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこのブログ。
人生そこそこでいいじゃない





着実に口コミが広がっているようだ。
世紀の傑作「シン・ゴジラ」。
興行収入100億越えのメガヒットを目指して欲しい。
そのぐらいこの映画に僕は思い入れを持ってしまった。

ではこの映画のいったい何がすごいのか?
多くの観客が本能的に「面白かった」「すごかった」「感動した」と述べているが、本質を見抜いている人は実は数少ない。
賞賛の根底にはある1つの理屈がある。
リアルを最大限表現するために徹底した「ドラマツルギーの排除」だ。

ドラマツルギーとはなにか?
人の「変化」である。
変化とは具体的には、例えば「成長」、例えば「失ったものの補完」、例えば「葛藤の末の選択」などを指す。
映画が始まった時点をAとする。
映画が終わった時点をBとする。
この AからBへ行く間に、映画やテレビドラマの登場人物は、必ずこの「変化」を遂げる。
なぜなら、そうではないとダメだと世界中のクリエイターが本能で悟っているからだ。
実際、この「変化=ドラマ」がないものは屈指の名作とはなり得ない。
ホラーやサスペンス作品の中にたまにストーリーの面白さだけで押し切っていて、登場人物の「変化」が一切描かれない作品もあるが、それは歴史に残る屈指の名作にはならない。
屈指の名作となった作品は、必ずこの「変化」という名のドラマツルギーを内包している。

しかし、である。
「シン・ゴジラ」には、ドラマツルギーがないのだ。
つまり、映画が始まったA地点から映画が終わるB地点に向かう間、登場人物の誰1人として「変化」がないのだ。
(ドラマあるじゃん、という人は「ドラマ」と「ストーリー」を混同している。「シン・ゴジラ」にはストーリーしかない)

あれほどリアリティで話題になった「ゼログラビティ」。
だが主人公の女宇宙飛行士は劇中で明らかな成長を遂げている。
もう1つの宇宙リアリティ映画「オデッセイ」でも成長や葛藤の描写は随所に見られる。
「シン・ゴジラ」に構造的にはとても似ている「インディペンデンス・デイ」(昔のヤツ)。
だが大統領は別れた妻との絆を取り戻すし(喪失の補完)、映画の最後には特攻というもっとも分かりやすい献身的成長を遂げる人物すら現れる。
そう、人間ドラマを描かずに済まされる映画やテレビドラマやお芝居は、この世にまずなかったのだ。
そもそも人間ドラマの入っていない脚本は、プロデューサーやらなんやらよく分からないお偉いさんなど、いろんな関係者に指摘を受けて、出来るだけ濃厚な人間ドラマを多く内包するように変更されてしまうのが常なのだ(実際経験がある・笑)。

なぜそんなにストーリーの中にドラマツルギーを入れたいのか?
それは観客に「変化」の疑似体験をさせたいからである。
つまり「感情移入」の対象となる登場人物を、劇中で「変化」させる。
これによって、現実の人生ではなかなか(したくても)実現できない「成長」や「喪失の復権」や「葛藤の末の選択」を、観客に味あわせてあげる。
そうすることで、観客は「変化」の疑似体験により、深い感動を覚えたり、大きな満足を得て、劇場をあとにするのである。

今までの映画、テレビドラマは、!00%この「人間ドラマ」を(無理をしてでも)入れ込んできた。
そうじゃないと、プロフェッショナルたちに「バカ」とか「阿呆」と、あとで後ろ指を指されるのだ。
だから必死に映画やテレビドラマやお芝居の製作者たちは「人間ドラマ」を描こうとしてきた。
物語の登場人物は(とくに主人公は)、必ずA地点からB地点に行くまでの間に「変化」しなくてはならないのだ。
これが、世界中の「物語(ストーリー)」の基本なのだ。
なにしろ事実を事実として記録すればいいはずのドキュメンタリーですら、世界中のドキュメンタリー作家が「変化」を描こうともがいているのだ。
「変化」が撮れるまで対象に密着しているのが、多くのドキュメンタリーフィルムの現状であり、変化を捉える(変化したように見える)編集こそ、ドキュメンタリー作家たちの腕の見せ所なのだ。

ところがどっこい「シン・ゴジラ」である。
登場人物は誰1人「変化」しない。
ただひたすら、最初から最後まで、自分の職務を果たしているだけだ。
ストーリーがA地点からB地点に行く間に、誰1人として「成長」も「喪失の補完」も「葛藤」もしない。
主人公(だと思われる)矢口蘭童は、映画が始まった時点から職務に燃えていて、映画が終わるときも同じテンションで職務に燃える政治家として終わる。
他の人物も皆そうだ。
誰1人として、ゴジラ襲来という国難に際して、「変化」を遂げていない。
普通の映画製作者なら、例えば、矢口蘭童の妻子を描き、職務と妻子の命を救いに行きたいという想いの間で揺れる若き政治家の葛藤を描くだろう。
竹野内豊演じるクールな政治家には、最初クールなのに、最後では国民の命を救うために熱い決断を下すような成長を描くだろう。
石原さとみ演じる野心家の米国政治家には、最初野心に燃えていたのに、最後、日本人たちの命を救うために自分のキャリアを放り出す選択を下すさまを描くだろう。
少し考えただけでも、人間ドラマを描くための要素はいくらでも転がっている。
そんなものを描くのは簡単なのだ。
なのに、描かない。
完全に排除した。
これが、「シン・ゴジラ」が10年に一度、50年に一度の傑作だと僕が思う最大の理由だ。

つまり、言葉を変えれば、登場人物の誰1人にも感情移入出来ない作りになっているのだ。
では観客はなにに感情移入するのか?
それは、「日本そのもの」に感情移入するのである。
(これは僕のスター・ウォーズファンクラブの友人が指摘してくれたことで、僕もハッとした)
日本そのものへの感情移入という構造。
観客たちがその構造に入り込んでくれるはずと信じて、映画にしたのが「シン・ゴジラ」に相違ない。
国難を描いた映画は過去にもいくらでもあったが、どれもこれもどうしてもお約束の人間ドラマを必ず放り込んでいた。
だが、今回の「シン・ゴジラ」は人間ドラマを徹底排除し、観客にただひとつ「日本への感情移入」を強いる構造で作られているのだ。
これこそ、「シン・ゴジラ」の凄さのキモであり真髄であり種明かしだ。

庵野秀明監督がこのマジックを狙っていたのかどうかは分からない。
ゴジラという虚構にリアリズムを持たせるため、ゴジラ以外の要素には徹底したリアリズムを追求した結果、庵野監督も意図せず偶然の産物的にこの「人間ドラマの完全排除」が完成したのかも知れない。
その辺は分からない(僕はきちんと考えたあげく意図して人間ドラマを排除していると思うが)。

とにかく、映画館で観客皆が感じている「シン・ゴジラ」の面白さ、凄さ、感動……その根底にあるのは、世界中のありとあらゆる映画やテレビドラマ、お芝居が今まで捨てることが出来なかった「人間ドラマ」というお約束の排除にあったのである。

「シン・ゴジラ」に散見する「リアリズムを徹底するための様々な手法」は、現実の世界には滅多に存在しない「人間ドラマ」を排除するための方法論だったのだろう。
そう、現実世界では映画やドラマやお芝居で起こるような人間ドラマなんて滅多に起こらないのだ。
だからこそ、人間ドラマを排除したら、もっともリアリズムに溢れるストーリーが構築できたというわけだ。

「シン・ゴジラ」には、人間ドラマは存在しない。
だが「シン・ゴジラ」では、ひとつ大きな」成長」が描かれているような気がしてならない。
それは、「日本の成長」だ。
日本が成長するというドラマが、「シン・ゴジラ」では描かれているのではないか?
ひとつの国が成長するというドラマ、それが「シン・ゴジラ」が成し遂げた奇跡の本質だとしたら、なおさらこの映画は世紀の傑作として後世に語り継がれていくだろうと思うのだ。



P.S.
リアリズムに徹した「シン・ゴジラ」」に関して、それを真に受けすぎた右や左の人たちが「エリートたちが活躍するばかりで庶民を描かないイデオロギー偏重」だとか「憲法9条改正を世論誘導するプロパガンダ」だとか的はずれな批判をしているが、いやいや根本的にはこれただの娯楽映画ですから。
スクリーン内で描かれる日本政府の姿は、あくまで監督の理想でありフィクション(ファンタジー)だということを忘れてはならない。

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