宮崎監督が「紅の豚」の2を作りたいと言っているそうだ。 しかしャ泣Rロッソは物語的には充分に完結しているから、続篇を作るのは難しいのでは?
第一宮崎監督は「私はいわゆる2は作らない」と前々から言っていたはずだ。 なのに今頃になって「紅の豚」の2とは、どういうことなのだろう?
それに続篇を作るのなら作るべき作品が他にある。 「ナウシカ」である。 元々アニメでは、原作の半分あたり迄が描かれていて、後半の波瀾万丈なところは入っていない。 ナウシカの場合は2ではなく、未完の作品を完結されると考えるべきだろう。
ナウシカの後半は、巨神兵の雛?が「ママ~」とナウシカにまとわりついたり、その雛が成長すると今度は「我は裁定者なり」とかわけのわからんことをぬかすので、読んでいる方ははてはてはてのはて、あれよあれよの大展開。
巨神兵って火の7日間で世界を破壊し尽くす死の最終兵器じゃなかったの? なんで死の最終兵器が「ママ~」なの?
エンディングだが、漫画版の後半ではナウシカの表情が次第に暗く悲壮になってゆくことなどから、墓所で悲劇的活劇的討ち死にするのかと思っていたが、どっこい、そう簡単にこのお転婆姫は死なないのだ。
ラストはえらくシンプルで、「ナウシカはどこそこで*十年間過ごし、その後どこそこで死んだ」。 ??? え~、いつ死ぬか何処で死ぬかと、ここまで気を持たせておいて、後何十年も生きるつもりなの?
ところでこの漫画と映画で宮崎監督はなにを描き、なにを訴えたかったのだろうか?
環境保護? 自然の汚染問題? 反戦? 文明の壊滅と再生? 確かにその要素は十分にあるが、それだけではなさそうだ。 アニメ映画の方は、悪い言い方をすれば「金におもねった」という面もなきにしもあらずなので、漫画版を主体に考えてみた。
この漫画は実に多様な解釈ができる。恐らくは宮崎監督自身も、描き始めた頃と最後の頃とでは、この作品の主題についての考え方にかなり大きな違いが出てきていたのではないかと思われる。
腐海は単に恐るべき瘴気を発する「ケ」の場所ではなく、むしろケガレ(残留放射能?)を癒す「ハレ」の存在へと変化する。
ラストに近い所では、墓所の主との応答でこの世界の人々は遺伝子操作を受けていたことが判明する。 彼らは腐海の毒を含まない清浄の世界では生きていけない。 つまり汚染こそ正常、清浄は異常、というわけである。
主は現生人類を正常の、つまり清浄の地でも生きてゆける存在に変えるというが、ナウシカはこの主を否定する。 正常(清浄)であれば生きてゆけない「ケ」としての存在を受け入れるのだ。
これは蹄念であるのかそれともニヒリズムであるのか。 明るいニヒリズムとでもいうべきものなのか。
ちなみにアニメ版で最も蠱惑的なのは、腐海の描写だと思う。 美しくもおぞましいあの腐海を、一目見て痺れた。 やはり豚さんよりナウシカちゃんの続きを見たい。
もう一つ蛇足。 ミヤザキさんはやはり徹底したロリコンでパンチラ趣味だと強く思う。 ナウシカ以来数々の作品で幼女少女のパンチラシーンがないアニメはない。 魔女宅に至ってはキキちゃんのデカパン(しかもつぎがあたっている!)が堂々と部屋に干してあったりする。 私はどちらかというと宮崎アニメのテーマよりも、こちらの方が気になるのだが・・・
一つ間違えばハヤオさんがツトム君になっていたかも。(ミヤザキファンの方々、刺さないでね)
第一宮崎監督は「私はいわゆる2は作らない」と前々から言っていたはずだ。 なのに今頃になって「紅の豚」の2とは、どういうことなのだろう?
それに続篇を作るのなら作るべき作品が他にある。 「ナウシカ」である。 元々アニメでは、原作の半分あたり迄が描かれていて、後半の波瀾万丈なところは入っていない。 ナウシカの場合は2ではなく、未完の作品を完結されると考えるべきだろう。
ナウシカの後半は、巨神兵の雛?が「ママ~」とナウシカにまとわりついたり、その雛が成長すると今度は「我は裁定者なり」とかわけのわからんことをぬかすので、読んでいる方ははてはてはてのはて、あれよあれよの大展開。
巨神兵って火の7日間で世界を破壊し尽くす死の最終兵器じゃなかったの? なんで死の最終兵器が「ママ~」なの?
エンディングだが、漫画版の後半ではナウシカの表情が次第に暗く悲壮になってゆくことなどから、墓所で悲劇的活劇的討ち死にするのかと思っていたが、どっこい、そう簡単にこのお転婆姫は死なないのだ。
ラストはえらくシンプルで、「ナウシカはどこそこで*十年間過ごし、その後どこそこで死んだ」。 ??? え~、いつ死ぬか何処で死ぬかと、ここまで気を持たせておいて、後何十年も生きるつもりなの?
ところでこの漫画と映画で宮崎監督はなにを描き、なにを訴えたかったのだろうか?
環境保護? 自然の汚染問題? 反戦? 文明の壊滅と再生? 確かにその要素は十分にあるが、それだけではなさそうだ。 アニメ映画の方は、悪い言い方をすれば「金におもねった」という面もなきにしもあらずなので、漫画版を主体に考えてみた。
この漫画は実に多様な解釈ができる。恐らくは宮崎監督自身も、描き始めた頃と最後の頃とでは、この作品の主題についての考え方にかなり大きな違いが出てきていたのではないかと思われる。
腐海は単に恐るべき瘴気を発する「ケ」の場所ではなく、むしろケガレ(残留放射能?)を癒す「ハレ」の存在へと変化する。
ラストに近い所では、墓所の主との応答でこの世界の人々は遺伝子操作を受けていたことが判明する。 彼らは腐海の毒を含まない清浄の世界では生きていけない。 つまり汚染こそ正常、清浄は異常、というわけである。
主は現生人類を正常の、つまり清浄の地でも生きてゆける存在に変えるというが、ナウシカはこの主を否定する。 正常(清浄)であれば生きてゆけない「ケ」としての存在を受け入れるのだ。
これは蹄念であるのかそれともニヒリズムであるのか。 明るいニヒリズムとでもいうべきものなのか。
ちなみにアニメ版で最も蠱惑的なのは、腐海の描写だと思う。 美しくもおぞましいあの腐海を、一目見て痺れた。 やはり豚さんよりナウシカちゃんの続きを見たい。
もう一つ蛇足。 ミヤザキさんはやはり徹底したロリコンでパンチラ趣味だと強く思う。 ナウシカ以来数々の作品で幼女少女のパンチラシーンがないアニメはない。 魔女宅に至ってはキキちゃんのデカパン(しかもつぎがあたっている!)が堂々と部屋に干してあったりする。 私はどちらかというと宮崎アニメのテーマよりも、こちらの方が気になるのだが・・・
一つ間違えばハヤオさんがツトム君になっていたかも。(ミヤザキファンの方々、刺さないでね)