先日発表された漫画「美味しんぼ 第604話 福島の真実編」で、登場人物が福島第一原発に取材に行った後、疲労感をおぼえたり鼻血を出したりするなど、体調の異変を訴え、実在の前福島県双葉町長が「福島では同じ症状の人が大勢いますよ。」という場面が描かれました。
これに対して「風評被害を助長する内容」との批判されたり、作者が「私は自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない」と語ったり、双葉町が出版社に抗議したり、福島県のサイトにも抗議文が公開されたり、環境大臣も記者会見で鼻血と原発事故の因果関係を否定したりしました。
漫画なんだから、作者には表現の自由がある、という考えや、いやこの漫画は人気のある作品なんだから影響力を考えるべきだった、という意見もあります。(人気のない漫画だったら、責任とか考えず、何描いてもいいのかね・・・?)
漫画でもやりすぎだとか、いやよくぞ言ってくれた、という意見。
因果関係をはっきりさせてほしい、という意見・・・などなどが噴出しました。
私はここで、この意見のほうが正しい、とか鼻血が出るのは被曝のせいですよ! と断定したりするつもりはさらさらありません。
ちょっと違うことを思い出したのです。
今から20年近く前のことです。つまりチェルノブイリ原発事故から10年も経ってないような時期でした。当然のことながら福島第一原発事故が日本で起きる前のことです。
日本にロシアの児童文学を研究しているグループがありまして、1年に1回会報誌というか、研究発表のための雑誌を発行しています。
そのグループから次号にベラルーシの児童文学について寄稿してほしいと頼まれました。
それはいいのですが、グループのメンバーの1人(その人は現在すでにこのグループを脱退しています。)がこう言い出したのです。
「ベラルーシにはチェルノブイリ原発事故をテーマにした児童文学があるでしょう? それについて紹介する原稿を書いて下さい。」
私がそのような作品はないと答えると、その人は「ええ?」という怪訝そうな顔をしました。
「チェルノブイリの事故のせいで白血病になって死んだ子どもの話や、ふるさとの村が汚染地域になって移住しながらも、新しい地でけなげに生きる家族の物語とか、そういうのないの?」
ときかれたのですが、児童文学(つまりフィクション、創作)ではそのような作品はベラルーシにはありません、と答えました。
その人は、理解できない! という反応で、
「どうしてそういう子ども向けの文学作品をベラルーシ人は書かないのか?」
と言い出し、さらには「日本なんか、外国で起きた事故なのにチェルノブイリをテーマにした漫画だってあるのよ。それに引き換えベラルーシ人は何もしないのね。自分の国で起きたことなのに。」
と批判し、
「ベラルーシ人はダメ民族。」
という結論を下しました。
このダメ民族ってつまり何? と言われれば
「自国の問題を子どもに分かりやすく語って聞かせようとしない。自国の問題に向き合おうとしないふまじめな態度。怠け者であり、頭脳も使わない。つまり優秀ではない民族。(それに引き換え日本人は優秀。)」
ということです。(あくまでこの人の個人的な意見です。)
この人に対して私はこのような提案をしました。
「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」という本があります。これはチェルノブイリで被災した子ども達の作文集です。子ども達の体験したことが子どもの手によって書かれています。この本について原稿を書くのがいいと思いますが・・・。」
しかし、「私たちのグループは児童文学をテーマにしているので、原稿で取り上げるのもプロの作家による文学作品でないとだめだから。」という理由で却下されました。
結局チェルノブイリとは全然関係のない、ベラルーシ児童文学作品について原稿を書いてこの件は終わりました。
ここで、どうしてベラルーシにはチェルノブイリをテーマにした児童文学作品がないのか、説明します。
チェルノブイリをテーマにした創作で、大人向けの作品はあります。しかしベラルーシでは基本的に児童文学と言うのは対象年齢が14歳までとなっており、したがって子ども向けではないと表現やシーンが描写されるのは、教育上よくない、とされています。
主に飲酒や喫煙シーンや性的な描写、残酷なストーリーなどです。
このような描写があると児童文学のジャンルから外されます。
チェルノブイリについては小さい子どもに語って聞かせるには、かわいそうすぎる、不安感を扇動する、五感では分からない放射能の説明を子どもにも分かるように説明するのは難しい、よく分からないまま「危険だ」「恐ろしい」と吹き込むのは、子どもにとってストレスになる・・・といった理由で「話すのはやめておいたほうがいい。」というテーマに分類されるのです。
「チェルノブイリ」というより「放射能被曝と健康」というくくりで子どもに教えるのは中学生以降です。
それもフィクションである文学作品として、要するに、作り話で「マーシャは10歳で白血病で死にました。」といったお話を子どもに話すのは、意味がないし、建設的でもないというのがベラルーシ人の考えです。
それより中学生ぐらいになってから、歴史の授業で「1986年に原発事故が起きました。」と教え、理科の授業で「放射能とはこういうものです。」と科学的に説明し、保健体育の授業で「被曝を防ぐにはどのような食生活を送れば言いのか。」を教えるほうが、実際的であるということです。
もちろん消火作業に従事して急死してしまった消防士の話や、たくさんの子どもが甲状腺がんになった、と言う話も教育現場でしますが、これは日本で言うと道徳の授業の範囲内で、つまり、気の毒な子どもには同情し、遺族を思いやりましょう、勇敢な消防士さんたちに感謝しましょう、という心の教育です。
ベラルーシ人に前述の日本人の意見を話すと
「そんなお涙ちょうだいの創作を小さい子どもに読ませてどうするの? そんな作品子どもは読みたがらないし、親も読ませたくないよ。だから文学者も書かないんですよ。」
と言われました。
私も同感です。
ベラルーシの児童文学でチェルノブイリをテーマにした作品がない理由がお分かりいただけでしょうか。
チェルノブイリをテーマにした漫画はベラルーシ以外の国で作られています。一番多いのが日本です。
それは日本が漫画大国だから。ベラルーシには日本人が想像するプロの漫画家は(私が知るかぎり今のところ)いません。
ベラルーシにはチェルノブイリをテーマにした漫画を描く人がいないのです。
それに対し、日本はよその国のことですが、漫画でチェルノブイリのことを表現してくれます。
やはり20年ぐらい前にそういう日本人が描いたチェルノブイリの漫画を読んだことがありますが、ベラルーシに住んでいる者からすると描写にリアリティーがない(ああ、外国人の抱いているベラルーシのイメージってこんな感じかな・・・と思いました。)さらに白血病にかかった女の子が、死の直前まで家族と会話していて、その会話の途中にガッと血を吐いて、一瞬で絶命・・・とか、実際に起こった事故をテーマにしているのに、やはりリアリティーがない・・・と思いました。
死の直前の白血病患者さんは意識も混濁して、こんなにぺらぺら話なんかできないし、それこそ白血病患者は必ず口から血しぶきをあげてから死ぬ、といったイメージを読者に植え付けませんかね?
「美味しんぼ」で主人公が鼻血を出すシーンを描いたら、「福島の住民みんなが鼻血だしてるわけじゃないのに!」と批判するけど、誤った描写や不自然な描写なんて、漫画(創作)の世界ではいっぱいありますよ。
でも「美味しんぼ」は人気漫画だから「影響を考えろ。」と言われるんですね。
無名漫画だったら、おかしな描写をしても影響力が小さいから、そんなに批判しなくてもいい、という考えでしょうか。
でも、こういう考えは変だと私は思います。
こういう考えが当たり前になると、有名な作品では超リアルに、間違ったことは描かないように注意しないといけない。(表現という観点からすると、作品の世界が縮こまって、芸術としてはおもしろくない方向に進みそう。)
無名の作品なら、事実と異なる表現もOK。(芸術としてはおもしろい方向に進みそうだけど、「それはいくらなんでもないでしょ。」「傷つく人がいるよ!」という批判はしなくてもいいし、批判も受け付けなくていい、という考えになります。)
一方で前述の日本人の意見を思い返すと、福島第一原発事故が起きてから、3年ほどなのに漫画の世界で早速取り上げられるなんて、さすが日本人ですよ。ベラルーシ人より優秀な民族なのですから、当然・・・とこの人は今思っているでしょうね。
しかも「美味しんぼ」については論争まで巻き起こり、政治家まで発言するんですから、ベラルーシではありえない状況です。
すばらしい。日本人の皆さんは表現の自由があること、表現の場があること、美しくても醜くても論争を戦わせることができる環境の中にいるのですよ。
今後も大いにあらゆる表現媒体を駆使して、福島第一原発事故をテーマに取り上げ、どんどん表現してください。
そしてどんどん議論してください。議論して意見を言い合うのは大事なことだと思います。
さて、ついでながら、前述の作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」についてです。
この本について原稿を書くほうが、チェルノブイリの被災者の生の声を紹介できるのになあ、と思っていた私は提案を却下されて、少々がっかりしていました。
ところがそれから数年後・・・チェルノブイリの子ども達を支援している日本の方からこんな話を聞きました。
あの作文集はコンクールをして作品を募集し、審査員が目を通して優秀な作品をまとめて印刷されました。翻訳して日本で販売して売上金の一部はチェルノブイリ被災児救援活動の資金にしようという考えも出て、実際そうなりました。
さらに作文が載った子どものうち3人を選んで日本へ保養に招待することになりました。
選んだのはベラルーシ側で、私にこの話をしたのは受け入れた日本側の団体のメンバーです。
やがて保養滞在のためにベラルーシの子ども3人が来日しました。そのうちの1人、オーリャさんは自分が書いた作文の中で
「私は白血病になってしまった。入院している。」
といったことを書いた子どもだったのです。
作文の中では明らかに重症患者になっている様子を書いていましたが、日本に来た彼女はピンピンしています。
日本人ボランティアが、本人に尋ねると、
「私は白血病にはかかっていない。健康です。でもあるとき病院に行ったら、私と同じ名前でオーリャという白血病の女の子と知り合ったの。あの作文はコンクールのことを聞いて、その女の子の気持ちになって書いてみたの。」
と答えたそうです。
チェルノブイリ被災児の作文集、と聞くと、当然自分の実体験のことを綴っているだろう、と思いますが、実際は創作の作品も混ざっていたのです。
オーリャさんを保養に行ける一人に選んだベラルーシ側にその後、問いただしたところ
「彼女の作品は文学的です。作文として優秀です。だから選びました。」
という回答だったそうです。
日本側としては賞金代わりの旅行目的でベラルーシの子どもを日本に呼んだのではなく、保養目的だったんですけどね。
その後、私はこの本をあまり読まなくなりました。もしかしたら他にも、自分の体験談ではなく、架空の話を書いた子どもの作文が載っているかもしれないからです。
つまり「これはノンフィクションの作文集で、子ども達の体験に基づいた実話ですよ。」と宣伝している本の中にも創作やフィクションが混ざっているんです。
(今から考えると、依頼された原稿のテーマにこの本のことが採用されなくて、かえってよかったです。)
「美味しんぼ」は漫画であって、創作の世界です。主役の山岡さんなども実在しないのです。実在しない人が漫画の中でいくら鼻血を出しても、これは被爆が原因です、という証明にはなりません。
ところがこの作品には実在の人物も登場して、「証言」をしています。これで「鼻血の人が増えています」の根拠にしないと、「いいかげんなことを想像で描いている。」と批判されるからでしょう。
いくら実在の人物であっても、漫画の中の発言だからこれは証拠にはならない、という考えの人もいるだろうし、逆に漫画の中でも実名を出しているんだから証拠になる、という考えの人もいるでしょう。
このあたりが論争になってしまう理由なのかな、と思っています。
漫画は漫画、創作の世界であって、リアルの世界ではない! とぶちっと区分けできるものでもないですよね。
漫画でも映画でも、創作と現実の境界線の上にあるような作品が多いし、そういう作品のほうがおもしろかったりします。
映画の「タイタニック」でも実際に起こった事故を扱っていますが、実在しない登場人物がいたり、実際はなかった出来事があたかもあったかのように映し出されています。
実際に会ったことだけを忠実になぞるべき!と言う人もいるでしょうが、それだと、あの映画はあれほどヒットしたでしょうか。
つまり創作部分とリアリティーのさじ加減をどうするか、というのが、作品によってそれぞれで、微妙で、そこが作品の醍醐味だったりします。
子どものときは魔法使いが魔法をじゃんじゃん使う話を読んでも、すんなり感情移入できますが、大人になると「これは創作の世界だし、現実にはありえないよねー。」と思いながら、読んでしまいません?
作者のほうのさじ加減もあるし、読者の側の受け止め方も人さまざまだと思います。
結局何が言いたいかと言うと、前述の作文集の場合は「これは実話ですよ。」という前提で、(しかも作文を書いた子どもの本名や顔写真も載っています。)作られた本なので、そこへ創作の作文は混ぜないでほしい、ということです。
しかし漫画のような創作ですよ、という作品の場合、100%真実を語っているとは思わないほうがいいということです。
でも真実が0%というわけでもないのですから、この作品をきっかけに、取り上げられているテーマについて考えてみたり、議論しあうきっかけになればいいのでは、と思います。日本人はダメ民族ではないのですから。(^^;)
・・・・・・・
追記
チロ基金が行っている聞き取り調査の結果を公表していますが、これだけ見るとチェルノブイリ原発事故後、鼻血に悩まされた人はいませんね。
もっとも対象者の数が少ないので、これだけでは被爆と鼻血は関係ない、という証拠にはなりませんが、ご参考までに。
これに対して「風評被害を助長する内容」との批判されたり、作者が「私は自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない」と語ったり、双葉町が出版社に抗議したり、福島県のサイトにも抗議文が公開されたり、環境大臣も記者会見で鼻血と原発事故の因果関係を否定したりしました。
漫画なんだから、作者には表現の自由がある、という考えや、いやこの漫画は人気のある作品なんだから影響力を考えるべきだった、という意見もあります。(人気のない漫画だったら、責任とか考えず、何描いてもいいのかね・・・?)
漫画でもやりすぎだとか、いやよくぞ言ってくれた、という意見。
因果関係をはっきりさせてほしい、という意見・・・などなどが噴出しました。
私はここで、この意見のほうが正しい、とか鼻血が出るのは被曝のせいですよ! と断定したりするつもりはさらさらありません。
ちょっと違うことを思い出したのです。
今から20年近く前のことです。つまりチェルノブイリ原発事故から10年も経ってないような時期でした。当然のことながら福島第一原発事故が日本で起きる前のことです。
日本にロシアの児童文学を研究しているグループがありまして、1年に1回会報誌というか、研究発表のための雑誌を発行しています。
そのグループから次号にベラルーシの児童文学について寄稿してほしいと頼まれました。
それはいいのですが、グループのメンバーの1人(その人は現在すでにこのグループを脱退しています。)がこう言い出したのです。
「ベラルーシにはチェルノブイリ原発事故をテーマにした児童文学があるでしょう? それについて紹介する原稿を書いて下さい。」
私がそのような作品はないと答えると、その人は「ええ?」という怪訝そうな顔をしました。
「チェルノブイリの事故のせいで白血病になって死んだ子どもの話や、ふるさとの村が汚染地域になって移住しながらも、新しい地でけなげに生きる家族の物語とか、そういうのないの?」
ときかれたのですが、児童文学(つまりフィクション、創作)ではそのような作品はベラルーシにはありません、と答えました。
その人は、理解できない! という反応で、
「どうしてそういう子ども向けの文学作品をベラルーシ人は書かないのか?」
と言い出し、さらには「日本なんか、外国で起きた事故なのにチェルノブイリをテーマにした漫画だってあるのよ。それに引き換えベラルーシ人は何もしないのね。自分の国で起きたことなのに。」
と批判し、
「ベラルーシ人はダメ民族。」
という結論を下しました。
このダメ民族ってつまり何? と言われれば
「自国の問題を子どもに分かりやすく語って聞かせようとしない。自国の問題に向き合おうとしないふまじめな態度。怠け者であり、頭脳も使わない。つまり優秀ではない民族。(それに引き換え日本人は優秀。)」
ということです。(あくまでこの人の個人的な意見です。)
この人に対して私はこのような提案をしました。
「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」という本があります。これはチェルノブイリで被災した子ども達の作文集です。子ども達の体験したことが子どもの手によって書かれています。この本について原稿を書くのがいいと思いますが・・・。」
しかし、「私たちのグループは児童文学をテーマにしているので、原稿で取り上げるのもプロの作家による文学作品でないとだめだから。」という理由で却下されました。
結局チェルノブイリとは全然関係のない、ベラルーシ児童文学作品について原稿を書いてこの件は終わりました。
ここで、どうしてベラルーシにはチェルノブイリをテーマにした児童文学作品がないのか、説明します。
チェルノブイリをテーマにした創作で、大人向けの作品はあります。しかしベラルーシでは基本的に児童文学と言うのは対象年齢が14歳までとなっており、したがって子ども向けではないと表現やシーンが描写されるのは、教育上よくない、とされています。
主に飲酒や喫煙シーンや性的な描写、残酷なストーリーなどです。
このような描写があると児童文学のジャンルから外されます。
チェルノブイリについては小さい子どもに語って聞かせるには、かわいそうすぎる、不安感を扇動する、五感では分からない放射能の説明を子どもにも分かるように説明するのは難しい、よく分からないまま「危険だ」「恐ろしい」と吹き込むのは、子どもにとってストレスになる・・・といった理由で「話すのはやめておいたほうがいい。」というテーマに分類されるのです。
「チェルノブイリ」というより「放射能被曝と健康」というくくりで子どもに教えるのは中学生以降です。
それもフィクションである文学作品として、要するに、作り話で「マーシャは10歳で白血病で死にました。」といったお話を子どもに話すのは、意味がないし、建設的でもないというのがベラルーシ人の考えです。
それより中学生ぐらいになってから、歴史の授業で「1986年に原発事故が起きました。」と教え、理科の授業で「放射能とはこういうものです。」と科学的に説明し、保健体育の授業で「被曝を防ぐにはどのような食生活を送れば言いのか。」を教えるほうが、実際的であるということです。
もちろん消火作業に従事して急死してしまった消防士の話や、たくさんの子どもが甲状腺がんになった、と言う話も教育現場でしますが、これは日本で言うと道徳の授業の範囲内で、つまり、気の毒な子どもには同情し、遺族を思いやりましょう、勇敢な消防士さんたちに感謝しましょう、という心の教育です。
ベラルーシ人に前述の日本人の意見を話すと
「そんなお涙ちょうだいの創作を小さい子どもに読ませてどうするの? そんな作品子どもは読みたがらないし、親も読ませたくないよ。だから文学者も書かないんですよ。」
と言われました。
私も同感です。
ベラルーシの児童文学でチェルノブイリをテーマにした作品がない理由がお分かりいただけでしょうか。
チェルノブイリをテーマにした漫画はベラルーシ以外の国で作られています。一番多いのが日本です。
それは日本が漫画大国だから。ベラルーシには日本人が想像するプロの漫画家は(私が知るかぎり今のところ)いません。
ベラルーシにはチェルノブイリをテーマにした漫画を描く人がいないのです。
それに対し、日本はよその国のことですが、漫画でチェルノブイリのことを表現してくれます。
やはり20年ぐらい前にそういう日本人が描いたチェルノブイリの漫画を読んだことがありますが、ベラルーシに住んでいる者からすると描写にリアリティーがない(ああ、外国人の抱いているベラルーシのイメージってこんな感じかな・・・と思いました。)さらに白血病にかかった女の子が、死の直前まで家族と会話していて、その会話の途中にガッと血を吐いて、一瞬で絶命・・・とか、実際に起こった事故をテーマにしているのに、やはりリアリティーがない・・・と思いました。
死の直前の白血病患者さんは意識も混濁して、こんなにぺらぺら話なんかできないし、それこそ白血病患者は必ず口から血しぶきをあげてから死ぬ、といったイメージを読者に植え付けませんかね?
「美味しんぼ」で主人公が鼻血を出すシーンを描いたら、「福島の住民みんなが鼻血だしてるわけじゃないのに!」と批判するけど、誤った描写や不自然な描写なんて、漫画(創作)の世界ではいっぱいありますよ。
でも「美味しんぼ」は人気漫画だから「影響を考えろ。」と言われるんですね。
無名漫画だったら、おかしな描写をしても影響力が小さいから、そんなに批判しなくてもいい、という考えでしょうか。
でも、こういう考えは変だと私は思います。
こういう考えが当たり前になると、有名な作品では超リアルに、間違ったことは描かないように注意しないといけない。(表現という観点からすると、作品の世界が縮こまって、芸術としてはおもしろくない方向に進みそう。)
無名の作品なら、事実と異なる表現もOK。(芸術としてはおもしろい方向に進みそうだけど、「それはいくらなんでもないでしょ。」「傷つく人がいるよ!」という批判はしなくてもいいし、批判も受け付けなくていい、という考えになります。)
一方で前述の日本人の意見を思い返すと、福島第一原発事故が起きてから、3年ほどなのに漫画の世界で早速取り上げられるなんて、さすが日本人ですよ。ベラルーシ人より優秀な民族なのですから、当然・・・とこの人は今思っているでしょうね。
しかも「美味しんぼ」については論争まで巻き起こり、政治家まで発言するんですから、ベラルーシではありえない状況です。
すばらしい。日本人の皆さんは表現の自由があること、表現の場があること、美しくても醜くても論争を戦わせることができる環境の中にいるのですよ。
今後も大いにあらゆる表現媒体を駆使して、福島第一原発事故をテーマに取り上げ、どんどん表現してください。
そしてどんどん議論してください。議論して意見を言い合うのは大事なことだと思います。
さて、ついでながら、前述の作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」についてです。
この本について原稿を書くほうが、チェルノブイリの被災者の生の声を紹介できるのになあ、と思っていた私は提案を却下されて、少々がっかりしていました。
ところがそれから数年後・・・チェルノブイリの子ども達を支援している日本の方からこんな話を聞きました。
あの作文集はコンクールをして作品を募集し、審査員が目を通して優秀な作品をまとめて印刷されました。翻訳して日本で販売して売上金の一部はチェルノブイリ被災児救援活動の資金にしようという考えも出て、実際そうなりました。
さらに作文が載った子どものうち3人を選んで日本へ保養に招待することになりました。
選んだのはベラルーシ側で、私にこの話をしたのは受け入れた日本側の団体のメンバーです。
やがて保養滞在のためにベラルーシの子ども3人が来日しました。そのうちの1人、オーリャさんは自分が書いた作文の中で
「私は白血病になってしまった。入院している。」
といったことを書いた子どもだったのです。
作文の中では明らかに重症患者になっている様子を書いていましたが、日本に来た彼女はピンピンしています。
日本人ボランティアが、本人に尋ねると、
「私は白血病にはかかっていない。健康です。でもあるとき病院に行ったら、私と同じ名前でオーリャという白血病の女の子と知り合ったの。あの作文はコンクールのことを聞いて、その女の子の気持ちになって書いてみたの。」
と答えたそうです。
チェルノブイリ被災児の作文集、と聞くと、当然自分の実体験のことを綴っているだろう、と思いますが、実際は創作の作品も混ざっていたのです。
オーリャさんを保養に行ける一人に選んだベラルーシ側にその後、問いただしたところ
「彼女の作品は文学的です。作文として優秀です。だから選びました。」
という回答だったそうです。
日本側としては賞金代わりの旅行目的でベラルーシの子どもを日本に呼んだのではなく、保養目的だったんですけどね。
その後、私はこの本をあまり読まなくなりました。もしかしたら他にも、自分の体験談ではなく、架空の話を書いた子どもの作文が載っているかもしれないからです。
つまり「これはノンフィクションの作文集で、子ども達の体験に基づいた実話ですよ。」と宣伝している本の中にも創作やフィクションが混ざっているんです。
(今から考えると、依頼された原稿のテーマにこの本のことが採用されなくて、かえってよかったです。)
「美味しんぼ」は漫画であって、創作の世界です。主役の山岡さんなども実在しないのです。実在しない人が漫画の中でいくら鼻血を出しても、これは被爆が原因です、という証明にはなりません。
ところがこの作品には実在の人物も登場して、「証言」をしています。これで「鼻血の人が増えています」の根拠にしないと、「いいかげんなことを想像で描いている。」と批判されるからでしょう。
いくら実在の人物であっても、漫画の中の発言だからこれは証拠にはならない、という考えの人もいるだろうし、逆に漫画の中でも実名を出しているんだから証拠になる、という考えの人もいるでしょう。
このあたりが論争になってしまう理由なのかな、と思っています。
漫画は漫画、創作の世界であって、リアルの世界ではない! とぶちっと区分けできるものでもないですよね。
漫画でも映画でも、創作と現実の境界線の上にあるような作品が多いし、そういう作品のほうがおもしろかったりします。
映画の「タイタニック」でも実際に起こった事故を扱っていますが、実在しない登場人物がいたり、実際はなかった出来事があたかもあったかのように映し出されています。
実際に会ったことだけを忠実になぞるべき!と言う人もいるでしょうが、それだと、あの映画はあれほどヒットしたでしょうか。
つまり創作部分とリアリティーのさじ加減をどうするか、というのが、作品によってそれぞれで、微妙で、そこが作品の醍醐味だったりします。
子どものときは魔法使いが魔法をじゃんじゃん使う話を読んでも、すんなり感情移入できますが、大人になると「これは創作の世界だし、現実にはありえないよねー。」と思いながら、読んでしまいません?
作者のほうのさじ加減もあるし、読者の側の受け止め方も人さまざまだと思います。
結局何が言いたいかと言うと、前述の作文集の場合は「これは実話ですよ。」という前提で、(しかも作文を書いた子どもの本名や顔写真も載っています。)作られた本なので、そこへ創作の作文は混ぜないでほしい、ということです。
しかし漫画のような創作ですよ、という作品の場合、100%真実を語っているとは思わないほうがいいということです。
でも真実が0%というわけでもないのですから、この作品をきっかけに、取り上げられているテーマについて考えてみたり、議論しあうきっかけになればいいのでは、と思います。日本人はダメ民族ではないのですから。(^^;)
・・・・・・・
追記
チロ基金が行っている聞き取り調査の結果を公表していますが、これだけ見るとチェルノブイリ原発事故後、鼻血に悩まされた人はいませんね。
もっとも対象者の数が少ないので、これだけでは被爆と鼻血は関係ない、という証拠にはなりませんが、ご参考までに。