昨年12月に日本にあるゴシケーヴィチの胸像についてベラルーシの新聞で紹介されました。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/52f494ad24154397d2ac125b22522858
この新聞記事を日本語に翻訳しましたので、このブログ上でご紹介します。
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2012年12月6日付 ゴーラス・ラジームィ紙 No.46 (3310)
遠い海のもと出会った友人たち
今夏すでに本誌で最初のベラルーシ人外交官イオシフ・ゴシケーヴィチについての記事が掲載された。ゴシケーヴィチはロシア帝国最初の日本領事として1858年から65年まで赴任していた。ベラルーシ出身のゴシケーヴィチのおかげでベラルーシと日本の交流が始まったと言ってよい。ロシア帝国の命を受けた「白い髪の領事」の人生物語は北海道の街、函館が舞台だとミンク在住の日本人辰巳雅子さんは語る。
「この夏ベラルーシ人の友人の招きを受けてグロドノ州にあるオストロベツ市とマリ村を訪問しました。そこでイオシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチが余生を送ったことが知られています。訪問記については本紙33号に掲載されました。」
ミンスク市ルシヤノワ通りにある第5児童図書館内に辰巳さんは日本文化情報センターを開設、両国民をつなぐ活動を行っている。辰巳さんはマクシム・バグダノビッチやヤンカ・クパーラの詩をいくつか日本語に翻訳した。また日本人がベラルーシを訪問したときには通訳として同行しているが、二国間の交流は福島の原発事故発生後、増えた。ベラルーシが経験してきたチェルノブイリという名の敵に対抗する術について日本人は大きな関心を寄せている。
本紙の依頼により辰巳さんを通じて函館にある資料館館長、高田菜々さんに取材することができた。菜々さんは旧家高田家に生まれた地元の名士であり、その先祖は日露交流史に金字塔を建てている。このような背景があったからこそゴシケーヴィチ領事の使命もうまくいったのだろうと予想される。菜々さんは父である高田嘉七さん亡き後その人文学的、文化的活動を引き継ぎ、父が創立した北方歴史資料館の仕事を託された。
ミンスク市在住の辰巳さんを通じて菜々さんが語ってくれた。
「私は一度もベラルーシへ行ったことがありません。ベラルーシについて知っていることはわずかです。ただ冬はとても寒い国というイメージです。あとテニスプレイヤーのビクトリヤ・アザレンカさんは強くてきれいな方だと思います。ロンドンオリンピックを見ての感想ですが、ベラルーシの方は背が高くて、美人が多いのではないかと思いました。」
資料館内に展示されているゴシケーヴィチの胸像について菜々さんは設置されたいきさつを知らなかったが、嘉七さんが除幕式に参列したことは分かっている。胸像の側面には日本の文字で「コモフ ’89」と彫られており、またゴシケーヴィチを紹介する展示もある。彫刻家コモフの作品は資料館を訪れた人に親しまれており、また胸像の小さいレプリカも展示されている。さらにゴシケーヴィチから写真の手ほどきを受けた横山松三郎という写真家の作品も館内で見ることができる。
「父は高田屋嘉兵衛の7代目の子孫です。(嘉兵衛はゴシケーヴィチと知己だったのではないだろうか。編集部註)父はベラルーシやロシアへよく行っておりました。11月27日は命日にあたります。父が滞在中にお世話になりましたベラルーシ人関係者の皆様に感謝しています。ベラルーシと日本の距離は遠いですが、一方で人と人の友好関係に距離や時間は妨げにならないと思っています。ベラルーシの友人の皆様のご健康と益々のご発展を心よりお祈りしております。ありがとうございました。」
(編集部より)
1994年イオシフ・ゴシケーヴィチ基金により地元協力者の下、ベラルーシ国内に「ベラルーシ日本友好協会」が設立された。その後グロドノ州オストロベツ市に外交官であり学者でもあり、この地に縁のあったゴシケーヴィチの像が建てられた。(銅像製作者はワレリヤン・ヤヌシュケヴィチ)
函館市は日本で最初のロシア領事が住んでいたことを忘れなかった。その返礼のように1989年5月からソ連人民芸術家オレグ・コモフの手による胸像が函館市内で見ることができるようになった。
(写真)函館市内、北方歴史資料館内で展示されているイオシフ・ゴシケーヴィチの胸像のそばに立つ高田菜々さん。
(記事本文作成 イワン・ジュダノヴィチ)
(日本語訳 辰巳雅子)
原文記事はネット上で読むことができます。(ベラルーシ語)
http://www.golas.by/index.php?subaction=showfull&id=1355992427&archive=1356075309&start_from=&ucat=13&
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この記事内に(嘉兵衛はゴシケーヴィチと知己だったのではないだろうか。編集部註)とありますが、高田屋嘉兵衛とゴシケーヴィチは生きていた時代などが違いますので、知り合いだったとは考えられません。
もっともゴシケーヴィチは高田屋嘉兵衛より後の時代の人間なので、領事として当然知識として高田屋嘉兵衛のことは知っていたはずです。
来年はゴシケーヴィチ生誕200年に当たり、記念行事の準備が今年から始まっています。ベラルーシ文化研究所の調査により、ようやく生誕地がほぼ確定されたそうで、今は埋葬地の確定作業が進んでいます。
またゴシケーヴィチ関連についての記事をこのブログでご紹介しますね。
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追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/52f494ad24154397d2ac125b22522858
この新聞記事を日本語に翻訳しましたので、このブログ上でご紹介します。
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2012年12月6日付 ゴーラス・ラジームィ紙 No.46 (3310)
遠い海のもと出会った友人たち
今夏すでに本誌で最初のベラルーシ人外交官イオシフ・ゴシケーヴィチについての記事が掲載された。ゴシケーヴィチはロシア帝国最初の日本領事として1858年から65年まで赴任していた。ベラルーシ出身のゴシケーヴィチのおかげでベラルーシと日本の交流が始まったと言ってよい。ロシア帝国の命を受けた「白い髪の領事」の人生物語は北海道の街、函館が舞台だとミンク在住の日本人辰巳雅子さんは語る。
「この夏ベラルーシ人の友人の招きを受けてグロドノ州にあるオストロベツ市とマリ村を訪問しました。そこでイオシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチが余生を送ったことが知られています。訪問記については本紙33号に掲載されました。」
ミンスク市ルシヤノワ通りにある第5児童図書館内に辰巳さんは日本文化情報センターを開設、両国民をつなぐ活動を行っている。辰巳さんはマクシム・バグダノビッチやヤンカ・クパーラの詩をいくつか日本語に翻訳した。また日本人がベラルーシを訪問したときには通訳として同行しているが、二国間の交流は福島の原発事故発生後、増えた。ベラルーシが経験してきたチェルノブイリという名の敵に対抗する術について日本人は大きな関心を寄せている。
本紙の依頼により辰巳さんを通じて函館にある資料館館長、高田菜々さんに取材することができた。菜々さんは旧家高田家に生まれた地元の名士であり、その先祖は日露交流史に金字塔を建てている。このような背景があったからこそゴシケーヴィチ領事の使命もうまくいったのだろうと予想される。菜々さんは父である高田嘉七さん亡き後その人文学的、文化的活動を引き継ぎ、父が創立した北方歴史資料館の仕事を託された。
ミンスク市在住の辰巳さんを通じて菜々さんが語ってくれた。
「私は一度もベラルーシへ行ったことがありません。ベラルーシについて知っていることはわずかです。ただ冬はとても寒い国というイメージです。あとテニスプレイヤーのビクトリヤ・アザレンカさんは強くてきれいな方だと思います。ロンドンオリンピックを見ての感想ですが、ベラルーシの方は背が高くて、美人が多いのではないかと思いました。」
資料館内に展示されているゴシケーヴィチの胸像について菜々さんは設置されたいきさつを知らなかったが、嘉七さんが除幕式に参列したことは分かっている。胸像の側面には日本の文字で「コモフ ’89」と彫られており、またゴシケーヴィチを紹介する展示もある。彫刻家コモフの作品は資料館を訪れた人に親しまれており、また胸像の小さいレプリカも展示されている。さらにゴシケーヴィチから写真の手ほどきを受けた横山松三郎という写真家の作品も館内で見ることができる。
「父は高田屋嘉兵衛の7代目の子孫です。(嘉兵衛はゴシケーヴィチと知己だったのではないだろうか。編集部註)父はベラルーシやロシアへよく行っておりました。11月27日は命日にあたります。父が滞在中にお世話になりましたベラルーシ人関係者の皆様に感謝しています。ベラルーシと日本の距離は遠いですが、一方で人と人の友好関係に距離や時間は妨げにならないと思っています。ベラルーシの友人の皆様のご健康と益々のご発展を心よりお祈りしております。ありがとうございました。」
(編集部より)
1994年イオシフ・ゴシケーヴィチ基金により地元協力者の下、ベラルーシ国内に「ベラルーシ日本友好協会」が設立された。その後グロドノ州オストロベツ市に外交官であり学者でもあり、この地に縁のあったゴシケーヴィチの像が建てられた。(銅像製作者はワレリヤン・ヤヌシュケヴィチ)
函館市は日本で最初のロシア領事が住んでいたことを忘れなかった。その返礼のように1989年5月からソ連人民芸術家オレグ・コモフの手による胸像が函館市内で見ることができるようになった。
(写真)函館市内、北方歴史資料館内で展示されているイオシフ・ゴシケーヴィチの胸像のそばに立つ高田菜々さん。
(記事本文作成 イワン・ジュダノヴィチ)
(日本語訳 辰巳雅子)
原文記事はネット上で読むことができます。(ベラルーシ語)
http://www.golas.by/index.php?subaction=showfull&id=1355992427&archive=1356075309&start_from=&ucat=13&
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この記事内に(嘉兵衛はゴシケーヴィチと知己だったのではないだろうか。編集部註)とありますが、高田屋嘉兵衛とゴシケーヴィチは生きていた時代などが違いますので、知り合いだったとは考えられません。
もっともゴシケーヴィチは高田屋嘉兵衛より後の時代の人間なので、領事として当然知識として高田屋嘉兵衛のことは知っていたはずです。
来年はゴシケーヴィチ生誕200年に当たり、記念行事の準備が今年から始まっています。ベラルーシ文化研究所の調査により、ようやく生誕地がほぼ確定されたそうで、今は埋葬地の確定作業が進んでいます。
またゴシケーヴィチ関連についての記事をこのブログでご紹介しますね。
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追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。