電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『大学で学ぶ東北の歴史』を読む(その3)

2022年02月07日 06時00分26秒 | -ノンフィクション
吉川弘文館から2020年に刊行された単行本で、『大学で学ぶ東北の歴史』を読んでいます。まだ古代編のところで、興味深いのは同じ東北地方でも日本海側と太平洋側では少し違うところがある点です。

日本海側では、708年に庄内に越後国出羽郡が置かれ、709年に出羽柵を拠点とする軍事行動を行い、712年に出羽国の新設と大量の移民が行われます。以後は、733年に出羽柵が秋田に移転するなど、支配域が順調に北上しているように見えます。

ところが太平洋側ではそうではない。715年に関東地方の富民1000戸(約2万人)が陸奥国へ移民しますが、それまでにない大規模なものでしたので、720年に大崎・牡鹿地方やその周辺のエミシが蜂起することとなり、この反乱で按察使(あぜち)の上毛野広人が殺害されます。これを武力鎮圧しますが、移民に対する免税・減税を行って定住・帰住を促進したほか、多賀城の創建や大崎平野における城柵群の設営、鎮兵制度の整備など、新たなエミシ支配政策を打ち出します。

このあたり、日本海側と太平洋側の違いが顕著です。ここからは推測ですが、おそらく日本海側の各地域は、以前から都と水運によるつながりがあり、比較的その支配を受け入れやすかったのではないか。一方、太平洋岸は都との距離が遠く、水運によるつながりも薄いため、強権的支配を良しとしなかったのかもしれません。

こうした人口の大きな移動は、別の側面の影響をもたらします。737年、天然痘の大流行で九州から関東までの人口の25%〜35%という死亡率をもたらします。これにより、奥州での軍事行動は止みますが、741年に国分寺建立の詔が出され、745年に東大寺大仏建立が開始されます。この大仏建立に使われる金箔の材料となる砂金が、749年に陸奥国小田郡から産出したとの報がもたらされます。これは、大仏建立だけでなく国際貿易の決済の面でも大きな影響のある出来事で、以後、みちのくの意味は大きく変化します。それは、東北支配政策の強化とエミシの反乱の激化となってあらわれました。

780年、伊路公アザマロの乱に対し紀古佐美の征討は失敗に終わります。781年に即位した桓武天皇は、坂上田村麻呂の征討によりアテルイやモレを捕え処刑します。エミシとの戦争は終わりますが、征討の終焉はエミシの強制移住政策をもたらします。800年代の半ばには、エミシ系住民の逃亡が続きますが、一方でエミシ系豪族を登用するなど、分断政策を取ります。869(貞観11)年、大規模な地震と津波災害が発生しますが、このときはさすがに「民夷を論ぜず」救済を図ったらしい。逆に言えば、それまでは民と夷とを明確に区別していたということでしょう。移住した住民と強制的に移転させられたエミシとの交代により、東北地方の支配域が南東北から北東北へ北上します。

ここからは私の推測ですが、水田農業に基盤を持つ定住スタイルは農作業や水管理など集団的活動を得意とし子供は多いほうが良いので人口増加をもたらすでしょう。一方、採集狩猟に基盤を置く移動の多い生活スタイルでは、連れ歩く必要があるため子供は少なく人口は停滞します。おそらく、古代国家の支配域の北上の根本的な理由は、そこにあるのではなかろうか。

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