リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

国民教育として外国語を教えるということ

2024年06月24日 21時07分55秒 | 日々のこと

最近は日本国内に沢山の外国人が住んでいますが、彼らの中には日本語が不自由な方も。そういう方達に「おー、オレ、日本語ぺらぺらやで教えたるで!」とおっしゃる方がときどきいらっしゃいます。

簡単な日本語なら誰でも教えることができると思いがちですが、実際には単語を何語か教えることが出来たらいいところで、たとえ日本語が流暢に話せてもきちんと非日本語話者に日本語を教えることはできません。

小中高に日本語指導助手(ALT)が配属されるようになって久しいですが、彼ら彼女らの大半は言語教育の専門家ではありません。世間的には、英語ネイティブが英語を教えるのには最適だと思われているかもしれませんが、実際には英語ネイティブというだけできちんと日本人生徒に英語を教えることはできません。現状を見る限り世間の期待とは裏腹に彼らに高い給料を払っている割には成果が上がっていません。全く無意味だとは言いませんが・・・

以前小学校で英語教育が始まる前、よくこんなことをおっしゃる人がいました。「中学校3年生の英語だとちょっと難しいけど、1年生やったら簡単なので私にも教えられそう!」実はこれは全く間違っていて中学校では1年生に英語を教えるのがもっとも経験と技術がいることなのです。

小学校の低学年での英語教育は全く無駄だというのが私の考えです。費用対効果を考えるのであれば、遊びみたいな授業を低学年で実施するのは止めて、5年生からきちんと教科として導入して、中学校1年生までの3年間で現在の中学校分を行い、中学校2年生3年生は選択にするというのがずっと前から私が考えている方策です。

沢山お金をかけている割には効果が上がらないことばかりをしているのは、雑音の多い中央教育審議会の答申を受けて学習指導要領が作られるというプロセスに問題があるからではないでしょうか。