リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

Lars Jönsson のリュート

2017年04月19日 10時59分53秒 | 音楽系
4年前に発注したリュートが製作家の工房から発送されました。

4年前にスゥェーデンのLars Jönssonに製作を依頼したバロック・リュートが彼の工房を出立致しました。多分1週間くらいもあれば日本に到着するでしょう。



写真は彼のスタジオを出発する直前のお姿です。春に日本に届くのでとても安心です。もし到着が夏の暑い時期だと、楽器にはとても厳しいので到着を延期してもらわなくてはいけません。

ラースの楽器はナイジェル・ノースも使っていますが、とても繊細で明るい音の出る楽器です。4年以上待たなくてはならないのがタマにキズですが、スウェーデンの通貨であるクローナが円に対して安いことや多分スウェーデンの物価も安いからでしょうか、とても安く手に入ります。私の知る限りでは日本で製作しているどの製作家の楽器よりも安いです。それも一流のプロがコンサートで使っている楽器ですから、4年以上待てる!という方は「Lars lute」で検索!

ラースの新作楽器に張られている弦を教えて頂きましたが、なんとバス弦はカーボン(炭素繊維ではなくてフロロカーボンです)を使っていました。私と同じスキームですが、やはり同じところに行き着くんですねぇ。ちなみにナイジェル・ノースもヴァイスのレコーディングの第2集以降はバス弦にカーボンを使っているとのことでした。

オーバブッキング

2017年04月15日 17時10分16秒 | 日々のこと
ユナイテッド航空のオーバーブッキング関連の話が話題になっていますが、随分昔私もオーバーブッキングのため飛行機に搭乗できなくなったことがありました。

もう40年以上前ですが、オランダに滞在していてパリから飛行機で日本に帰る予定をしていました。やっとのことでパリの空港に着きましたら、オーバーブッキングで乗れないとのこと。で、いつの便なら乗れるかと尋ねましたら、3日後にチューリッヒから乗ってくれとおっしゃる。しかも南回りです。

当時のソ連上空は飛ぶことができなかったので、北極海を横切り、米国アラスカ州のアンカレッジを経由して行くのが最短距離でした。本来は私はこの北回りで帰る予定でしたが、倍くらい時間がかかる南回りに乗らされ、しかもパリからではなくスイスのチューリッヒから出発です。

めちゃくちゃな話ですが、同じ目に遭った日本人が数人いましたので、「団体交渉」をしてチューリッヒまでの飛行機代、ホテル滞在費、もちろんその間の食事も航空会社持ちということになりました。当たり前の話ですが、何も言わなければ、全て自腹ということになってしまっていました。ホントにいい加減な航空会社でした。

南回りはホントに長かったのを覚えています。バーレーンとバンコクで給油して行ったのですが、20時間以上飛行機に乗っていました。そうそう、チューリッヒの空港で正面から歩いてくる小澤征爾にばったり、「こんにちは」って声を掛けましたら、向こうも「こんにちは」って返事が返ってきました。彼は当時すでにスーパースターでしたから、向こうから歩いてくるが見えたときはびっくりしました。思っていたより小柄な方だというのが印象的でした。

まだヨーロッパ往復「格安」航空券が30万もして、シベリア上空(当時はソ連)の航路はまだなく、成田ではなく羽田から出発、帰着をしていた、そんな時代の話です。

ユナイテッド航空

2017年04月12日 13時47分06秒 | 日々のこと
ユナイテッド航空がまたやっちゃいましたね。(笑)

「また」といいますのは、以前こんなことがあったからです。

アメリカのカントリーミュージックのギタリストが、ユナイテッド航空に搭乗の際、楽器をキャビンの中にいれて欲しいと頼んだら拒否され、仕方なく貨物室に入れられ、到着地で楽器のケースを開けたら楽器が壊れていました。そこでユナイテッドに補償を申し入れたら拒否されたので、頭に来た件のギタリストは、歌とビデオ・クリップを作ってYouTubeに投稿しました。

United Breaks Guitars で検索してみてく ださい。
なかなかいい曲ですよ。

これは2008年のことで、それ以降アメリカに行くときは楽器を必ずキャビンに入れてくれるようになりました。

このときもユナイテッドは相当ダメージを受けたと思うのですが、まだ懲りていないようです。職員の質の問題でしょうか。臨機応変に対応ができなかったものでしょうか。

多分ユナイテッドは今後は、オーバーブッキングの際の「搭乗辞退御礼」を相当いい条件にするに違いありません。そうすると今度は、辞退する客が続出してキャビンはガラガラになってしまうかも知れません。あるいはそれが原因でまた一悶着があるかも知れません。(笑)

ヤマザキマザック美術館コンサート

2017年04月04日 13時16分40秒 | 音楽系
ヤマザキマザック美術館コンサートが終了しました。ヤマザキマザック美術館はその名の通り工作機械大手メーカーのヤマザキマザックが2010年に設立した美術館です。年に数回ナイトミュージアムとして、美術館閉館後に軽食会を催しその後コンサートを聴くというイベントを行っているそうです。そのシリーズの中でリュートのコンサートを開催していただきました。


開演前です。この扉の向こう側の展示室がコンサート会場です。

私的には3月からずっと続いているアーチ・リュートのソロ・コンサートの最終回になります。今回のプログラムは休憩なしの1時間程度の会ですので、今までのよりは少し短めです。美術館の方からリュートのことはほとんどご存じないという方が多いと伺っていますので、一連のコンサートの曲目から聴き映えのする曲を選んでみました。豊橋やミューズサロン(名古屋)でのコンサートにお越し頂いた方もいらっしゃるとのことでしたので、これらのコンサートでは演奏していない曲も入れることにしました。



会場はとても残響が多くリュートの演奏にぴったりでした。こういうところでリサイタルなんかできるといいですけどねぇ。残念ながら一般の貸出しはやっていないとのことでした。また別の機会がありましたら演奏したいところです。



演奏した曲目は次の通りでした。

バラール作曲アントレとクーラント、カプスベルガー作曲ガリアルダ、ザンボーニ作曲ソナタ第9番ハ短調、サンス作曲カナリオス、オリジナルでガヴォッタ、朝の10時に、ワルツM、ハナ・ファンタジー、夏のプレリュード、夜間飛行 アンコールにハーツ・イーズを演奏しました。

今回のコンサートでちょっと一段落です。桜も見頃になってきましたので、近所の桜スポットに出かけることにしましょう!

私のファミリー・ツリー

2017年04月01日 00時01分30秒 | ウソ系
私の名前の「祥」の字は祖父重太郎の父親、祥左衛門から取ったのだと小さいときから聞かされてきた。祥左衛門はとても頭がよく体も丈夫であったとのことだが、ウチは大した家柄でもないので写真や家系図もなく、どういう人物であったのかはよくわからない。祖父重太郎は三重県鈴鹿市の白子(しろこ)地区から桑名に来たので、おそらく白子に住んでいた人ではあろう。

私は大学に入った頃、中学生と高校生の家庭教師をしていたが、二人の生徒の叔父にあたる人から気になることを聞いたことを覚えている。その二人の生徒を彼らの叔父の家で教えていたのだが、家が飲食店を経営していて、より静かな環境の叔父宅で教えてもらうことになったようだ。下の生徒が無事高校に合格し、あいさつに伺った帰りしな、どういう話の流れで出てきたのかは覚えていないが、私の家族の出自について歳をとったらわかることがある、というようなことを聞いたのだ。その人は私の父親と昵懇で、私の家族のことをいろいろ聞いていたのかもしれない。それはそのときはどういう意味かよくわからなかったが、心の片隅にいつもひっかかっていた。

私は散歩するとき、その人の家の前をよく通るのだが、いつもはわざわざ訪ねて挨拶をするでもなくただ懐かしい思いに浸りながら通り過ぎるだけだった。ある時ふと思いついて訪ねてみた。もうあれから40数年経っていたが、その方はご健在でもう90歳を超える歳になっていた。向こうも最初は私が誰だか分らなかった様子だったが、話をするとすぐに思い出してくれた。私の家族のことや、家庭教師をしていたその方の甥っ子たちの話題で小一時間も話しただろうか、私は思い切ってあのとき聞いたことをその方に尋ねてみた。

最初は何のことか思い出せない様子だったが、次第に記憶が蘇ってきたようだった。その話は私の祖父重太郎から直接聞いたとのことで、とても興味深い内容であった。

「あんたのじいさんやおやっさんはあんたに言わんとあっち行ってしもたんやなぁ。ひょっとして知っとんのはもうワシだけなんかもしれん。・・・あんたのおじいさんのおじいさんは普通の人と違うんやで」
「え?それはどういうことですか?」
「正確な名前は忘れてしもたけど、あんたのおじいさんの話ではえらい身分の高い人やということや」

私の家はかつての武家でも大きな商家や農家でもないので、祖父の代より前のご先祖についてはよくわからない。しかし大した家柄でもないのに、桑名市内にある古刹、小福伝寺の檀家で高野山に納骨するのはなぜなのかはいつも疑問に思っていた。鈴鹿から「流れて」来たわけだから、近所の小さな寺の檀家であって当然なのだ。このことは、私の高祖父が身分の高い人であったということと関係があるのか。そもそもそのように重要なことをどうして私の祖父や親は私に伝えなかったのか。

私は祖父の出身地である鈴鹿市白子地区の神代館神社を訪ねてみることにした。この神社は鈴鹿市内ではもっとも格式が高いとされており、戦国時代には当時の武将が戦いに赴く際に願をかけたことで知られる。そのとき馬をつないだ松が現存しており、「駒繋ぎの松」として鈴鹿市の名所旧跡に指定されている。この神社の禰宜に話を聞けば何かわかるかも知れないと思ったのだ。訪れたのは7月の末、暑さの盛りの時期だった。神社の近くでは地区の夏祭りの鐘太鼓の音が賑やかだった。話を伺った禰宜は高齢で夏の暑さもあり喋るのも大儀そうだったが、当神社に伝わる話として次のようなことを話してくれた。

明治の初め頃、神代館神社の巫女でお菊という女性がいた。大層美しい女性で筝と琵琶の腕前も見事であったと伝えられている。明治8年に伊勢神宮の祭主に就任した久邇宮朝彦親王(今上天皇の曾祖父にあたる)が白子の神代館神社に巫女の候補を要請してきたので、当時の禰宜がお菊を推薦した。朝彦親王はお菊の美貌と才能に惚れ込み、お菊は伊勢神宮の巫女として仕えることになった。神宮に任官して1年程経った頃、お菊は男子を身ごもってしまった。お菊は巫女として勤めることができなくなり、その子の父親である朝彦親王はお菊の子に苗字、名前そして幾ばくかの支度金と楽器を与えて親子を白子に返した。その子は、姓は中川、名を祥左衛門と名乗った。中川という姓を与えられたのは、朝彦親王は当時中川の宮と呼ばれていたからだという。祥左衛門の息子が重太郎で彼は若いころ白子から桑名に移ったとのことだ。

にわかには信じられない内容なので、私はウィキペディアで「中川の宮」を調べてみた。さすがに祥左衛門の話は出ていなかったが、朝彦親王の生前の写真を見て驚いた。私の祖父重太郎とそっくりなのだ。ウィキには独自研究ながら、親王が大変な精力家で巫女を孕ませることもあったという記述もある。もしこの話が事実であるなら、私は天皇家と血縁関係にあることになる。もちろんそうであったとしても公式の話ではないので実際には何の意味もないことではあるが。しかし一つ疑問が残る。それは私の父親や祖父がどうしてそれを私に伝えなかったということだ。私の母親は存命であるが、そのことについては伝えられていないようで、その話をすると一笑に付してしまった。お菊のその後の人生はどのようなものであったのか。神代館神社にはその話は伝わっておらず、知っていたかもしれないお菊の孫やひ孫(私の祖父と父親)はもうこの世におらず、真実は永遠の闇の中に消え去ってしまった。