リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

喫茶タケミツの朝

2024年04月01日 00時30分16秒 | ウソ系

三重県K市。駅西の丘陵地。ここは何千年か前に起こった大きな地震による断層が幾重にも重なっている特徴ある地形だ。本来は見えているはずの断層崖だがたくさん家が立ち見えにくくなっているところも多いのでそのことに気づいている人は少ない。2つ目の断層の上に県立K高等学校があるが、この学校の旧制中学校時代にある生徒がこの奇妙な階段状の地形に興味をもち、長じて著名な地理学者になったという話もある。

K高等学校から少し下ったところに小ぢんまりとした喫茶店がある。坂道を歩いていてもそれとは気づかないような喫茶店だ。私は大抵の日曜の朝はここで時間をすごす。この喫茶店は稀有なことに、BGMで流れる音楽がすべて武満徹の作品だ。武満作品が流れている店内のせいか、はたまた坂道がきついせいか、ここは老人たちの喧騒とは無縁だ。静かな佇まいの店内で武満作品を聴きながら時間をすごすのは至福のひとときだ。

 店のドアを開けると今日は「地平線のドーリア」が聞こえてきた。武満が1966年に作曲した曲で彼の作品系譜では初期の時代に分類される時代だ。ここの店主とはもう長い付き合いだが特にことばを交わすことはほとんどない。少し目が合いカウンターの椅子に腰かけてしばらくすると店主がコーヒーを入れ始めた。豆はハワイコナだ。曲がダカーポにさしかかるころにコーヒーが運ばれてきた。弦のフラジオレット音を聴きながらふくよかな香りとほどよい酸味のハワイコナを味わう。

 私と武満の出会いは中学生のころだ。といっても直接会ったわけではなくFMラジオの番組で初めてそのサウンドに触れ驚愕したものだ。以来武満作品をずっと聞き続けてきている。実は武満にはリング、サクリファイスというリュートを使う室内楽曲がある。いずれも60年代はじめの作品だ。編成が少し特殊なこともあり私自身はまだ演奏したことはない。彼のソロ作品がないのはとても残念でぜひ短い作品でいいので書いてほしいのだが、何の伝手もないし具体的にどう「発注」していいのかわからないまま過ごしてきた。

私が武満に一番「近づいた」のは武満が亡くなる10か月程前、名古屋市のSホールで開催されたコンサートの時だ。この日のプログラムはオール武満作品で、指揮は岩城宏之、オケはオーケストラ・アンサンブル金沢だ。この日はコンサート前にプレトークショーがあるというので開演の1時間くらい前に会場に行った。

 2階のホワイエを通り自分の席に向かおうとすると、10mくらい先に武満が関係者らしい人と立ち話をしていた。しばらく眺めていたらその関係者との話が終わったのか武満はひとりになった。思い切って私は彼に近付き声をかけてみた。

「こんにちは」

「あ、こんにちは」

「あの、リュートの小品を1曲お願いしたいのですが」

いきなりの作曲の依頼であったが、彼はいやな顔ひとつせず、

「ほう、それは珍しい楽器ですね。実は若いころリュートを含む室内楽を作曲したことがあるんですよ」

「はい、存じ上げています。でもソロ作品がないのでぜひお願いしたいのですが」

「ところであなたはリュートを演奏なさるのですか」

・・・・・・・・・・

武満は期限を切ることはできないが小品を作ることを約束してくれた。

 この日のプレトークで武満は上機嫌であった。岩城が、武満にメロディのある曲を作ることが出来るのかと尋ねると、(もちろん岩城は武満がそういう作曲ができるということを知ってはいるのだろうけど)

「私はどんな曲でも作れますよ。バッハ顔負けのフーガとかなんならリュートのための曲だって作れますよ」

「へぇー、武満さんがリュート曲を!(聴衆に向かって)皆さん、リュートという楽器をご存じですか」

・・・・・・・・・・・・・

 この日のコンサートの翌年2月武満は65歳の生涯を閉じた。彼が約束をしたリュートソロ曲はスケッチをしてはいたのかも知れないが、今のところその痕跡は見つかっていない。

 コーヒーを飲み終えたころ、音楽はすでに変って「フォリオス」の終盤にさしかかり、やがてバッハの引用が始まった。それに合わせてか店主はそっとおかわりを差し出した。


リュートの弦がピンチ!

2023年04月01日 13時10分18秒 | ウソ系
こんな英文ニュースをネットでキャッチしました。

(原文)
Strings of the Lute in Trouble!

(Jointly reported by AnPon and Kyougou)
Ms. Gretchatta Dompeli, the advertising symbol of a radical environmental protection group in Europe, has demanded that the manufacturers of gut strings such as Akinba, Gabuto, Pirapirashitoru, Kurushuunai, Sabades immediately halt production, citing the use of cleaning agents in the manufacturing process as significantly harmful to the environment. If they do not comply, she has stated that she will not hesitate to use forceful measures. In a recent speech, Ms. Dompeli stated, "(omission) Using gut strings is a 'performance of shame'! (omission)"

Furthermore, the Food Security Subcommittee of the European Commission has expressed the opinion that it is unacceptable to use animal intestines to make strings, as it is too pity for the animals, and the All Japan Horumon-yaki Union (Zen-Ho-Ren) has also expressed their support for this view.

As a matter of fact, synthetic resin strings that could potentially replace gut strings are also at a crossroads in the carbon-free movement. Many synthetic resin strings are petroleum-derived and their prices have skyrocketed due to the trend of reduced oil production, making them unviable as a business. Moreover, the environmental protection group mentioned above has pointed out that the use of synthetic resin strings goes against the carbon-free movement and is also considered a "performance of shame."

For now, no such criticisms have been made about iron ore, the material used for modern violin and other metal strings. However, given the problems of environmental destruction and forced labor that are present, it is safe to say that the future is uncertain.

In this context, attention is being drawn to non-petroleum-based materials such as silk and silicone. Silk has been used as a string for Japanese stringed instruments since ancient times and, in response to this trend, Japanese trading companies such as Mitsuhisi, Kato Chuu, Chuu Tomo, Gotsui, and Kyubeni have shown a movement towards increased silkworm breeding. Last week, the stock price of "Kuwana's mulberry leaves," a manufacturer of mulberry leaves, which is used to feed silkworms, has been continuously hitting the daily limit. Silicon is believed to have low environmental impact as it is derived from natural materials such as silica (SiO2) and water, as well as natural gas-derived methanol. However, as a material for stringed instruments, it is still an unknown variable, with some suggesting that strings made from silicone may be too flexible and unusable.


(日本語訳)
リュートの弦がピンチ!

(AnPon発共合通信)
ヨーロッパの急進的な環境保護団体の広告塔であるグレチャッタ・ドンペリ女史が、ガット弦は製造過程における洗浄液使用などが環境を著しく破壊するとして、ガット弦のメーカーであるアキンバ、ガブート、ピラピラシトル、クルシュゥナイ、サバデスなどのメーカーに対してただちに製造を止めるように要求をした。従わないのなら、強制的な手段も辞さないとのことだ。女史は先頃の演説で、「(中略)ガット弦を使うなんて、それは「弾き恥」です!(後略)」と述べている。

またヨーロッパ・デ・委員会の食料安全保障部会では動物の内臓を食べないで弦にするのはもってのほか、それでは動物が浮かばれないとの見解を示している。これには日本の全日本ホルモン焼連合会(全ホ連)も賛同の意を示している。

実はガット弦の代替になりそうな合成樹脂弦もカーボンフリーの流れの中で岐路に立たされている。多くの合成樹脂弦は石油由来であるが原油減産の流れを受けて価格が高騰しており、ビジネスとして成り立たなくなってきている。また件の環境保護団体からは合成樹脂弦使用はカーボンフリーの流れに逆行しておりこれもまた「弾き恥」であると指摘されている。

現代のヴァイオリンなどの金属弦の材料である鉄鉱石については今のところそういった指摘はされていないが、環境破壊、強制労働などの問題も散見されることから将来は見通せない状況にあるといっていいだろう。

そんな中注目されているのが、非石油由来の素材であるシルクやシリコンである。シルクは古くから日本の弦楽器に弦として使われているが、すでにこうした流れを受けて、日本の三皮脂、加藤宙、注友、五ツ井、九紅などの商社が蚕増産の動きを見せている。先週の束証では桑の葉製造メーカーである「桑名の桑葉」の株価は連日ストップ高を続けている。シリコンは天然由来のケイ石(SiO2)と水、天然ガス由来のメタノールが原料なので環境負荷は少ないと見られているが弦楽器の弦としての素材としては未知数である。一部ではシリコンで弦を作ってもぐにゃぐにゃで使い物にならないという見立てもある。
(翻訳:中川)

昔あった本当の話(5)

2022年08月26日 17時37分57秒 | ウソ系
この事実を新聞社に言えば、この二重盗作は前代未聞、格好のネタであり、全国的なニュースとなるのは必至です。場合によれば何人かの首が飛ぶかもしれません。校長室で懇願するお二人を前に私はしばらく考えをめぐらしました・・・

この「事件」が結果的に公にならず全国的スキャンダルにもならなかったのは、その後の報道をご存じの方であればお判りになるでしょう。過去の報道をさかのぼってどれだけ調べてみてもそのような「事件」が出てくることはありません。

盗作をしたことを覚えているのはD高等学校の問題作成者および関係者、T県の1980年頃の県指導主事です。でも彼らが知っているのは事件の一部、事件の全貌を知っているのは私とあとから私の話を聞いた校長先生だけです。皆さん今もご存命なのでしょうか。

(このストーリーは事実をもとにしたフィクションです)

昔あった本当の話(4)

2022年08月25日 14時21分13秒 | ウソ系
折しも入試問題の無断引用が問題になっていたときです。D高等学校のお二人は何卒ご内密にと私に懇願しています。D高等学校の先生は10年くらい前のT県の長文テキストをそのまま使った、でも私が生徒にさせた問題はM県の昭和48年の問題。

整理しますと、

・A県の私立D高等学校の入試問題盗用があったのが1990年頃
・その元となったT県の公立高校入試問題が1980年代初め頃
・私が生徒に渡したM県公立高校入試問題は昭和48年度つまり1974年に実施された入試問題

ということはT県の入試問題を制作した方(県の教育委員会の指導主事です)が1974年にM県で実施された入試問題の長文を盗用したということです。M県の入試問題→M県の入試問題を盗用したT県の入試問題→T県の入試問題を盗用した私立D高等学校の入試問題という流れになります。それぞれ数年から10年前後の期間が空いています。

昔あった本当の話(3)

2022年08月24日 07時16分21秒 | ウソ系
翌日私の中学校にD高等学校の方がお二人、菓子折りを持参して訪ねてきました。校長室に通されたお二人がおっしゃるには、実はその入試問題は10年程前に実施されたT県の問題を参考に作ったとのことでした。

国語の長文読解問題は過去の古典なり名作を引用して作りますが、反対に英語の長文問題は問題作者のオリジナルの文章でなければなりません。これはなかなか大変な作業で、創作力、イマジネーション、文章構成力が必要でそこから設問へとつなげていくわけですからかなりの力量が要求されます。

D高等学校の担当の先生は、時間がなかったのでしょうか、イマジネーションがわかなかったのでしょうか、それともそもそも力量が足りなかったのでしょうか、こともあろうに盗作をしてしまったわけです。少し離れた他県の問題で10年くらい前のものなので大丈夫だろうと思ったとのことでした。

この話を聞いて私は二重に驚きました。盗用したのはM県の問題ではなくT県のものだと言うのです。これはいったい!

昔あった本当の話(2)

2022年08月23日 11時40分26秒 | ウソ系
2月のA県私立高校の当日、昼過ぎになり私は職員室で入試から生徒たちが学校に戻って来るのを待っていました。ふと外を見ると何人かの生徒たちが私に声をかけています。窓をあけると一人の生徒が言いました。

「センセー、この間センセーがくれた長文問題とおんなじのが出とったで!」他の生徒も口々に同じようなことを言います。

え、そんなことあり?不思議な話です。

生徒たちはD高等学校を受験したのでしたが、話を聞くと私が渡した昭和48年度のM県の長文問題とテキストのストーリーが一緒だったとのことなのです。

これは一大事です。D高等学校の入試問題作成者がM県の入試問題の長文テキストをほぼそのまま使ったわけです。早速、私はD高等学校に電話で問い合わせをしました。

入試問題担当の先生に電話口に出ていただき、D校の入試問題作成の経緯を尋ねました。そして長文問題のテキストは本当にオリジナルですか、と問うとその先生は「実は・・・

昔あった本当の話(1)

2022年08月22日 10時23分02秒 | ウソ系
今から30年くらい前、私はまだM県内の某公立中学校の英語教師。3年生を担当することが多く、いかに受験でいい点を取れるようになるか腐心しておりました。なんとか力を付けてもらいたいと、担当している3年生の生徒には県立入試の過去問を渡して課題にするということをしていました。授業で少し時間を取ってその問題の解説をすることもありました。

過去問といっても直近のものではすでに塾などで解いていた生徒もいてあまり使い物になりません。渡していたのは昭和40年代後半から50年代の古い入試問題です。学習指導要領が改訂されてきているので、多少学習範囲の異なる問題もまざっていますが、おおむね支障はありません。

3年生担当年度も1月が終わり2月に入ると隣のA県の私立高校の入試が始まります。その年度は昭和48年~53年の入試問題をさせていました。古い入試問題はすでに入手できないので生徒には人気がありました。

どうしてそのような古い入試問題を私が持っているのかというと、教職についた年からずっとM県の入試問題集を本屋で買い続けていてちょっとしたコレクションとしていたからです。

世界初公開!

2021年04月01日 00時06分36秒 | ウソ系
ザザビーズというオークションで一枚の古楽譜が800万円で落札されました。楽譜と言っても五線譜ではなく、年代的には18世紀前半のものというくらいしか公表されていませんでした。ひょっとするとそれはバロック・リュートのタブの可能性が考えられました。

いつぞやのBWV998のときもそうでしたが(こちらは1億円で落札の噂があります)、リュート関連の楽譜がときおりオークションに出てくるものです。

落札者の名前は公表されていませんでしたが、どうも中国人らしいということで上海に住む知り合いの中国人にきいてみましたら、なんと彼の弟が落札したということでした。実はこの弟さん、私が1999年に上海でコンサートをしたときにいろいろお世話になった方で、そのころは一介のギターを愛好する勤め人だったのですが、ひょんなことで始めた不動産投資であれよあれよという間に財を築き、20年後の今や上海の浦東に巨大なビルを4つも持つ大富豪です。

まぁ旧知といえば旧知の仲ですので、連絡を取ってみると、

「ウェイ、ウォーシェーチュンチュワンシャンシー(もしもし、私は中川祥治です)」

「おー中川さんね。久しぶりあるね。どうしてる?」

「コロナで大変ですけど、また上海でコンサートをしたいですね。ところであなたが先日落札した楽譜ですけど、よかったら見せてもらいたいんですけど」

「あー、あれね。あれ多分琉特琴(リゥターチン)の文字譜あるね」

「(やっぱり!)」

「琉特琴は日本語だとリュートだたかな。巴赫のBWV998の1億に比べたらたった800万、安いもんあるね。つい衝動買いあるよ。ハハハ。なんなら中川さんにプレゼントするあるよ」

「いやいや、そんな高価なものとんでもない。画像を送ってもらうだけで十分です」

「おー、中国人なら絶対にもらうある。やっぱり、あなた日本人あるね。それじゃ中川さんが世界の皆さんに広めるある」

ということで楽譜を送ってもらいました。それがこちらです。世界初公開ですよ!



曲名はPhantasia、ファンタジアです。なんとイタリアンタブです。作曲者名は書かれていません。調弦はバロック・リュートのニ短調調弦ではなく、アーチ・リュートの楽譜のようです。公開の許可を頂いた記念に録音をしてみました。楽譜には少しミスがありますが私の方で修正いたしました。また楽譜はこのページだけですが、曲は途中で切れています。この続きも補作してみました。最近ヴァイスのコンチェルトのフルートパートを補作しましたし、こういうことは得意です。一度聴いてみてください。

Phantasia

「桑名市」から「はまぐり市」へ

2018年04月01日 00時13分51秒 | ウソ系
桑名市では市の名称のネーミングライツを募集しておりましたが、貝の佃煮を製造販売している貝鮮が命名権を獲得しました。貝鮮は江戸時代から続く貝の佃煮製造販売の老舗で、広重の浮世絵にも描かれています。貝鮮からは「はまぐり市」という名前を提示されましたが、市の協議会で協議した結果、歴史のある桑名という名前も捨てがたいので、漢字で「桑名」と書き、よみがなを「はまぐり」とするということに決まり本日から実施されます。

市の協議会では、ある委員から「桑名という名前は中世以来使われている由緒あるものなのに、なぜ貝ごときの名前に変えてしまうのか」という厳しい意見も出されました。一方貝鮮側は「桑名の町ができるずっと以前に、すでにはまぐりは桑名の浜に生息していていたのだから、はまぐり市の方が正当性がある」と主張、結局両意見の折衷案として、既述のように漢字で書くときは「桑名」と書き、それを読むときは「はまぐり」と読むということにしたということです。ただしひらがなで書くときは読み方のとおり「はまぐり」と書くとのこと。



JR桑名駅では今日4月1日から駅名表記を書き換え、ひらがなで「はまぐり」(これは駅のコールにも使われます。例えば「あと1分少々ではまぐりに到着します」とか「次ははまぐり~はまぐり~」のように)、その下に漢字で「桑名」と表示になりました。

なおローマ字表記では桑名とはまぐりの連想がない外国人観光客のために従来通り「Kuwana」、行政的には補助金請求の混乱などを防止するためにこれも従来通り「三重県桑名市」とすると決まりました。

私のファミリー・ツリー

2017年04月01日 00時01分30秒 | ウソ系
私の名前の「祥」の字は祖父重太郎の父親、祥左衛門から取ったのだと小さいときから聞かされてきた。祥左衛門はとても頭がよく体も丈夫であったとのことだが、ウチは大した家柄でもないので写真や家系図もなく、どういう人物であったのかはよくわからない。祖父重太郎は三重県鈴鹿市の白子(しろこ)地区から桑名に来たので、おそらく白子に住んでいた人ではあろう。

私は大学に入った頃、中学生と高校生の家庭教師をしていたが、二人の生徒の叔父にあたる人から気になることを聞いたことを覚えている。その二人の生徒を彼らの叔父の家で教えていたのだが、家が飲食店を経営していて、より静かな環境の叔父宅で教えてもらうことになったようだ。下の生徒が無事高校に合格し、あいさつに伺った帰りしな、どういう話の流れで出てきたのかは覚えていないが、私の家族の出自について歳をとったらわかることがある、というようなことを聞いたのだ。その人は私の父親と昵懇で、私の家族のことをいろいろ聞いていたのかもしれない。それはそのときはどういう意味かよくわからなかったが、心の片隅にいつもひっかかっていた。

私は散歩するとき、その人の家の前をよく通るのだが、いつもはわざわざ訪ねて挨拶をするでもなくただ懐かしい思いに浸りながら通り過ぎるだけだった。ある時ふと思いついて訪ねてみた。もうあれから40数年経っていたが、その方はご健在でもう90歳を超える歳になっていた。向こうも最初は私が誰だか分らなかった様子だったが、話をするとすぐに思い出してくれた。私の家族のことや、家庭教師をしていたその方の甥っ子たちの話題で小一時間も話しただろうか、私は思い切ってあのとき聞いたことをその方に尋ねてみた。

最初は何のことか思い出せない様子だったが、次第に記憶が蘇ってきたようだった。その話は私の祖父重太郎から直接聞いたとのことで、とても興味深い内容であった。

「あんたのじいさんやおやっさんはあんたに言わんとあっち行ってしもたんやなぁ。ひょっとして知っとんのはもうワシだけなんかもしれん。・・・あんたのおじいさんのおじいさんは普通の人と違うんやで」
「え?それはどういうことですか?」
「正確な名前は忘れてしもたけど、あんたのおじいさんの話ではえらい身分の高い人やということや」

私の家はかつての武家でも大きな商家や農家でもないので、祖父の代より前のご先祖についてはよくわからない。しかし大した家柄でもないのに、桑名市内にある古刹、小福伝寺の檀家で高野山に納骨するのはなぜなのかはいつも疑問に思っていた。鈴鹿から「流れて」来たわけだから、近所の小さな寺の檀家であって当然なのだ。このことは、私の高祖父が身分の高い人であったということと関係があるのか。そもそもそのように重要なことをどうして私の祖父や親は私に伝えなかったのか。

私は祖父の出身地である鈴鹿市白子地区の神代館神社を訪ねてみることにした。この神社は鈴鹿市内ではもっとも格式が高いとされており、戦国時代には当時の武将が戦いに赴く際に願をかけたことで知られる。そのとき馬をつないだ松が現存しており、「駒繋ぎの松」として鈴鹿市の名所旧跡に指定されている。この神社の禰宜に話を聞けば何かわかるかも知れないと思ったのだ。訪れたのは7月の末、暑さの盛りの時期だった。神社の近くでは地区の夏祭りの鐘太鼓の音が賑やかだった。話を伺った禰宜は高齢で夏の暑さもあり喋るのも大儀そうだったが、当神社に伝わる話として次のようなことを話してくれた。

明治の初め頃、神代館神社の巫女でお菊という女性がいた。大層美しい女性で筝と琵琶の腕前も見事であったと伝えられている。明治8年に伊勢神宮の祭主に就任した久邇宮朝彦親王(今上天皇の曾祖父にあたる)が白子の神代館神社に巫女の候補を要請してきたので、当時の禰宜がお菊を推薦した。朝彦親王はお菊の美貌と才能に惚れ込み、お菊は伊勢神宮の巫女として仕えることになった。神宮に任官して1年程経った頃、お菊は男子を身ごもってしまった。お菊は巫女として勤めることができなくなり、その子の父親である朝彦親王はお菊の子に苗字、名前そして幾ばくかの支度金と楽器を与えて親子を白子に返した。その子は、姓は中川、名を祥左衛門と名乗った。中川という姓を与えられたのは、朝彦親王は当時中川の宮と呼ばれていたからだという。祥左衛門の息子が重太郎で彼は若いころ白子から桑名に移ったとのことだ。

にわかには信じられない内容なので、私はウィキペディアで「中川の宮」を調べてみた。さすがに祥左衛門の話は出ていなかったが、朝彦親王の生前の写真を見て驚いた。私の祖父重太郎とそっくりなのだ。ウィキには独自研究ながら、親王が大変な精力家で巫女を孕ませることもあったという記述もある。もしこの話が事実であるなら、私は天皇家と血縁関係にあることになる。もちろんそうであったとしても公式の話ではないので実際には何の意味もないことではあるが。しかし一つ疑問が残る。それは私の父親や祖父がどうしてそれを私に伝えなかったということだ。私の母親は存命であるが、そのことについては伝えられていないようで、その話をすると一笑に付してしまった。お菊のその後の人生はどのようなものであったのか。神代館神社にはその話は伝わっておらず、知っていたかもしれないお菊の孫やひ孫(私の祖父と父親)はもうこの世におらず、真実は永遠の闇の中に消え去ってしまった。