リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

盗作疑惑2

2006年06月05日 23時31分01秒 | 随想
あの和田さんの受賞が取り消されましたね。和田さんは、「返上願いを受け付けず、盗作ではないという主張も受け入れられないままの取り消し決定は大変遺憾だ」とおっしゃっていますが。

返上するというのは、何か自分の地位や名誉に固執するようで、芸術家がするようなことではないっすねぇ。そんな世間的なものなんか目もくれずに、自分の芸術論を主張し続ければ立派だったのになぁ。三重県人として応援したのに。(あ、彼は三重県の出身です)構図はプロジェクタかなんかで投影して描いたみたいにぴったりだけど、色の塗り方なんかは厳密には随分違うんだから、全体としてはオレの創作なんだっていい続ければよかったんですけどね。世間はそれに対して冷たい視線を送り、彼はあらゆるモノが剥奪され、困窮のまま一生を終える。そういう芸術家が、100年くらい経って周りの芸術的認識が大きく変化したときに突如彼は再評価される、こんなようなことって今までにも結構あったと思います。

いや、ホントに和田さんの再評価はありうることかも知れませんよ。全く何もないかもしれませんが、時を経てみないとわかりません。それに備えて、今回の件は世間体なんか全く考えず、徹底的に自分の主張を通しておくとよかったかもしれませんね。

今のラップミュージックの世界なんか、音楽トラックは既存の音楽の切った貼ったのオンパレード、音楽を演奏や作曲・編曲する側から見れば、ドロボウもいいとこ。でも切った貼ったも上手にして、ラップの言葉やそのリズムが豊かな内容であれば、全体としてはすごく芸術的になる、ってことが最近分かりました。(実は息子がラップの修行をしているので)

この世界、著作権のことをごちゃごちゃ言っていたら成り立たない世界です。(ま、ある程度はきちんとやっているのかも知れませんが)でもラップの世界がビッグになってきたので、むしろ著名ラッパーのトラックに自分の音楽が引用されたってことが名誉になっているくらいです。盗作だーなんて言わないわけです。

芸術ってのは時間のフィルターを経てやっと世間一般に分かってくるものもありますが、実際はそういうのってそんなには多くはないのも事実ですね。バッハの音楽はすごすぎてそのすごさが世間一般にはイマイチ理解されなかったようですが、当時その価値をちゃんと理解している人もいました。でも時代を経てより多くの地域、より多くの人に聴かれるようになり、そのすばらしさがより多くの人に分かってきたわけです。いわば当時のライプチヒには彼を計る物差しがなかったということですね。

南方熊楠(1867~1941)という和歌山県出身の博物学者がいましたが、いまだに彼の業績の全貌が評価しきれないそうです。彼が生きているときはもちろん死後60年以上経ってもまだ彼を計る物差しがないわけです。で、和田さんに戻りますが、ひょっとして彼を計る物差しが今はないだけけもしれません。もっとも個人的にはあまりそんな感じはしませんが、実際の作品を見たことがないので確かなことは言えません。

渡欧 (7)

2005年07月15日 00時04分32秒 | 随想
 飛行機はモスクワ経由でパリまで飛び、そこからは陸路でスイスに入ることになっていた。76年の渡欧とは比較にならないくらい短い時間でパリに到着した。パリのドゴール空港には今村氏が迎えに来てくれており、駅前で簡単な食事をしたあと、3人でスイスに向かう夜行寝台車に乗り込んだ。Kさんはヴィンタートゥアまで向かうので私と今村氏とはバーゼルで別れを告げた。バーゼルのフランス駅を出た私たちは、今の駅前にあるチョコレート屋さんの前あたりでシトロエンのタクシーを拾って今村氏の下宿のあるライメン通りまで向かった。
 その前の渡欧と異なり、スコラが学期中であったため、今村氏に連れられていくつかの授業に参加したり、小さなコンサートを聴くことができた。スコラに行くとレコードや雑誌などで名前しか見たことがなかった有名な演奏家や音楽学者が目の前を歩いていくのを見て、私は少々興奮気味だった。今村氏の紹介でホプキンソン・スミス氏とオイゲン・ドンボア氏のレッスンを受けることができた。当時ドンボア氏はヴァルター・ゲルヴィヒを継ぐリュート界の騎手、ホプキンソン・スミスは新進気鋭のホープだった。スミス氏には持っていったルネサンス・リュートでダウランドのファンシーを見てもらった。少し驚いたことに氏はその曲を知らなかったようだ。21世紀に入って、氏が新たにイギリスのレパートリーに取り組んだ際、その曲が入っていたが、そのときのレッスンのことを覚えてくれていたのだろうか。ドンボア氏には、今村氏にドイツ・テオルボを借りてヴァイスの不実な女を見てもらった。氏のレッスンは当時のスミス氏とは異なり、学生を励まし包み込むようなレッスンだった。実はその当時氏はすでに右手が腱鞘炎に冒され、リュートを弾くことが出来なかった。敢えてリュートを弾いて見せたその右手は、痛々しくもかつてのように雄弁な音楽を語ることはなかった。氏は最後に、「今日は久々にいい音楽に触れることが出来た」といって私の演奏を褒めてくれた。そのことばは私に音楽を続けていく力を大いに与えてくれた。79年の渡欧は短かったが、いろんな面で大変充実していた。私はこのままバーゼルにいて帰国するのをやめてしまおうと真剣に考えたりもした。もしそれを実行していたら、私の運命も相当変わっていたに違いないが、結局ごく真っ当に帰国する道を選び、2003年9月に至るまでバーゼルを訪れることはなかった。

渡欧 (5)

2005年06月28日 06時02分24秒 | 随想
 佐藤氏宅には3週間近くも居候させて頂いたか。その間、ロンドン、ブリュッセル、アムステルダムに行って楽譜を探しに行ったり、楽器製作家に会いに行った以外は、ずっとデン・ハーグにいた。時期的にコンサートもなく、学校も休み、もちろん講習会などない。することと言えば、日本から持ってきた加納木魂氏作のバロックリュートを弾いたり楽譜を書き写すくらいだ。疲れたら近所のスヘヴェ・ニンゲンの海岸に行ったり、たまに氏の留守番をしたり、夜は氏と食事をしながらリュート談義という、ある意味では単調な、しかし充実した日々を過ごした。デン・ハーグでは当時まだ学生だった今村氏とも会うことができた。彼とはすでに名古屋で一度会っていて、初対面ではなかった。彼の下宿に行き夜を徹して(といっても暗くなるのは4時間くらいだったと思うが)話をしたが、その時彼は真剣な顔でデン・ハーグからバーゼルに学校を変わるかも知れないと言っていたのが印象に残っている。

渡欧 (4)

2005年06月26日 19時52分36秒 | 随想
 東京からソウルの金浦空港まで2時間、そこで待つこと6時間、そしてアンカレッジまで8時間、パリのオルリー空港まで10時間余り、シャルル・ドゴール空港までバスで1時間、アムステルダムのスキポール空港まで1時間、そしてデン・ハーグまでバスで小一時間、今ならその半分もかからないだろうが、やっとの思いで私はデン・ハーグの駅前に立った。そこからタクシーに乗り、佐藤氏宅に向かった。初めて会う佐藤氏は、初対面にもかかわらず気さくに迎えてくれた。氏は当時デン・ハーグ音楽院の教授に就任して間もないころで、いわば飛ぶ鳥を落とす勢いの演奏家、当時の私にとっては雲の上の人だった。

渡欧 (3)

2005年06月23日 05時50分46秒 | 随想
 ヨーロッパにおける滞在先は、オランダ・デン・ハーグの佐藤豊彦氏宅だ。当時まだ面識はなかったが、手紙のやりとりをしたりテープを送って演奏を聴いてもらったりしていたので、3週間ほどご厚意にあずかることになった。今思うと、いくら手紙でのやりとりなどがあったとはいえ、面識のない人のところによく厚かましくも押し掛けたものだと思うが、世間知らずのなせるわざか。本当はせっかくヨーロッパに行くのなら、講習会に参加した方がよかったのだろうが、7月の終わりはそういうものが開かれない時期だ。当時の私はとにかくヨーロッパの空気を吸ってみたい、佐藤氏に会って当時最先端のリュート研究に触れてみたいの一心だった。

渡欧 (2)

2005年06月19日 04時55分56秒 | 随想
 当時はソ連上空を飛行機で通過できなかったので、普通はアラスカのアンカレッジ空港で一旦給油して、北極経由でヨーロッパに向うことが多かった。その時は大韓航空の格安券を買ったので一旦ソウルに行き、またアンカレッジに向かうという逆戻りルートになる。もう少しはずめば、東京からアンカレッジに向かう便を使えたが、貯金も何もないころのこと、いたしかたなかった。ただ格安券と言っても、当時の私の手取りの何倍も払わなくてはならず、実際は決して格安ではない。6,70万した正規運賃よりはかなり安いと言う意味で格安ということだ。その航空券を買うために、私は教職員互助会から借金をしなくてはならなかった。

渡欧 (1)

2005年06月17日 04時33分26秒 | 随想
 教師になって2年目、1976年の夏に私は初めてヨーロッパに渡った。まだ海外旅行がめずらしかった頃で、職場の方々にはいろいろ配慮して頂いた。出発の日の昼には、職員一同集まり一緒に昼食をとり、歓送会までして頂いた。まだ地域の社会教育力があり、生徒の問題行動もほとんどなかった時代だからこそできた話しで、今だったら一新米教師の渡欧のための昼食会など、いくら昼休みの休憩の時間のこととはいえまず不可能だろう。何もかも余裕のあった時代だ。
 その日の夕方、リュートを含めた沢山の荷物とともに私は新幹線に飛び乗った。その日は東京に泊まり、翌日ソウル・アンカレッジ経由の大韓航空便にのることになっていた。東京では友人のYさんに夕食をおつきあい頂いた。彼はアマチュア・リュート奏者の草分けで、当時すでにオリジナル資料の蒐集では定評があった方だ。彼のご厚意で翌日も都内の宿から羽田まで車で送って頂いた。

岐路 (4)

2005年06月04日 03時26分30秒 | 随想
 その年の7月はいつになく冷夏ですごしやすかった。おかげで受験勉強も順調に進めることができた。採用試験の当日はよく晴れていたが試験会場がある県庁所在地の駅は二、三日前の豪雨で冠水したため線路や枕木に泥が沢山残っていた。試験は市内の高等学校で行われたが、テスト自体はさほど難しいものではなく、また幸運にもいくつか張っていたヤマが当たった。そのお陰もあり私は無事教員採用試験に合格することができた。1975年4月、私は晴れて英語教師として県庁所在地のZ市から車で30分ほどの田舎の中学校に赴任した。かろうじて自宅から通えるところではあったので、約1時間半かけて通うことにした。そのために親からお金を借りて360ccの軽自動車を買い、それをZ市の駅前に置いておき、そこからはその車で学校まで通った。朝は6時前に起き、自宅に帰るのはどんなに早くても7時前という勤務で私の生活は激変した。当初の思惑とは異なり、楽器を練習するための時間は、一日のうちで物理的に数時間以上は無理だった。こういう状況は、後に自宅近くの学校に転勤した後もずっと続き、結局在職の28年間ほとんど変わらなかったように思う。音楽をずっと続けていくということは、時間との戦いということだった。

岐路 (3)

2005年06月02日 08時56分08秒 | 随想
 晴れて大学「5年生」を迎え、無事母校での教育実習を終えた私は、7月後半に行われる教員採用試験に臨むことになった。教師になろうと決めて半年も経っていなかったので、受験対策など皆無の状態で7月を迎えていた。さすがにそれではまずいと思い、そのころまだやっていたヤマハのギターコンサルタントの仕事を3週間だけ休ませてもらい、受験勉強に専念することにした。本屋に行き参考書を探したがどれも同じようなものばかりで、なかなかいいものが見つからない。そのとき目にしたのが、序文の中でその本を徹底的にやれば合格を保証すると言い切っていた一冊があったので、それを購入した。用語辞典での出版で有名な出版社のものだ。もちろんそんな謳い文句を信じていたわけではないが、これも何かの出会いだろうとその時思った。私の住んでいた県はその当時教員採用試験に一般教養の試験がなかった。試験は専門とする教科(私の場合は英語)と教職教養のみだ。もし一般教養試験があり三教科であったらならば、三週間あまりの受験勉強では到底無理だっただろう。受験勉強は、英語はそれなりに自信があったのでほとんどやらず、教職教養一本に絞った。


※2年ほど前に、ちょうどこの年(1974年)の12月に行われたコンサートのテープが「発見」されました。そのコンサートの関係者の方がずっと保存していたもので、それをデジタル化したものをいただきました。本当に懐かしい思いで演奏を聴きました。演奏した曲もすっかり忘れていて、何も言わずに聴かされたら自分の演奏だとは思わなかったでしょう。結果的にその演奏が人前でギターを弾いた最後になりました。というか、ギターの演奏で唯一残っている録音です。その演奏がぜひ聴きたい!とおっしゃる奇特な方のために(あまりいないでしょうけど(笑))、一応mp3ファイルをアップしました。曲は、ラウロのベネズェラ舞曲第3番とブローウェルのフーガです。ただし2曲とも著作権保護期間中の楽曲なので、一般的にアクセスできる形では公開できません。Yahooのブリーフケースに入れてあります。私宛にメイル(nakasho@na.rim.or.jp)をいただければ、ブリーフケースの「鍵」をお知らせします。

岐路 (2)

2005年05月29日 05時25分28秒 | 随想
 進路を選択した頃、リュートとギターは一人で弾きわけることは、爪やタッチの問題があり、それはできないのではないかと考えていた。今ではできないと考えるのは当たり前だろうが、当時はギタリストのブリームやラゴスニヒが爪を使ってギター的構造のリュートを弾いていた時代だ。その頃日本でも同じような方式でリュートとギターを弾いていた人が何人かいた。しかし私は傲慢にも、彼らとは一線を画する次の世代のリュート奏者たろうという気負いがあり、いずれギターは完全に捨てることになるだろうと思っていたのだ。そういう思いも私に「二足わらじ」をはかせた理由の一つだろう。その決定をしたのは、大学4年生になった年の暮れか翌年になった頃あたりだと思うが、教師になるために取らなければならない単位が不足していた。そこで、一つの授業の最終提出課題を提出せず敢えて留年することにした。どの校種の教師になるのかは、漫然と中学校と決めていた。特に大きな理由はなかったが、中学校時代が一番印象に残ることが多かったのが理由だったかも知れない。