リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

忘れ物の話 (1)

2005年05月31日 00時29分05秒 | 日記
私はよく忘れ物をするほうだと思います。特に傘はしょっちゅうです。でもこっちではまだ一度も傘を忘れたことがありません。ま、雨の日が少なくて傘を使う頻度が少ないからでしょうけど。
でも、大きな忘れ物をしたことが2回あります。一つはPDA。確かこっちに来てまだ間もないころだったと思いますが、チューリヒに行くときの列車の車内で忘れた(というか落としたいった方が近いかもしれまんが)ことがありました。ズボンの後ろポケットに入れてあったPDAが列車に座っているときにポロリと外に出て、そのまま気が付かず列車を降りてしまった訳です。
気が付いたのはチューリヒから帰ってきてウチに着いたときですから、間抜けなもんです。(笑)どこを探してもPDAが見あたりません。大事な予定(ってそんなに沢山ありませんけど)が書かれていたPDAです。データそのものはパソコンにバックアップしてありましたが、PDAは必需品なので、もったいないけど新しいのを買わざるを得ないなと思いました。
翌日のレッスンのときに、ホピーにそのことを話すと、

「ショージ、ここはスイスだということを忘れてはいけないよ。イタリアとかフランスとは違うから。駅の遺失物係に届けてごらん。100%とは言わないけど、かなり高い確率で戻ってくるよ」

と真顔でいいます。いくら治安のいいスイスでもホンマかいなとは思いましたが、帰ったらさっそく遺失物係に連絡してみようと思ってホピーの家を後にしました。帰ってしばらくすると電話です。チューリヒの向こうの街、ヴィンタートゥアの近くに住んでいるとおっしゃる方で、私のPDAを列車の中で取得したという。なんでもPDAのオーナーを住所録から推測して私のところに電話したそうです。

「PDAの中に書かれている住所はあっていますか?」
「は、はい!ありがとうございます」

親切な方に拾っていただきさらにその方がPDAの扱いをよくご存じだったという二重の幸運がかさなったんですね。2日くらい後にPDAは無事ウチに届きました。その年のクリスマスにはたっぷりお礼をしたのは言うまでもありません。

もう一つの忘れ物はまた明日。

Schengen

2005年05月30日 05時45分20秒 | 日記
ここ一ヶ月くらい、Schengenということばが書かれた広告を街でよく見るようになりました。ウチのポストにSchengenがどうたらこうたらという、パンフレットも入っていました。中味は、Schengenが治安を悪くしたり、スイス人の職がなくなるというような内容です。これからするとSchengenというのは、多分移民政策みたいなことに関することだと思いましたが、こういうときはまず辞書です。
日本から持っていったカシオの電子独和辞典で調べてみましたが、載っていません。大家さんは最近また出かけているみたいなので、ひとつ下のアナ(ドイツ人です)に聞いてみたらそんなことばしらないという。うーん、スイス語だなこれは。
スイスも移民や難民の受け入れで苦労しているみたいです。昔から住んでいるスイス人は皆モラルや治安の低下を嘆いています。まぁ、それでも他の西ヨーロッパの国々と比べたら相当いいほうだとは言えますけどね。私の周りには土地の人じゃない人が結構沢山住んでいますけど、別にどうってことはないし。あ、私も土地の人じゃないですしね。
でも、難民の子供の良くない行状もいくつか聞いたことがありますし、薬物中毒は多分日本よりひどいみたいだし。この間も近所の公園を散歩していたら、中学生くらいの男の子たちがかたまって何やら煙を吸っていました。そばを通っていったら明らかにタバコとは違う臭い。こっちの子はタバコくらいは平気で人前で吸っていますから、(最近は日本もそうかもしれないけど)あれは多分マリファナでしょう。ってマリファナ吸ったことないので断言はできませんが。
とはいうものの、基本的にはバーゼルはとても安全な街ではあります。族もいないし、ヤクザみたいな人も見たことないし。(笑)
Schengenに関する投票は、来月の初めくらいにあります。悩めるスイスはどういう選択をするでしょうか。

岐路 (2)

2005年05月29日 05時25分28秒 | 随想
 進路を選択した頃、リュートとギターは一人で弾きわけることは、爪やタッチの問題があり、それはできないのではないかと考えていた。今ではできないと考えるのは当たり前だろうが、当時はギタリストのブリームやラゴスニヒが爪を使ってギター的構造のリュートを弾いていた時代だ。その頃日本でも同じような方式でリュートとギターを弾いていた人が何人かいた。しかし私は傲慢にも、彼らとは一線を画する次の世代のリュート奏者たろうという気負いがあり、いずれギターは完全に捨てることになるだろうと思っていたのだ。そういう思いも私に「二足わらじ」をはかせた理由の一つだろう。その決定をしたのは、大学4年生になった年の暮れか翌年になった頃あたりだと思うが、教師になるために取らなければならない単位が不足していた。そこで、一つの授業の最終提出課題を提出せず敢えて留年することにした。どの校種の教師になるのかは、漫然と中学校と決めていた。特に大きな理由はなかったが、中学校時代が一番印象に残ることが多かったのが理由だったかも知れない。

本格的夏到来?

2005年05月28日 06時28分52秒 | 日記
5月の始めのころ何日かこっちで言う夏のような日がありましたが、それ以降ずっと涼しくストーブがあった方が、という感じの日もあったくらいです。それがここ2,3日いよいよ夏到来ですねぇ。
もっとも日本でいう夏とはほど遠く、湿度が低いのでさらっとしています。昨日ホイヴァーゲ近くにある屋外温度計では30度を表示していました。でもこの数字がホンマかいな、と思えるほど、外気温は穏やかなものでした。日本で30度になると結構強烈ですからね。
それにこっちは夜になると涼しくなるので楽です。
暑くなると夕方頃(といっても元々緯度が高い上にサマータイムなので、日本の夏でいうと3時頃のような明るさです)には繁華街のレストランはみな外にある椅子に座って一杯やったり食事をしたりしています。日本ではこういうことができる時期って比較的限られていますけど、バーゼルの場合結構長い期間外で飲食できます。もっとも中は冷房がないので暑いから外で食べるということなんでしょうけど・・・
それにしてもお昼ころ街を歩いてもそうやって一杯やっている人が結構いるんですけど、彼らは仕事はどうなってんのかな?単に失業していてすることがないだけかも知れませんが、でも街に人が沢山出て来て、にぎわうというのはいいことではありますよね。

岐路 (1)

2005年05月27日 06時06分33秒 | 随想
 大学2年生を過ぎたあたりから、名古屋市内を中心にいろいろギター関係の活動をするようになり、4年生にさしかかる頃にはそれなりの収入を得ていた。今では外国の有名な演奏家でも300人集めるのは大変だろうが、当時はその何倍も裾野が広かった時代、大して実力も経験もない若いギタリストでもそれなりに仕事があった古き良き時代だ。家庭教師をしていた分まで含めると、当時の普通の大卒者初任給より「月収」は多かったかも知れない。ところが、大学4年生の頃だったと思うが、その頃日本を襲ったいわゆるオイルショックの影響で収入が三分の二くらいまで落ち込んでしまった。それまでそこそこの収入があったので、大学卒業後はギターで生計を、と漫然と考えていたのだが、これほどまで世の中の影響をもろに受ける職種だとは愚かにも考えてはいなかった。大学も最終学年になり、進路を決定しなくてはいけなかった私は、ギターで生計を立てていく道をあっさりと捨てた。実はこの決定には、そのころ相当部分軸足を移しつつあったリュートの存在がある。もしギターのみを弾いていたのであれば、少しくらい収入が減ったくらいではその道を捨てることはなかっただろう。仕事にならないリュートの演奏活動は、ギターによる収入で支えていけるだろうと思っていたが、その考えは甘いと悟ったのだ。「リュート生活」を支えるためにはいっそ「定職」に就いた方がいいのではと思い選んだのは、比較的時間的ゆとりがありそうに見えた学校の先生だ。

車売ります

2005年05月26日 00時01分21秒 | 日記
道を歩いていると、ときどきとめてある車に「売ります」と書いた紙が貼ってあることがあります。始めは誰かがいたずらで紙を貼っていったのかと思いましたが、よく見ると紙は内側から貼ってあるので、車の持ち主が張り紙をして、道に駐車してあるようです。
最近の日本では、張り紙も何もしてないのに、勝手に車を持っていく人もいるようですけど、(ただし高級車だけらしい)さすが治安のいい性善説の国スイスですね。(笑)
少し前、ウチの前にとめてあったすごいかっこいいアルファロメオが「売ります」になっていました。決して車は嫌いな方ではないので、もしこっちで車を買って、日本に持っていくとすると・・・なんて考えてみましたが、まず先立つものが必要ですね。(笑)
昔、ヨーロッパから自前で並行輸入を考えたことがありましたが、やれなくはないんですよね。シベリア鉄道でナホトカ(だったかな?)まで運び、そこから新潟まで船で、それから陸路で近所まで運んで、国内法規に合わせた業者のところに持ち込んで改造して、車検を受けて・・・でも最近シベリア鉄道は危ないというし、途中のリスクを考えるとあまり得策ではないような感じです。
そういや、去年エジンバラに行ったとき、オーストラリアから車ごと引っ越してきた人に会ったことがあります。自分が乗っている車に一切合切の荷物を積み込みそれごと船に乗ってきて、エジンバラではその車に乗って、帰るときはたぶんその逆をするわけです。うーん、なかなかいい方法ですね。必要な荷物を送らないで車に積み込むというところがミソです。荷物の梱包&送付って結構面倒ですからね。でも車関係の法律はどうクリアしたんでしょうね。イギリス連邦内だからゆるいのかも知れないし。日本からだと、多分荷物の梱包&送付よりそっちの方がよっぽど面倒な感じだし、運賃もかさむし、これもあまりメリットはなさそうです。

目覚め

2005年05月25日 04時07分55秒 | 日記
今朝、突然の轟音で目がさめました。アスファルトを切り裂く、あのドドドドドドドドド~です。びっくりしましたね。一瞬何事が起こったかと思いました。時計を見ると7時半。世間のみなさんはもうとっくに起きている時間かも分かりませんが、私はまだ熟睡の時間。(笑)
でも、こんな音量じゃとても寝てられませんから、起きることにしました。ひょっとして一日中やってる?と不吉な事態が脳裏をかすめました。ということはリュートの練習どころではなくなる!スコラで部屋を探しながら練習か、部屋探すのって結構大変なときもあるしなぁ、明日もまたこんなんかな?と次々に「負の可能性」が広がって来ます。
でもよく考えたら、スイスの労働者ってあまり勤勉に見えないから、一日中やるわけないですよね。
窓から作業をみたら、アスファルトを長方形の形で切り裂いていて、二つ目の辺が半分くらい行ったところです。
案の定20分もしないうちに終わりました。もう一度寝直ししようかとも思いましたが、また戻ってくるといけないので、やはり起きていましょう。(笑)
日本のウチの近所で、国道集中工事とか言って夜通し工事をしていたことがありましたが、地域住民は大変でした。でも道路は早く整備されてその分は助かります。
こっちはせいぜいさっきの工事くらいですから、住民はほとんど文句は言わないけど、工事はなかなか終わらない。その遅さは半端ではありません。日本人の目には工事は進んでいないように見えます。
どっちがいいのでしょうね。

課題作り

2005年05月24日 06時32分59秒 | 日記
ボブ(中世リュートの先生)のレッスンの課題はいつもDjangoという、タブラチュア・プロセッサを使って書いています。Djangoのことは以前書いたことがありますけど、特にこの課題をするのに役立ちます。というのは、2色だけですけど、文字の色分けができるからです。
ボブのレッスンでは、毎回予め1曲声楽曲のリュートソロ編曲やリュート伴奏を作っていき、それを元にいろいろ議論しています。当初は隔週の予定だったんですが、なぜか毎週やってもらっています。正直毎週1曲新しい編曲を作っていくのは少々しんどいです。バッハのライプチヒ時代最初のころの苦労(新作カンタータをほぼ毎週1曲作っていた)がよくわかる・・・って、質的にも量的にも比較になりませんが。(笑)
中世の曲はテナーの旋律が最も重要なんですが、声楽曲をリュート用にアレンジするときにテナーの旋律だけを赤色で表示するわけです。これはホントに便利。特に中世の曲は全体の音域が狭くて、各声部が頻繁に交差しますから、真ん中だけとか最下部だけとか見ているだけではテナーの旋律を特定しづらいものです。それが赤色で示される訳ですから一目瞭然。
ボブはMacを使っているんですが、このDjangoを動かすために、とうとう最近Windowsエミュレータを買ったそうです。でもコンピュータはあまり得意じゃないみたいで、まだ稼働はしてないようです。ま、どの分野でもそうですが、ある程度の年齢以上の人は概ねコンピュータが苦手のようです。ホピーもそうだし今村さんもあまり得意じゃないみたいです。ただ、ホピーは息子がコンピュータの専門家なので、HP制作管理等を全てやっています。私は今村さんの電話サポートを時々してますしね。(笑)

SL

2005年05月23日 04時17分23秒 | 日記
駅前のミグロに買い物に行こうと駅に向かったら、線路の方に煙が見えるではありませんか。バーゼルにSL登場か、と思って急いで駅に行きました。おお、何とそこにはSLが!急遽ミグロに行くのは一時中断して、ホームの方に降りて行きました。
最後尾に気動車がくっついていまして、客車は7両くらいつながっていました。列車はスイス国鉄のものです。気動車は車輪が片側に5つ付いているタイプでした。すごくきれいに整備されていまして、車輪の向こうには赤々と燃える石炭が。こっちのホームは低いので、車輪周りの構造がよく見えます。きれいに整備されているし、メカがホントに美しい!
SLがいることを知って、あちこちから人が集まって来ていました。私が高校生のころはまだ近所をSLが走っていましたけど、日本ではそれ以来一度も見ていません。こっちに来た年の暮れにドイツのダルムシュタットへ行ったとき、SLを見て驚いたことがありましたが、今日もびっくりしました。
こう言うときに限ってカメラを持ってきていないんですね。(笑)まだしばらく止まっていることを期待して、急いでウチへカメラを取りに買えることにしました。が、ウチまであと10メートルくらいのところで、何か汽笛みたいな音がして、しばらくするとSLのリズミックな音が・・・残念!!
かわりに、約160年前のバーゼル駅の絵をアップしておきます。昔のバーゼルの富豪の館が、キルシュガルテン館という名前の博物館になっていまして、そこに1840年代のバーゼル駅の絵がありましたので、こっそりと・・・
今日のSLが止まっていたのは、その絵のSLより少し東(絵で言うと奥の方)でした。

音楽を始めたころ (5)

2005年05月22日 08時24分33秒 | 随想
 3月の本番はあっけないくらいすぐに終わった。緊張していて途中のことをあまり覚えていなかったといった方が正確かも知れない。中学校の吹奏楽部でトランペットを吹いていた私は、体育館のステージには何度か立ったことがあり、それなりのステージ度胸はあったつもりだったが、音が小さいギターの演奏は今までにない経験だった。底冷えのする体育館で、もの音一つしない中、4人が奏でる哀愁に満ちたメロディが流れていた筈だが、多分演奏はボロボロだっただろう。それでも予餞会終了後同級生たちは大いに賞賛してくれたので、面映ゆいかったものの、その暖かさが嬉しくもあった。これが記念すべき私の「デビュー」演奏だった。