拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

ベームの真骨頂はライブのオペラ(カール・ベームのことその5(5で合ってたっけ?))

2021-02-02 22:11:43 | 音楽
それまでお国のために一命を賭せと生徒に言っていた教師の多くは敗戦後豹変し、いきなり「みんしゅしゅぎ」を叫ぶようになったという。また、某社の某課の課長は会議好きの支店長がいた間は毎夜日付が変わるまで会議をしていたが、長い会議を無意味と考える支店長になった途端、だらだら会議をしても意味がないと言いだして課員は早く帰宅できるようになった。また、ドンナ・エルヴィーラはドン・ジョヴァンニの後を追っかけ回しては「この男、ひどい男よ」と言いふらまいていたが、ドン・ジョヴァンニが自分のところに戻ってくると知るや一転「彼を助けてあげて」。そしてドン・ジョヴァンニだと思ったのが実は家来のレポレロと知った途端に再びドン・ジョヴァンニを糾弾する側に回った。ことさら左様に人は変わるものである。そう考えると、批評家Uは立派である。一貫してカラヤンの悪口を言い続けた。ところがこの話にはエピローグがある。カラヤン亡き後、アバドがベルリン・フィルの常任になり、さらにピリオド奏法全盛の世になった。フルトヴェングラーを絶賛し、マタイ受難曲の推薦盤としてメンゲルベルク盤を推すようなUがピリオド奏法に耐えられるはずはない。Uはそうした新しい演奏家を「新人類」と呼び、理解不能であるとして拒絶、なんと、「カラヤンのことをこれまでさんざこきおろして来たが、彼ら(新人類)に比べれれば旧人類であった」と言い出した。私はこれには笑ってしまった。「新人類」の跋扈を目の当たりにしたUはカラヤンに対してさえも懐古の念を感じたようなのだ。さて、そうしたUに対して、私は拭い去れない疑念が残る。私が最初に買ったベームの第九のレコードのライナーノートにUが「カラヤンの音は表面的にきれいだが、ベームの音はごつごつしている(だから、ベームが良い)」と書いていた話はした。問題はその先である。「だから、カラヤンはオペラが得意だが、ベームは不得手」。え?ベームがオペラが不得手?ベームは根っからのオペラ指揮者である。特にモーツァルトとリヒャルト・シュトラウスのオペラの指揮には定評がある。シュトラウスは、自作の「ダフネ」というオペラをベームに捧げたくらいである。そのベームをつかまえて「オペラが不得手」と言うなんざ、「江川の球はのろかった」「S社の株価は500円になる」と言った妄言と同じくらいの妄言である。Uは、後にこのことについて訂正をしたのだろうか。それとも、戦後の多くの教師のように何食わぬ顔で以前の発言をなかったことにしたのだろうか。さらに、レコード会社の誰かとかが原稿の校正の際に異を唱えなかったのだろうか。当時の音楽評論会の程度の低さを思い知る出来事である。まあ、カラヤンは金持ちで、自家用飛行機を操り、スポーツカーを乗り回すタイプであり(ソニーの元社長の大賀氏にカラヤンが自分のスポーツカーがどんなに早くトップスピードに達するかを自慢し、大賀氏がそれに派手に驚く様子を映像で見たことがある。因みに、大賀氏はカラヤン臨終の場に立ち会うほどカラヤンとは親しかった)、日本人はそういうタイプに反感を持ちがちである(逆に、村山富市元首相が首相でありながら質素な借家住まいであったという話には親近感を持つ国民性である)。Uだけではない。カラヤンの何回目かの来日の際、「田園」がFMで生中継され、休憩時間に、後藤美代子アナウンサーに「いかがでした」と問われた解説者Oが「カラヤンは変わった気がする。これまではお金が大事だったんではないでしょうか」と言っていた。そう言えば、大相撲の解説で、外人力士の先駆けだった高見山のことを解説者が(北の富士さんではない。もっと昔の話)、「ガイジンは金に目がないから」を繰り返していた。私は、日本人だってお金好きじゃんと思ってその解説者に反感を持った(日本人が「エコノミック・アニマル」と呼ばれるようになる直前である)。「ベームのこと」と言いながらあまりベームの話はしなかった(カラヤンとUの話が多かったかな)。最後は、たしかにベームの話で締めよう。その1。私の実家にようやくステレオが来た日、父が昔買いためてあったレコードを何枚かかけた。その中に、若きベームが振った「新世界」があった。そのジャケットのベームの写真は若者そのものであった(私にも「守ってあげたい」可愛い時があったのと同様、ベームにも若者の時代があった)。その2。ベームは「ライブの人」と言った人がいて、私はその意見に賛成である。ベームが70年代に日本でウィーン・フィルを振った中にブラームスの1番があって、未だに語り継がれている名演であった。ところがその直後に発売されたベーム&ウィーン・フィルのスタジオ録音の同曲は、気の抜けたビールのような、はたまた冷めたピザのような、どうにも食えない演奏であった。だから、私は、ベームと言う人は、ライブのオペラでこそ真価を発揮する人だと思っている。

初志貫徹、あっぱれ!(カール・ベームのことその4(つうか、カラヤンのこと?))

2021-02-02 12:13:50 | 音楽
指揮者としての最高の誉れの中、カール・ベームは1981年に亡くなった。その直後、え?と思うような話がずんどこ湧き上がった来た。発信元は、ウィーン・フィルの団員である。ベームは練習のとき、特定の団員をネチネチこきおろすのだという。新入り団員は、その格好の標的になるのだという。今でいうパワハラである。そうかと思うと、さんざ虐めた相手がベームと同郷(グラーツ)だと知ると、打って変わって可愛がるのだという。えこひいきである。パワハラとえこひいきと言ったらおよそ「人格者」にはほど遠い。こうしたたれ込みがベーム亡き後に噴出したことは、まあ、そうだろう。存命中にそんなことを言ったら楽団でやっていけないだろうし。ベームだけではない。神様・フルトヴェングラーは、若いカラヤンを警戒して徹底的に排除したという。カラヤンのことを決して「カラヤン」と呼ばず、「あのKという男」と呼んで侮蔑していたという。後輩を妬む神様はあまりかっこよくない(日本の漫画の神様・手塚治虫も石ノ森章太郎の才能を妬んだそうだが、排除したって話は聞いたことがない)。その他の指揮者についてもろくな話が出てこない。晩年はベーム以上に口をへの字にして謹厳実直そうだったクレンペラーの辞書には「倫理」という言葉はなかったそうだし、カルロス・クライバーは、ルチア・ポップのところに押しかけ同棲を試みたそうだ。その反面、フルトヴェングラーに虐められたカラヤン(少年時代の私にとって非人格者のイメージ)は、あるとき弟子の小澤征爾に電話をかけてきて、日本人のなんとかという若手指揮者の面倒をよく見てやれ、と言ったそうだ。イメージと違う。いい人じゃん。おりしも、カラヤンの実演を聴いて音楽的にも手のひらを返していた私は、人格面のイメージでもおおいにカラヤンを見直し、子供の頃、カラヤンを「ケロヨン」と言っていた自分を恥じたのであった。そこへいくと、カラヤンの悪口でご飯を食べてたと言っても過言でなさそうな評論家のUは、首尾一貫していた。カラヤンが日本で最後にベルリン・フィルを振ったとき、プログラムは三種類あった。初日は「悲愴」等、二日目はベートーヴェンの4番と「展覧会の絵」、そして私がチケットをゲットした三日目は、モーツァルトの39番とブラームスの1番(これを聴いて、私は手のひらを返して大ファンになった)。因みに、私は二日目のチケットも買ってあったのだが、チケットを買う時点ではアンチで、ロマネ・コンティを生涯で一回話のタネに飲んでおきたい、というのと同様の感じで一回カラヤンを聴いてみたい、と思っていたに過ぎなかったから、三日目のチケットをゲットした後、二日目のチケットは後輩のS嬢に譲った。すると、聴き終わったS嬢は大興奮の様子。「もしかしたら、(その日のチケットをあたしに譲った)イージマさんは、ものすごくもったいないことをしたのではないか」と思ったそうだ。その日の「展覧会の絵」は、出だしのトランペットが音をはずしたことも語り草になった。さあ、話は評論家Uのことである。彼もこのコンサートを聴いていた。私はその批評が楽しみだった。今回のツアーの演奏は真に素晴らしかった。三日目の演奏直後、コンサートマスターの横でヴァイオリンを弾いていた安永徹氏に言わせると(この方もコンマスであったが、その日はコンマス担当日ではなかった)、団員たちですら相互に顔を見合わせて「自分たちは、とてつもない演奏をするところまで来た」と語りあったそうだ。さすがのUも今度ばかりは「まいった」と言うのではないかと期待した。すると、「音が輝かしすぎるにもほどがある」。へー、音が輝かしいことが悪口になるんだ。そして、批評の最後を「演奏途中で席をけって会場を退出すべき演奏だった」で締めていた。まいったのはこちらである。首尾一貫。初志貫徹。まことにあっぱれである……ベームの話は次回で完結させよう(させたい)。「麒麟が来た」も次回が本能寺で最終回である。因みに、フルトヴェングラーが言った「あのKという男」はドイツ語ではどう言うのだろう?「der K」かな?と思っていろいろググったがいまだ不明である。それから、クレンペラーの辞書に「倫理」の二文字はなかったと書いたが私の辞書にもない。が、私はもともと偉い人ではない(誰も私に倫理を求めてない)からその点差し支えないのである。