拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

指揮者の人格・聴衆は狼(カール・ベームのことその3)

2021-02-01 07:01:36 | 音楽
ベームのレコードを愛聴していた少年の私は、ベームのことを人格者だと信じていた。反面、カラヤンは人格者でないと信じていた。その原因の多くはやはり評論家のUである。私が最初に買ったベームの第九のライナー・ノートの解説で、Uは、カラヤンをこき下ろすことによってベームを持ち上げるという手法をとった。つまり、カラヤンの音楽は表面がきれいだ。だが昔から「巧言令色仁少なし」という。その点ベームの音はごつごつしている、だから良い、という論法である。Uは巧妙である。カラヤンの音楽の悪口を言ってもカラヤンの人格のことは言ってない。だが「仁」は普通、人格について使う言葉である。中学生が誤解しても仕方がない……という話を昔音楽仲間の間でしたら、それは騙される私が悪いと言う。え?だって中学生なら騙されちゃうよと言うと、いや中学生でも騙されないと言う。世の中学生ってそんなに人間ができているものなのか。私はそうでなかった。今でもできていない。そうか、結局、中学生だからどうのではなく、個々人の資質の問題なのだろう。だったら合点がいく。私のベーム人格者説には、ベームのレコードのジャケット写真も寄与した。ベームのジャケット写真は、どれも口がへの字でいかにも謹厳実直風であった(一つだけ、にたぁと笑ってるものがあって、それは異様であった)。因みに、カラヤンの写真も笑ってはないが、目を閉じていて、瞑想風である。Cクライバーはうっすら笑みをたたえているし、小澤征爾はいつも物の怪に追われている風である。そう言えば、がっはっはと指揮者が大笑いしているジャケット写真は見たことがない。しかし、ジャケット以外では、ベームは結構笑っていた。人気絶頂の頃、奥さんとペアでNHKのインタビュー番組に登場したことがあって、特に奥さんとの話になると、形相を崩し、私が今あるのは妻のおかげ、生まれ変わってももう一度この人と結婚したいといって、そこでぶちゅーっとやった。私のベームに対する好感度は、これで一層上昇。実際、ベームは奥さんが大好きだったようで、結果的に日本での最後の指揮となったウィーンフィルとの演奏会(昭和記念講堂。ベートーヴェンの2番と7番)の終演後、ベームの体調を心配したマネージャーがベームはおねむだよという仕草をしてとっとと聴衆を帰らせようとするのを尻目に、ベーム自身は拍手に応えたくて仕方がない様子で何度もカーテンコールに登場、しまいには奥さんの手をひいて二人で現れた(そのときのいやがる奥さんの表情がまぶたの裏に焼き付いている)。因みに、演奏会の会場に私はいたのだが、カーテンコールにベームが登場するたびに居残った聴衆が絶叫するので、私もやろうと思いつつも何と言っていいのか分からない(「ブラヴォー」は頭になかった)。だから「ウォーっ」と狼の遠吠えのように吠えていた。私以外の聴衆もほとんど狼であった。こうした奥さんとのラブラブぶりも私のベーム人格説を一層確固たるものにした。Uが神様のように言うフルトヴェングラーも神様なのだから人格者だと思った。反面、カラヤン非人格者説も同じくらい確固たるものとなった(上がるものがあって下がるものがなければ帳尻が合わない)。子供の頃、カエルの着ぐるみが登場する「カエルの冒険」というテレビ番組があり、主人公はケロヨンと言った。「バイバイ」と言う代わりに言う「バーハーハーイ」は子供の間で流行っていた。私ら音楽好きの子供達は、カラヤンのことを揶揄してケロヨンと呼んでいた。さあ、それが逆転する瞬間がくる……が、既に相当な量を書いたので、その話は次回以降に。