拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

三大テナー番外編(3大テナーは1ミリも出てきません)

2021-02-25 18:31:52 | 音楽
今朝の「三大テナーその2」のスピンオフである。だから三大テナーは1ミリも出てこない。その2に書いた「女はドミンゴよ」の社長さんの話の続きである。その社長さんは、私の親世代だから、今よりもっとガチガチの男社会で戦ってこられたパイオニアである。仰ることがときどき田嶋陽子さんみたいだった。思うに、差別を無くそうと思ったとき、真ん中あたりを狙ってもなかなか社会は動かない。逆差別をめざしてようやっと真ん中あたりになるのかも。と言うのも、今、ドイツの政界には女性がたくさんいる。メルケルさんに限らず、EUのフォン・ライエンさんもそうだし(「フォン」が付いてるのは昔の貴族である)、いろんな政党の党首の多くが女性である。だが、そういう状況を作り出すために、女性の割合をこれこれにしようという数値目標を掲げたのだという。この数値目標については、そんなものを設けるのはおかしい、女男関係なく適材低所でやっていけば自然とイーヴンになるという声を聴くが、私もかつてそう思ったが、でも、ドイツの例を見ると、やはり目標設定は有用なのかな、と思う。ものごとが一方にどーんと傾いたあと(These)、今度は反対側にどーんと行って(Antithese)、で、一つ上のステージに上る(Aufheben)、というのがヘーゲルの弁証法でなかったっけ(高校時代に読んだことをうろ覚えで書いている)。因みに、私の母のすき焼きの作り方も弁証法的である。味が薄いと思うとどーんと醤油を入れて、辛くなりすぎると今度は砂糖をどーんと入れる。それでアウフヘーベンってわけである(aufhebenには破棄するの意味もある)。

三大テナーその2(容姿比較)

2021-02-25 10:03:43 | 音楽
三大テナーの容姿ときて思い出すのは35年前の某社長さん(女性)の「女はドミンゴよ」との発言。この発言は、ジェンダー差別に関心が強い現代ではなかなかの問題発言である。まず、「ドミンゴのようなイケメンでない男は女性にはもてない」の意味を内包しているから一部(大多数?)の男性への差別。それだけではない。女性だって、パヴァロッティのハイCにしびれる人がいるだろう。そういう女性の一部(少数なのだろうか、多数なのだろうか?)の存在を無視した発言でもある(私は、当時からこのことを強く思った)。だが、ドミンゴがイケメンなのはたしかである。ガタイもいい。イケメンとBusseig(ドイツ語読みしてね)とでは、(他の条件が同じなら)イケメンがいいというのも抗うことのできない真実なのだろう(中には、Busseigの方が浮気の心配がないからあえてBusseigを選ぶという人もいるらしいが)。じゃあ、パヴァロッティはどうだ?パヴァロッティは……それなりに、である(こういうフジカラーのCMがあった。樹木希林が出てた。あの頃はまだフィルムを現像してたのだなぁ)。そもそもパヴァロッティの容姿を特異なものにしてるのは、あの巨大な体躯と髭であるが、パヴァロッティは、デビュー後、しばらくは、あそこまで大きくなかったし、髭もなかった(カラヤンのヴェルレクの映像にそういうパヴァロッティを見ることができる)。私は、実は、髭がない頃のパヴァロッティのおかげでオペラファンになった者である。中一のときだった。第何次かのNHKイタリア歌劇団の公演をテレビで放送してて(NHKの招聘だから全公演を放送した)、どれも良かったが(スリオティスとコッソットの「ノルマ」とか、コッソットとクラウスの「ラ・ファヴォリータ」とか)、なかでも私を夢中にしたのが「リゴレット」。すぐさまクラスで仲間を募って文化祭にリゴレット(抜粋)をかけたくらいである。そのとき、テレビで見たマントヴァ公爵こそが髭のないパヴァロッティだったのだ。だが、そもそも初めて見るオペラだから他と比較ができない。だから、「パヴァロッティはすごい」ではなく、「リゴレット」がいいオペラだ、という感想であった。だから「パヴァロッティ」の名前は当時覚えず仕舞。困ったのは、レコードを買いに行ったときだ。テレビで見たのと同じ人で聴きたい。だが、名前を覚えてない。だから、レコードジャケットで似た顔を探した結果、これかな?と思ったのは今から思うとニコライ・ゲッダだった。だが、そのレコードは3枚組だったので買えず(予算は2枚組がやっとだった)、唯一の2枚組のショルティ盤を買ったのだが、そこでマントヴァ公爵を歌っていたのは前出のアルフレード・クラウス。そのレコードを横浜のハマ楽器で試聴したとき、やはり名前を忘れこそすれパヴァロッティの声が頭に残っていたのだろう、なに、この弱々しい声、と思ったものだ(その後、クラウスも大好きになった)。さあ、残るはカレーラスである。カレーラスは男前である。だが、他の二人と比べるとガタイがない。三大テナーの公演をテレビが放送した次の日、普段クラシックを聴かない女性の同僚が「真ん中の人(カレーラス)は、他の二人と比べるといまいちだった」と言う。私はカレーラスだって素晴らしく歌っていたと思ったが、なるほどとも思った。カレーラスは切々と歌うのが身上だが、あの山のように大きい二人の間に入っちゃうと、その切々さが逆に悲壮感を醸し出してしまう。構図的には、両腕を左右の人間につかまれて万歳をさせられた宇宙人の写真と似てると思った。そうかと言って、端っこだと、昔、世界中の首脳が一堂に会したときの日本の総理大臣みたいになってしまう。そういう意味では、そもそも「三大テナー」はカレーラスにとってよくない組合せであった。