prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「地球が静止する日」

2011年06月18日 | 映画
1951年のオリジナルでは核戦争の恐怖だったのが、リメークでは環境破壊という違いはあるにせよ、宇宙から超越的な意思と力を持つ宇宙人がやってきて、人間をいってみれば地球を蝕むガンとして扱い、他の生物たち、あるいは生命体としての地球を救うべく、手術としての破壊活動を始める、とでもいったストーリー。

どうも釈然としないのは、そういう宇宙意思とでもいったものが人間の姿をして現れる、ということ。イメージとしては神の言葉を預かる預言者なのだろうが、結局人間至上主義の裏返しにすぎないのではないか。
アーサー・C・クラークの「幼年期の終り」だと来訪者たちは姿を隠し続け、ついに見ることができたら悪魔の姿をしていた、というのが前半の終わりでクライマックスでなぜそうだったのか理由がわかる。

ここでは宇宙人が操る人間型ロボットが破壊兵器として出てきるのはオリジナルのデザインを踏襲しているが、途中から無数の飛行物体の群れになるのは聖書のイナゴのイメージに思える。

宇宙人がやってきて(自分以外の)人間たちを虫けらのように扱って、その矮小さを暴き出してほしいとでもいった欲望は、他の人間を高みから見下ろす選民意識が裏にはりついている気がするし、実際エコロジストでそういう向きなのはごろごろしている。「神」というコトバを使いにくくなったせいか、代わりに安直に地球意思とかいったコトバを持ち出している、とでもいった。

余談だけれど、UFO目撃談にせよSF映画・小説にせよ、人間以外の知的生命体がもっぱら人間型というのはそうしないと話を進めずらいという技術的な面があるにせよ、個人的には海全体が巨大な知的生命体というスタニスラフ・レムとタルコフスキーの「ソラリス」の洗礼が強烈だったせいか、人間型でない、まったく「意思」が通じない「知的」生命という方にリアリティを感じてしまう。

キアヌ・リーブスは無表情なところは宇宙人風だが、いつもそうじゃないか、とも思う。
(☆☆☆)


本ホームページ


地球が静止する日 - goo 映画