prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「処女の泉」

2010年06月23日 | 映画

オープニング、父親のわからない子供を孕んでいる女がかまどに息を吹き込んで炎を起こす、その時北欧神話の最高神オーディンの名を呼ぶ。

調べてみると、オーディンは海辺に落ちていたトリネコとニレの木の枝から人間の男女を作った神の1人だという。
復讐を心に決めた父親が一本の立木を押し倒して枝を払い、それで自分の体を叩くシーンとつながってくるわけだ。
この一家はキリスト教徒で体を叩くのはキリストの受難に自分を模するのに行ったりする行為でもあるが、この場合どうも土俗信仰の中で身を清める印象が強い。

倒れた木は娘が犯される場面で重要な役割を果たしていて、通せんぼするようにして逃げ場を塞ぎ、また枝の影が顔に映って「汚された」ニュアンスも出していた。

オーディンはフギン(思想)とムニン(記憶)2羽の大カラスと2匹の狼を連れていたといわれて、森に入る時に必ずカラスがアップで写るのも、ここからはキリスト教の世界ではないというサインなのだろう。

かまどの炎は召還された異教(キリスト教にとっての)の神の顕れで、クライマックスの殺される一人は炎に体が包まれる。短剣のデザインも土俗的なものだ。
これに対して水は清めと救済の印になっていて、クライマックスの泉の噴出はもちろん、森に入るところで川が流れているのは、「こちら」を「あちら」から守る結界の意味があるのだろう。

ベルイマン作品としては珍しく他人(ウラ・イザクソン)のシナリオによるもので、これだけキリスト教以前の信仰のニュアンスが入っているのはあまりない。
(☆☆☆☆)