『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

偉人・小野田 寛郎

2023-09-24 10:06:43 | ノンジャンル

 

 

 

「私的五連休」も
今日でおわりだが、
風邪が悪化して
二日も熱が出て
起きられなかった。

ブログを二日も
書けなかったのは、
ここ10年では初めてかもしれない。

37.7℃ほどの熱だったが、
体中がバラバラになるほどの
関節痛で、それこそ、
【欲も得もなくなる】
というほどの
病み具合だった。

まるまる三日間寝込んでいたが、
それでも、まだ、完治したとは
言い難い。

今朝は
網戸で開け放していた書斎は
なんと17℃まで下がっており、
梅雨寒む以来、はじめて
ストーヴを炊くほどだった。

おとついの深夜は
よほど具合がわるく、
寝ていて寒気がするので、
夏用の夜具をすべて
毛足の長い冬用に替え、
薄地のタオルケットから
厚地の毛布にして寝直した。

それでも、室温は
エアコンで23℃で
一定にして、常に温度計も
チェックしているのだが、
風邪による自律神経失調のせいか
快適なはずの23℃でも
悪寒がやまなかった。

37.7℃くらいの発熱でも
悪寒がすることを
初めて体験した。

きっと、酷暑の間に
暑熱順化していた神経系・内分泌系が
平温順化にシフトダウンするのに
一時的なシステム改変の負荷が
かかって、体調不良として
反映されるのかもしれない。

まして、今朝などは、
いっきに17℃まで低下して、
一日の寒暖差は7℃以上にもなる。

*

土曜の朝一で
行きつけの近所の耳鼻科に
上気道炎を診てもらおうと
出向いたのだが、
開院時の9時になっても
開いてなかったので
怪訝に思いながらも引き返した。

同じく、当てが外れた
同輩と思しき御仁がおられ、
互いに
「貼り紙もなくて、
変ですねぇ・・・」
と、首がかしげながら
駐車場を後にした。

帰宅して、
暫くしてから、
カレンダーが「秋分の日」で
祝日になってるのに気が付き、
やっと合点がいった。

変ですねぇ・・・と、
訝しさを抱いて帰った
曜日の観念のない
ジサマのほうが
まさしく
変ですねぇ・・・
だったのである(笑)。

***

そんなんで、
発熱と体痛には
市販のイブプロフェンで、
喉の腫れにはトローチで、
喘鳴にはシムビコートで、
なんとかやり過ごしてきた。

今朝は、
8時からカミさんに
信夫山まで墓参に連れられ、
痛み止めを呑んで
やっとこさ行ってきた。

ブログを書かんと
書斎に入り、
ストーヴを付け直すも
なかなか20℃にもあがらず、
セーターと厚手のジャージズボンを
重ね着して、尚且つ、ひざ掛けで
肌寒さを凌いでいる。

これでは、
暑熱順化から平温順化どころか、
一挙に亜寒冷順化しないと
カラダが悲鳴をあげてしまう。

***

たいして食欲もなかったので、
カミさんが買ってきてくれた、
好物のオハギやブドウ、
イチジク、ゼリー、
慣熟バナナで
栄養を補給していた。

三日のあいだ寝たきりで、
YouTube三昧していたが、
内科医のサイトで、
蜂蜜の抗菌作用と鎮咳作用が
処方薬をも凌ぐという医学論文が
多くあると摂取を奨めていたので、
朝・昼・晩と
備前焼のミニ・ミルクピッチャーに
一杯を服用していた。

それでも、
今週は三日の出勤日があるので、
明日は、出勤前に
耳鼻科に寄って
上気道炎のクスリを
処方してもらおうと思っている。

***

きのうは、
YouTubeで、
小野田さんに関する
ほとんどすべての動画を視聴し、
かつ、2021年の映画
『ONODA 一万夜を越えて』も
アップされていたので観てみた。

小野田さんが
ルバング島で発見され、
日本に29年ぶりに帰国したのが
1974年だったので、
自分が高3の頃で、
その様子はリアルタイムで見ている。

ジャングルから
タイムスリップしてきたような
旧日本兵の軍服姿で、
衆人に囲まれたなかで
キリリとした鋭い眼光で
スパリと敬礼した時には、
『眼下の敵』でクルト・ユルゲンスが
敵艦長に敬礼した時と同じくらい
感動的だった。

 



世界も軌跡の救出劇の
そのシーンに感銘を受け
リアル「ラスト侍」
と喧伝された。

当時は、その後の事情を
詳しく知らなかったが、
今般、病床の暇に飽かせて
逐一見てみたら、
その後の半生もまた
激動の生涯であられたことが
わかった。

51歳の
現役将校(少尉)として
世界にその姿を現した時の
猛禽のような眼光は、
2014年〈平成26年〉に
91歳で亡くなる晩年には
穏やかな好々爺のそれに
変じていた。

そして、
当時の自分の映像を振り返り、
「あれは人間の眼ではなく、
ケダモノの眼ですね」
と語ったという。

彼が、
帰国後、間もなくして、
ブラジルに移民したことは
当時、なぜだろう・・・と、
ろくろく追求もしなかったが、
その後日談も
多くのインタヴュー番組により
明かされていた。

それは、
当時の田中首相から渡された
慰労金100万と
全国から集まった1億相当を
すべて靖国神社に寄贈した事を
低脳なマスゴミに
「軍国主義の亡霊だ」
と叩かれて、
反論するのも嫌になり
辟易されられての
「国捨て」だったという。

90近い老母とも
今度こそ二度と
死に目に遭えない事をも覚悟して、
兄が移民していたブラジルへ
無一文で飛んで、
裸一貫で借金して
荒地を開梱して
30年後には立派な牧場主にまでなった。

その間には、
その侍の生き方に共感した
賢婦人と結婚もし
生涯の伴侶をも得た。

51歳からの40年間を
現代文明の時代に生き、
多くの著作を残し、
また、公演もし、
度々、帰国しては
『小野田自然塾』で
のべ2万人もの子どもたちに
キャンプを通してサバイバル術を授けた。

その切っ掛けとなった
衝撃的な事件は、
1980年の予備校生による
金属バット両親殺害事件だったという。

「なぜ、彼は、
ハタチにもなって、
家を飛び出さなかったのか・・・」
と、その自立性のなさ、
精神エネルギーの
はけ口の間違いを指摘しておられた。

教育者で地元政治家の父、
厳格な教育者で
「家名を穢すような事態になったら
これで自決せよ」
と短刀を出征前に渡した母に
育てられた小野田さんは、
そのシガラミを断ちたくて
17才にして家を飛び足して
満州で商社マンになっている。

長兄は東大医学部から
軍医の中佐に、
次兄は東大経済学部から
陸軍の大尉に・・・という、
エリート家族にあって、
自身は勉強ができなかったので、
おちこぼれて商社マンになって
ハタチで徴兵されるまでは
「前倒し」で遊びまくったという(笑)。

奥様の話では、
80歳を過ぎても
電話番号は一度聴いただけで
ぜったいに忘れなかったというから、
中野学校(諜報員養成所)で
諜報将校として鍛えられた訓練もあるが、
もともと、家系的に地頭も良かったのは
間違いないだろう。

こんな偉人、大人物である
小野田さんが、心底怒っていたのが、
小泉総理が
「命がけで解散する」
と言ってるなら、
「命がけで靖国を参拝しろ」
という事と、
戦没者慰霊祭で
「心ならずも戦地に赴いた」
という弔意に
「誰もが国のため命を捨てる覚悟だった。
心ならずも、ではない」
という事だった。


また、広島原爆記念碑の
「過ちは繰り返しません」
というのは、アメリカが言うべき
言葉だろう・・・というのである。

げに、ごもっともであった。

従軍慰安婦「問題」についても、
元将校として、貴重な証言をしておられ、
朝鮮の「置き屋」「売春業者」が
兵隊相手の商売としてやっていたもので、
軍の符牒で「朝鮮銀行に貯金してくる」
と言ったそうな。

慰安婦の存在は
戦地での強姦・暴行という
軍規に反する蛮行を防ぐために
「ガス抜き」として必要であり、
軍とは契約関係にあって、
その施設を使用するにあたっては
警備防護していたという。

当時の朝鮮の慰安婦は
現在の価値に換算すると
ひとり数億円にも相当する
荒稼ぎをしていたという。

なので、韓国の
元慰安婦やその援護団体たちが
少女の慰安婦像をデッチあげて、
世界中に「性奴隷」と喧伝しているのは、
まったく筋違いであると明言されていた。

**

クズみたいなマスゴミや
カスみたいな政治屋もいる日本だが、
それでも、小野田さんは
日本を愛しており、
この国を招来を憂いておられた。

****


豊穣の秋の実りを送ったら
リク坊から満面の笑みと
「ありがとう、おバーブ」
という動画が送られてきて、
病身のジイジもホッコリさせられた。

ほんに、孫は心のクスリである。

 


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